大和徒然草子

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江戸を造った法隆寺番匠 中井正清

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皆さんこんにちは。

 

飛鳥時代からの建築が今なお健在な法隆寺

この建築を支えてきたのが、代々法隆寺に奉仕してきた番匠(宮大工)たちです。

法隆寺が生んだ不世出の宮大工といえば、昭和の大修理や薬師寺の伽藍復興で活躍した、西岡常一棟梁を思い浮かべる人も、多いのではないでしょうか。 www.yamatotsurezure.com

西岡棟梁が生まれた法隆寺西里の地は、もう一人、戦国時代の末に不世出の大工を輩出しています。

その名は中井正清

家康に仕えて江戸初期の多くの大規模建築の棟梁を務め、大工棟梁でありながら1000石を知行したうえ、従五位下大和守に叙任され、後に初代京都大工頭となって畿内一円の大工たちを従えました。

今回は、異例の人ともいえる法隆寺番匠棟梁、中井正清をご紹介したいと思います。

法隆寺番匠から天下人の大工棟梁

中井正清、通称藤右衛門は、1565(永禄8)年、法隆寺番匠の棟梁であった中井正吉の子として、法隆寺西里の地に生まれました。

父、正吉は安土城大坂城方広寺大仏殿の作事に法隆寺の大工たちを束ねて携わったと伝えられており、正吉の代で既に名の通った棟梁でした。

ちなみに、かの西岡常一棟梁のご先祖が、大坂城の建築に携わって口封じのため危うく殺されかけたときの棟梁が、正吉といわれています。

 

正清は1588(天正16)年ごろ、家康に謁見して200石の知行を給されたといわれています。

豊臣家お抱えの大工棟梁であった中井正吉の子として、その手腕を見込まれたものと考えられますが、200石といえば剣豪として柳生宗矩小野忠明が家康から禄を受けたのと同じ石高です。

一芸に秀でたものを、新規にを召し抱えるときの標準的な石高だったようですね。

この時期、秀吉政権下の大名として、様々な作事にあたる必要があった家康としては、優秀な大工棟梁を求めていたと考えられます。

安土城の建築に参加して、大坂城築城でも活躍し、大規模建築に実績のあった正吉の子息を、ヘッドハンティングしたともいえるでしょう。

正清としても、父から独立し、父を超えるチャンスと見たのかもしれませんね。

 

正清が歴史の表舞台に登場するのは、1600(慶長5)年に、主である家康が関ヶ原に勝利して、事実上の天下人となってからです。

同年、畿内と近江の大工支配を家康から命じられた正清は、1601(慶長6)年、家康の京都における宿舎として二条城が築城されるにあたり、その作事方、大工棟梁として抜擢されます。

1602(慶長7)年5月に着工して、わずか10か月後の翌1603(慶長8)年3月に落成させるという離れ業を成し遂げ、正清は一躍家康の信任を得ることになります。

ちなみに、この時築城されたのは現在の二条城の二の丸だけですが、それでも広大な城域に、櫓や家康の宿所となる大規模な御殿を、10か月で仕上げるのは驚異的なスピードです。

二条城築城は西国諸大名が費用と労務を負担した、いわゆる天下普請のため、多くの人員を動員できたと考えられます。

しかし、いかに人員を大量動員できたとしても、大工や職人たちをうまく統率できなければ、1年足らずの短期間で、大規模な御殿を完成させることは不可能でしょう。

棟梁として正清は抜群の人遣いの巧さを持っており、これが彼の最大の才能といえました。

 

二条城が完成して間もなく、家康は関ヶ原の一連の戦いの中で焼亡した、伏見城の再建に乗り出します。

普請奉行に藤堂高虎、そして大工棟梁には正清があたり、1602(慶長7)年6月に工事が始まって、主要な施設は早くも同年年末までに完成したといいますから、こちらも非常に短期間で仕上げたことが伺えます。

工事を急いだのには訳がありました。

翌1603(慶長8)年2月、家康は正清が再建した伏見城で将軍宣下を受け、征夷大将軍となります。

この将軍宣下式に、伏見城の再建は間に合わせる必要があったのです。

相当の突貫工事ではあったでしょうが、勅使を迎えた儀礼を執り行うに足る、相応に立派な建築に仕上げたことは間違いありません。

 

ちなみに1600(慶長5)年から1606(慶長11)年にかけて、法隆寺では豊臣秀頼からの寄進で、片桐且元を奉行とする大修理が行われており、正清は法隆寺番匠として、その棟梁を務めていました。

法隆寺の修理と掛け持ちで、二条城、伏見城の作事を、それも信じられないスピードで仕上げたというのは、やはり棟梁として非凡な才能を持っていたことを示しています。

また、家康の大工でありながら、豊臣氏からの仕事も父の頃から引き続いて請け負っていたことも興味深いことです。

これがのちに豊臣氏滅亡につながっていくことになるのですが、そのお話は後ほど。

 

1606(慶長11)年には、正清は従五位下大和守に叙任されます。

従五位下といえば、御所への昇殿を許されるいわゆる殿上人です。

古代の官制では宮殿や寺社の造営を司る「大工寮」の長官は従五位相当の位階でしたが、当時の常識では、職人である大工が就けるような官職ではありませんでした。

江戸時代では、数万石クラスの大名に匹敵する官職であり、やはり異例の待遇だったといえるでしょう。

 

家康の天下普請を支える

二条城の出来栄えに家康も満足したのか、正清は江戸城天守の大工棟梁に抜擢され、大坂城天守を超える巨大建築に挑むこととなります。

1607(慶長12)年、天守台が完成すると、5重5階(地下階を含めると6階)、棟高48メートルとされる白漆喰壁、鉛瓦の白亜の大天守を、なんと同年中に竣工させます。

これもとにかく仕事が早い。

家康は非常にせっかちな性格だったといわれています。

二条城のときもそうでしたが、正清は主君のそんな性格を忖度し、出きる限り工期の短縮に勤めたのでしょうか。

そのため、ますます家康の覚えはめでたくなっていきます。

 

同年12月に、家康の居城駿府城が失火のため、御殿と天守が焼亡すると、正清は火災からわずか2日後に駿府へ馳せ参じ、大いに家康を喜ばせました。

そして、正清は早速、その再建に取り掛かります。

この駿府城天守、御殿再建も、正清は1年足らずで完成させ、これらの功績を賞されて、1609(慶長14)年についに1000石に加増されました。

1000石といえば立派な大身旗本ですね。

領地は富雄川沿いの大和国添下郡城村、外川村(ともに現奈良県大和郡山市)、小和田村(現奈良市)に給されたといいます。

 

そして翌1610(慶長15)年、名古屋城の築城が始まり、正清は天守の大工棟梁として現場に臨みました。

名古屋城天守は棟高こそ江戸城天守を下回るものの、延べ床面積4424.5m2は日本城郭史上最大であり、5層5階地下1階、柱の数、窓の数、破風の数などが日本一を誇る巨大建築でした。

この空前絶後の大天守を、またもや正清は1年余りという短期間で完成させます。

大坂の豊臣氏との最終決戦が迫る中、対豊臣氏の重要拠点として名古屋城は完成が急がれていました。

正清は施主家康の極めて厳しい工期短縮の要望に、見事に応えて見せたのです。

家康の晩年、家康自身の寿命がいつ尽きるかというとき、類まれな統率力で多くの工人たちを率い、素早く仕事を仕上げる正清は、家康にとって非常にありがたい存在だったことでしょう。

どれだけ作業員を大量動員したところで、短期間に高品質の建築を成し遂げるには、正清の棟梁としての力量が不可欠だったのです。

 

また、江戸、名古屋については、正清は町割りも担当しています。

江戸の日本橋、京橋といった町人地の町割りは、京に倣って京間で60間四方の正方形をなし、道を挟んで向かい合わせの区画を一つの町とする、いわゆる両側町となりましたが、この町割りは、正清の手にによるものです。

また、名古屋においても町割りを担当したといわれ、建築ばかりでなく、町づくりでも大いに家康の覇業に貢献して、家康に「何事も御普請方之儀、大和次第」と言わしめるほど、絶大な信頼を得ることになるのです。

方広寺再建と大坂の陣

1608(慶長13)年、火災によって焼失した方広寺の大仏と大仏殿が、豊臣秀頼によって再建されることになり、普請奉行に片桐且元、大工棟梁は正清が務めることになりました。

焼亡前の方広寺大仏殿は、正清の父、正吉が棟梁として設計施工した巨大建築で、伏見城が全壊した1596(文禄5)年の慶長伏見地震では、中の大仏が倒壊したものの、大仏殿は倒れず残っていたのですが、大仏再鋳造中の事故で火災が起こり、焼失していました。

その再建を正清が担うことになり、親子二代にわたって、方広寺の大仏殿建築に取り組むことになったのです。

工事は順調に進み、1612(慶長17)年に大仏と大仏殿が完成、1614(慶長19)年には梵鐘も完成して、あとは開眼供養を待つばかりとなりました。

しかし、ここで「待った」をかけたのが、大工棟梁として開眼供養に向けた諸行事に奔走していた正清でした。

正清は大仏殿の棟札に自分の名が無いことに不満を訴え、棟札と鐘銘の写しを駿府の家康に送ったのです。

この正清の行動がきっかけとなって起こったのが、かの「方広寺鐘銘事件」です。

家康は、棟札と鐘銘に問題ありとして、開眼供養の延期を命じ、徳川家と豊臣家は一触即発の状況になりました。

家康が問題とした点で有名なのが、「国家安康、君臣豊楽」の鐘銘ですが、もうひとつ、正清が強く訴えた棟札に棟梁の名を入れなかった事も、政治問題化させて、豊臣方に難詰したのです。

 

さらに大坂の陣の勃発直前、正清は父正吉が設計した大坂城の絵図を作成して、家康を喜ばせたほか、いざ戦いが始まると、大坂城西側に広がる湿地帯を干し上げようと、大和川のせき止めを進言したり、冬の陣の後、外堀を畳や木材など破却した建築物の建材で埋め立てることを献策するなど、大工ならではの視点で、家康最後の戦いをサポートしました。

 

家康にとって生涯最後の大仕事となる「豊臣氏滅亡」に対して、きっかけ作りから、大阪城を「裸城」にするところまで、正清の貢献は非常に大きなものとなりました。

 

紫宸殿の造営と東照宮

 

時代は少し前後しますが、1613(慶長18)年、正清は内裏の作事の棟梁を務め、紫宸殿を建設しています。

この建物は後に仁和寺に移築され、仁和寺金堂(国宝)として現存し、仁和寺を代表する建築として知られます。

移築の際に檜皮葺から瓦葺きに葺き替えられたものの、現存する紫宸殿建築としては最古の建築であり、世界遺産を構成する建築ともなりました。

 

豊臣家を滅ぼし、後顧の憂いを絶ちきった家康は1616(元和2)年、世を去ります。

家康は死後、東照大権現として祀られ、久能山東照宮に葬られましたが、この霊廟の造営も、やはり正清が棟梁を努めました。

1617(元和3)年、久能山東照宮日光東照宮の造営を行い、主君家康に最後の奉公を努めます。

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正清が亡き主君のために心血を注いで建設した久能山東照宮社殿は、現在国宝として現存し、その後全国に広がる権現造様式の先駆けとなりました。

また、正清が建設した初代日光東照宮の社殿は、家光の時代に行われた日光東照宮の大改築に伴って上野国世良田(現群馬県太田市)に移築され、現在は世良田東照宮の社殿として、国の重要文化財となっています。

 

1619(元和5)年、正清は55歳で世を去りました。

以後子孫は、京都に置かれた中井役所で、五畿内と近江の大工を統率し、中井家による畿内の大工支配は、幕末まで続くことになるのです。

 

大工棟梁として

 

法隆寺の大工棟梁の子に生まれ、天下人家康の優秀な技術官僚として、異例の出世を遂げた中井正清。

実際の大工としての技量はいかほどのものだったのでしょう。

 

正清と同じ、法隆寺西里が生んだ名工西岡常一棟梁が、直接正清を論評したわけではないですが、正清の関係した作事について、いくつか言葉を遺しています。

西岡棟梁といえば、法隆寺の昭和の大修理で、先人たちの技術に直接触れ、その知見や技術を深めていったことで知られます。

法隆寺は飛鳥の創建から昭和に至るまで、各時代で大小の修理を経ているわけですが、各時代の修理の内、「やっつけ仕事の典型で、何度かの法隆寺修理のうち、これがいちばんおそまつだった」と、ばっさり切り捨てたのが、正清が担った慶長の大修理でした。

部材は全て安上がりの、杉や松で間に合わせ、その他の部位も、ちょっとの間持てばいいという適当なもので、昭和の修理の時にはボロボロになっており、表面的な飾りなどは取り替えて、それらしく仕上げたものだったそうです。

もっとも西岡棟梁自身の見解は、この時の修理は家康が豊臣家の財力削減を目当てに命じたものであり、その狙いを察した普請奉行の片桐且元が、徹底的に手抜きした結果であろうとして、社寺建築の仕事に政治が絡むと、ろくでもないことになる、としています。

 

また、西岡棟梁は耐震性、耐久性の高い構造として、法隆寺薬師寺東塔などの古代建築を高く評価した一方で、もっとも酷評したのが日光東照宮でした。

 

建築物は構造が主体です。(中略)それが構造をだんだん忘れて、装飾的になってきた。一番悪いのは日光の東照宮です。装飾のかたまりで、あんなんは建築やあらしまへん。(『木に学べ』小学館文庫より)

 

と、散々ですね。

西岡棟梁は時代が下るにつれて、建築が徐々に耐久性を求める構造よりも、表層的な意匠や、経済的に効率よく仕上げることへ関心が移っていったとみており、そういった傾向に大変批判的でした。

「構造<意匠」の究極型を日光東照宮に見たのでしょう。

 

しかし、正清の名誉のために断っておきますと、正清の担った代表的な建築で、地震のために倒壊したものはありません。

方広寺大仏殿は、1662(寛文2)年、京都を襲った最大震度6の寛文京都地震で、中の大仏がまたもや倒壊したものの、大仏殿は倒壊しませんでした。

この大仏殿は1798(寛政10)年、落雷による焼失まで、200年近く京都にそびえ続けたのです。

 

また、正清が手掛けた最大の建築である名古屋城天守は、1707(宝永4)年に発生した南海トラフ巨大地震である宝永地震や、1891(明治24)に発生した日本史上最大の活断層地震である濃尾地震にも耐えました。

ともに最大震度6以上で名古屋を襲い、市街で大きな被害を出したものの、天守は大した損傷もなく健在でした。

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名古屋城天守は1945(昭和20)年5月の名古屋大空襲で、残念ながら焼失しましたが、焼失前の写真を見ても大きな歪みなどは見られず、これほどの巨大建築で何度も大きな地震や台風に見舞われながら、300年以上もその威容を保ち続けたのは、ひとえに正清の構造設計の卓越ぶりを示すものと言えるでしょう。

 

西里の生んだ宮大工の巨頭、中井正清と西岡常一は、同じ法隆寺宮大工の出身でありながら、非常に対照的な人生に見えます。

西岡棟梁は、一時期、県の職員にならないかという話がありましたが、安定した宮仕えを固辞して、生涯、一宮大工としての人生を選びました。

一方、中井正清は積極的に権力者に近付き、その天下統一事業に積極的にかかわって、自身の栄達も、子孫の繁栄も図りました。

しかし、両者には決定的な共通点があります。

それは、施主の思いに最大限応えるということです。

 

西岡棟梁は、法隆寺法輪寺薬師寺の修理、再建で、施工方法など多くの学者と激しく論争しましたが、最終的には施主である寺側の意向に必ず従っています。

薬師寺の金堂再建にあたって、「木にコンクリートをつぐ」建築を大いに不満を抱きながらも、実現させてみせました。

正清はといえば、家康からの厳しい工期短縮の要請に見事に応え、二条城、江戸城名古屋城などの巨大建築を、どれも信じられないスピードで仕上げています。

いつ戦争が起こるかわからない戦国期にあって、城郭の工事は一刻を争うものであり、手早く、きちんとした仕事を仕上げることが、正清にとって主君であり施主である家康へ、大工棟梁として最大の奉仕だったのでしょう。

 

中井正清は、間違いなく法隆寺が生んだ、宮大工の巨頭であったといえるでしょう。