皆さんこんにちは。
2021年7月9日で当ブログも2周年になりました。
中世以降の奈良の歴史や遺構、街並みなどを中心にご紹介してきましたが、奈良県域ゆかりの歴史上の人物を、有名人から一般的な知名度の低い人物までこれまで数多く、とりあげてきました。
そこで今回は、これまで取り上げてきた人物を、時代を追ってあらためてご紹介していきたいと思います。
中世の人物
世阿弥~忘れられた天才
桓武天皇の長岡京遷都により、平城京は廃され、中央としての機能を失いました。
しかし、奈良時代から大きな力を蓄えた大寺院は、長岡京、平安京への移転を許されなかったこともあって大和にとどまり、やがて巨大な荘園領主へと成長します。
特に興福寺は平安時代から中世にかけて、事実上の大和の支配者となり、その門前町である奈良は、都市として大きく発展し、「南都」と称されるまでになりました。
興福寺、東大寺の全国の荘園から集まる、物資や富が、奈良の経済を支えたのです。
この経済力を背景として、奈良で発達したのが芸能でした。
寺院寺社の祭礼や神事に、芸能は欠かせません。
そのため、奈良の寺院、特に興福寺は多くの芸能集団を保護しました。
大寺院の庇護のもと、大和四座と呼ばれる猿楽集団が台頭。
その中で、新たな猿楽能を編み出し、爆発的な人気を博したのが、観阿弥でした。
観阿弥は、それまで、コントのような滑稽劇が中心であった猿楽に、精錬された歌舞音曲を取り入れ、笑いあり、涙ありの劇的なドラマ性あふれる舞台劇として、庶民から貴人に至るまで、多くの観客の心を集めました。
この観阿弥の子であり、現在能の本流ともいえる夢幻能を大成したのが世阿弥です。
当ブログでは、世阿弥の生涯を6回にわたってご紹介しました。
父の観阿弥と並んで、現在もっとも有名な能楽師であり、世界最古の演劇論ともされる「風姿花伝」の著者としても高名な世阿弥ですが、1908(明治41)年にその著書が研究者によって発見公表されるまで、一般からは全く忘れ去られた人物でした。
なぜ、世阿弥は人々から忘れ去られたのか、その生涯と、世阿弥の芸論の変遷を交えてご紹介していますので、興味のある方は是非ご一読ください。
村田珠光~侘びの発見者
続いて中世からもう一人、ご紹介したのが村田珠光です。
1423(応永30)年、奈良に生まれた珠光は、いわゆる侘茶の創始者として知られます。
それまで、茶の湯といえば、高位の武士といったセレブ達が、その財にものを言わせて収集した、煌びやかな唐物、中国製の名物を披露しあうものでした。
要するにブランドものを愛でる遊びだったわけです。
しかし、珠光は国産品の信楽焼や備前焼といった日常使いの茶器や道具を再評価し、使い込まれて「くたびれた」風合いに美を見出す、「侘び」という独特の美意識を発見したのです。
後世、武野紹鴎や千利休によって侘茶が大成され、「侘び」は、日本の代表的な美意識へと発展しました。
観阿弥、世阿弥、村田珠光は、その後の日本文化のど真ん中を形成する「美」を生み出した点で、本当に偉大な文化人ですが、高い文化が生まれる下地には、大きな経済力が不可欠ですから、やはり当時の奈良、わけても興福寺の経済力の強さが感じられますね。
戦国の人物
筒井順慶~戦国大和の覇者
平安時代末期から戦国時代まで、全国に武士の支配が広がる中、大和は興福寺を中心とした大寺院が、世俗権力として一国のほとんどを支配する特殊な状況が続きました。
しかし、全国的には室町中期から顕著になる戦国の騒乱は、大和では早くも南北朝期から始まります。
興福寺の別当(長官)を輩出してきた一乗院と大乗院の二大寺院は、鎌倉時代を通じて激しい対立関係にありましたが、南北朝時代になるとそれぞれ南朝方、北朝方に別れ、所属していた衆徒たちを巻き込んで、大和は早くも戦争に明け暮れる時代を迎えました。
この騒乱で興福寺の権威は地に落ち、それまで興福寺の支配層である貴族出身の学侶たちに従っていた、衆徒、国人といった大和武士たちの自立が顕著になります。
そして、興福寺の官符衆徒筆頭として頭角を現したのが、大和国添下郡筒井を根拠地とした筒井氏であり、戦国末期、大和の支配者となった筒井順慶が登場します。
当ブログでは、その生涯と、伊賀移封後の筒井定次について9回にわたってご紹介しました。
2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では、主要人物として扱われた順慶。
出演俳優の不祥事やコロナ禍で話数が減ってしまった影響か、順慶最大の見せ場であったはずの、本能寺の変から山崎の戦いに至る間に繰り広げられた、畿内諸大名の駆け引きや心理戦がざっくりカットされたことが、奈良県民としてはとても残念だったのですが、「洞ヶ峠の順慶」の実像について詳しくご紹介していますので、ぜひご一読いただければと思います。
嶋左近~謎多き名将
この順慶の家臣として登場し、後に石田三成に仕えて関ヶ原で西軍主力の一翼を担ったのが嶋左近です。
小説や漫画、ゲームなどで非常に有名な武将ですが、一次史料の記述が乏しく、実は多くの謎に包まれた人物であることをご存知でしょうか。
当ブログではその出自から、筒井時代、三成の時代と、数少ない当時の史料を中心に、その実像を4回にわたってご紹介しました。
フィクションでは豪傑として知られる左近ですが、史料からは、交渉術に長け、検地や徴税など、官僚的な才を発揮する左近の意外な姿が浮かび上がります。
興味のある方は是非ご一読ください。
松永久秀~大和の中世を終わらせた男
さて、戦国大和を語るうえで避けて通れない人物が、順慶以外にもう一人います。
これまた「麒麟がくる」で主要人物となり、注目度が大きく高まった松永久秀です。
当ブログでは、この一代の英雄の生涯を9回にわたってご紹介しました。
信長以前に畿内をほぼ平定し、室町将軍抜きで中央政権打ち立てた三好長慶に取り立てられ、その命を受けて大和に侵攻したのが、久秀と大和の関係の始まりでした。
「戦国最大の極悪人」というイメージが強かった久秀ですが、久秀が行ったといわれる「将軍暗殺」「大仏殿への放火」「主家三好家の衰亡」は、どれも後世の創作であることが明らかになってきており、一貫して主家三好家への忠節を失わなかった義理堅い側面が、その実像からはうかがえます。
また、筒井順慶と人生の最後に至るまで熾烈な抗争を続け、その抗争を通じて寺社の支配する中世の大和を破壊し、近世への扉を開いたのは紛れもなく久秀でした。
やはり大和の戦国史を語るうえで、外すことのできない人物といえますね。
柳生宗厳~戦国大和を生き抜いた剣豪領主
ところで、久秀の大和侵攻では、大和国人たちは筒井派と松永派に分かれて争いました。
久秀と順慶の抗争の中、大和国人でほぼ一貫して久秀について活躍した国人が、剣豪として有名な柳生宗厳(石舟斎)です。
当ブログでは大和の一国人領主としての宗厳に注目し、その生涯を3回にわたってご紹介しました。
新陰流の剣豪として非常に有名な人物ですが、大国のはざまにあって、小さな国人領主として生き残りをはかる宗厳の生きざまは非常に興味深いものがありますので、ぜひご一読いただきたいです。
豊臣秀長~大和の近世を創った男
豊臣秀吉によりほぼ天下が統一されると、畿内の主要地域は豊臣家の直轄支配を受けるようになります。
大和も例外ではなく、順慶から筒井家を継いだ筒井定次は伊賀へ転封され、代わって秀吉の実弟、豊臣秀長が100万石の太守として郡山に入りました。
郡山は順慶の時代に、大和唯一の城下町となりましたが、現在の大和郡山市中心市街地の原型を作ったのは秀長でした。
筒井氏時代までは、興福寺の門前町である奈良が、大和の中心都市として依然として栄えていましたが、秀長は奈良での商売を禁じ、郡山での商業を保護したため、郡山は大和における政治経済の中心地となりました。
この秀長時代の町割りは、現在でも大和郡山市の中心市街地にそのまま残されており、まさに郡山の町は秀長が作ったといっても過言ではありません。
藤堂高虎~忠義に生きた戦国武将
豊臣政権のナンバー2として、兄秀吉を支えた秀長は、様々な才を持つ技術官僚を多く抱えていました。
その一人が、後に伊勢、伊賀二か国の太守となる藤堂高虎です。
高虎といえば、生涯の内、何度も主君を変えた武将として知られますが、それまで一騎駆けの槍働きだけが評価されていた高虎の、築城、土木、軍事指揮から占領地統治といった人遣いの巧さを見抜き、抜擢したのがほかならぬ秀長でした。
秀長の下で出世した高虎の才は、天下人秀吉、徳川家康の目にもとまり、朝鮮の役、関ヶ原での活躍で、高虎は大大名となるのです。
高虎は自身の飛躍のきっかけを与えてくれた秀長への恩義を生涯忘れず、徳川の時代となった後も秀長の菩提を弔い続け、晩年になっても法要を欠かすことはありませんでした。
高虎は多くの主君に仕えたことから、利に敏い変節漢のように見られる向きもありますが、戦場で主君を裏切ったことはなく、自身の才を高く評価してくれた秀長、家康には、主君の最期まで忠節を尽くしています。
個人的には戦国武士でもっとも忠義心の篤い武将の一人だったのではないかと思っています。
中井正清~天下人の法隆寺番匠
さて、秀長が抜擢した人物で、後に徳川家康の下で大活躍することになる人物がもう一人いました。
伏見城、二条城、江戸城、名古屋城などの建設を指揮し、家康の天下取りを土木建築面から支えた中井正清です。
正清は代々続く法隆寺の宮大工の家に生まれました。
飛鳥時代からの伝統工法を受け継ぐ法隆寺の宮大工は、その技術の高さから各地の巨大建築の現場にもスカウトされ、正清の父も、安土城、大坂城の建設に携わった宮大工棟梁でした。
秀吉が建設を進めた京都方広寺の現場で、父とともに活躍していた正清をスカウトしたのが、当時秀吉に従属したばかりの家康でした。
秀吉は配下の武将に多くの土木作業を命じましたが、家康も例にもれず、多くの作事を命じられ、秀吉を満足させる仕事を実現できる、腕の良い大工棟梁を求めており、正清をヘッドハンティングしたのです。
関ヶ原の戦いの後、天下人となった家康の命で、正清は多くの巨大建築を、信じられないほどの短い工期で仕上げ、家康から絶大な信頼を勝ち取ります。
仕事が早いだけでなく、正清が設計した方広寺の大仏殿や名古屋城天守は、その後幾度か大地震に見舞われたものの倒壊することはなく、棟梁としての設計技術も高いレベルにあったことがうかがえますね。
近現代の人々
土倉庄三郎~明治を支えた山林王
さて、時代は下り、幕末から明治にかけ、一人の財界人が奈良県に誕生します。
川上村出身で、日本の近代的な林業を興した山林王土倉庄三郎です。
現在では全国的には無名の人物となっていますが、林業で蓄えた富は、四大財閥を凌ぐもので、板垣退助と板垣が主導する自由民権運動を、金銭面から支えるなど、多くの政治家が支援を求めて、川上村の土倉のもとを訪れ、伊藤博文、山県有朋など明治の元勲たちとも親交を持ちました。
政治運動だけでなく教育にも熱心で、奈良県初の小学校は土倉の私費により川上村に開設され、同志社大学、日本女子大学の創立にあたっては、多額の寄付を行って、新島襄や成瀬仁蔵らを物心両面から支えました。
また、奈良公園が現在のような緑あふれる都市公園としたのも、土倉のアイデアによるもので、まさに奈良県が生んだ知られざる巨人といえるでしょう。
今村勤三~奈良県再設置にささげた生涯
ところで、皆さん。奈良県は明治時代、一時期消滅していたことをご存知でしょうか。
維新後の財政難から、明治政府は県の合併を推し進め、奈良県は1876(明治9)年に堺県と合併、ついで大阪府に編入されて、消滅してしまうのです。
府税のほとんどが、大阪市付近の都市開発に費やされる中、旧大和地域は税負担に見合った開発がほとんど受けられず、発展が進まないことに不満が高まっていました。
そこで大和地域選出の府議会議員たちが中心になって進めたのが奈良県再設置運動であり、その中心人物の一人が今村勤三です。
現在の安堵町の庄屋の家に生まれた勤三は、府議会議員となったあと、奈良県再設置運動に参加。
私財を投げうって東京に長期滞在し、中央省庁に奈良県の再設置を訴えました。
奈良県と同じく一時消滅していた富山、佐賀、宮崎が分立を果たす中、奈良県の再設置はなかなか認められず、一時運動も消滅の危機を迎えましたが、粘り強い交渉の結果、1987(明治20)年11月4日、ついに奈良県が再設置されたのです。
現在、奈良県は関西広域連合にも、観光防災関係のみの参加で、全面的な参加をしていませんが、最終的に関西州をのような広域自治体を目指す動きに一定の距離を持っているのは、消滅した際の苦難の歴史が大きく影響していると思います。
淵田美津雄~数奇な生涯を送った真珠湾攻撃総隊長
さて、明治以降富国強兵政策の下、当時の少年たちのあこがれといえば軍人でした。
奈良県出身の帝国軍人で、最も数奇な運命をたどった人物が、淵田美津雄です。
当ブログでは、その数奇な生涯を9回にわたってご紹介しました。
現在の葛城市に生まれた淵田は、幼いころから海軍軍人にあこがれ、海軍兵学校に入学後、当時の新鋭兵器であった航空機と出会うことで、大きく運命が変わります。
淵田は、日中戦争で実戦経験を積み、真珠湾攻撃では空中攻撃隊の総隊長として奇襲攻撃を成功させ、航空機が主力兵器となることを示しました。
その後、南方作戦やミッドウェー海戦といった主だった海戦に参加し、被爆直後の広島、長崎へ調査のため訪れ、戦艦ミズーリでの降伏文書調印に随行するなど、太平洋戦争の重要なポイントにことごとく立ち会いました。
戦後は一転して、キリスト教伝道師として信仰の道に入り、反日感情が強かった戦後アメリカでの伝道を通じて、日米両国民の和解に生涯をささげました。
笠置山~不世出の哲人力士
戦前の少年のあこがれの的といえば、大相撲の力士もその一つに上がるでしょう。
現在、大学出身の力士は珍しくはありませんが、現役の力士でありながら大学に入学し、卒業して学士力士となったのが、大和郡山出身の元関脇笠置山です。
活躍したのは1934(昭和9)年から1945(昭和20)年にかけてで、ちょうど横綱双葉山が全盛の時代と重なります。
双葉山が不滅の69連勝を重ねていた間、出羽海部屋の参謀役として、双葉山の攻略方法を研究し、自身は一度も勝利することができなかったものの、笠置山から作戦を授けられた安藝ノ海が、作戦通りに双葉山を攻めて見事勝利を収めて名をあげました。
現役時代から相撲の技術論だけでなく、国技としての相撲の在り方など、思想論を雑誌に寄稿するなど、異色の才を示した力士でした。
引退後も年寄り秀ノ山として後進の指導に当たるだけでなく、公認相撲規則の条文化を行うなど、その知性を発揮して活躍しました。
西岡常一~薬師寺復興伽藍に挑んだ法隆寺の鬼
最後にご紹介するのが、最後の法隆寺宮大工にして、薬師寺復興に尽力した西岡常一です。
当ブログでは、その生涯を5回にわたってご紹介しました。
西岡棟梁は、先にご紹介した中井正清と同じ、法隆寺西里の地で、宮大工の家に生まれました。
幼いころから棟梁だった祖父の薫陶を受け、宮大工棟梁としてまさに英才教育を受けた西岡棟梁は、20代で棟梁となり、法隆寺の昭和の大修理という大仕事に、棟梁の一人として臨み、技術と知見を高めます。
現場で培ったその知見で、実物の形状から理屈に合わないことを主張する学者に対しては、歯に衣着せぬ物言いで反論し、「法隆寺の鬼」と恐れられました。
法隆寺の修理で培った手腕が買われ、晩年は薬師寺棟梁として復興伽藍に挑み、全国から集まった宮大工たちに惜しみなくその技術を伝え、日本の伝統工法の伝承に大きく貢献しました。
「伝える」といっても、西岡棟梁は、技術的なことを手取り足取り教えることはしません。
弟子に対しても、一度見本を見せて、同じようにやって見せろというだけで、ひたすら試行錯誤を繰りかえさせるという気の長い伝え方です。
現場で実物を見て感じたことや経験を重んじ、知識や理論にふりまわされることなく、自分で考え、答えを探し出すことを西岡棟梁は重視しました。
正しいやり方は、見本となる本物さえ残しておけば、後の大工がそれを見て研究し、必ず正解にたどり着けると、西岡棟梁は確信していました。
実際に室町時代以降失われていた槍鉋の復元は、西岡棟梁自身が、槍鉋で加工された当時の柱を観察し、研究を重ねて成功させたものです。
それだけに、寺院建築の復元にあたって、将来伝統工法が廃れることを恐れた学者が、簡単な江戸期の建築方法で復元することを提案した時、西岡棟梁は烈火のごとく怒って、反対しました。
そんなことをして見本となる本物を残さなかったら、それこそ技術が永遠に失われてしまうと思ったからです。
生涯を宮大工棟梁として全うした西岡棟梁の生きざまは、同じ法隆寺西里出身の棟梁で、野心的に栄達を目指した中井正清とは対極にありますが、どちらも魅力あふれる生き様です。
さて、非常に長くなってしまいましたが、まだまだご紹介しきれていない人物もいるかなと思っています。
有名どころでは、運慶や薬師寺復興に生涯をささげた高田好胤さんもいつかは取り上げたいと思っています。
まだまだ埋もれた偉人がいると思いますので、勉強は続きます。