筒井氏が織豊政権のもと近世大名と化したことにより、興福寺を紐帯とする大和国人の連帯は急速に薄れていきました。
そして1585(天正13)年8月に筒井氏が伊賀転封となり、豊臣秀長が大和に入国して豊臣政権による大和直轄化が始まります。
筒井氏に従って多くの大和国人が大和を去り、残った国人も豊臣の直臣となりました。
1595(文禄4)年に秀長の養嗣子であった秀保が急死すると大和豊臣家は断絶しましたが、大和郡山には豊臣政権五奉行の一人、増田長盛(大和郡山20万石)が入って引き続き豊臣政権による直轄化の流れは止むことはありませんでした。
賤ヶ岳の七本鎗の一人、平野長泰(田原本5000石)や旧河内畠山氏家臣で秀吉配下となっていた神保相茂(池尻・現橿原市6000石)や秀長の元家老・桑山元晴(御所8000石)らが大和各地に入り、他国出身の領主が急増して大和の中世的な国人による支配は解体されていきます。
そして、戦国末期まで生き残った大和国人たちの運命を大きく変えたのが、関ヶ原の戦い、大坂の陣という二つの大戦でした。
関ヶ原の戦いと大和国人
天下人・豊臣秀吉の死後、次代の天下人を狙う徳川家康を討つべく、豊臣政権の奉行であった石田三成が1600(慶長5)年に挙兵し、全国の大名が東西に二分して関ヶ原の戦いが勃発しました。
大和最大の大名で豊臣政権の五奉行だった増田長盛が西軍・石田方に付いたこともあり、大和在国の箸尾為綱、片岡春之など多くの大和国が西軍方に付きます。
また、1590年頃までに筒井氏配下から離脱していた元大和国人の島左近は、石田三成に仕え、石田勢の主力部隊を率いて関ヶ原本戦に臨みました。
一方、伊賀の筒井定次は三成挙兵時に家康の会津征伐に参加していたこともあって東軍・徳川方に付きます。
元々大和国人ではありませんが、田原本の平野長泰や御所の桑山元晴、十市郡の神保相茂、秀長の家老格だった高取城主・本多俊政は会津征伐に同行していた関係で東軍に属しました。
また、島左近と同様に筒井氏から離脱した松倉重政は東軍に単身参陣したほか、柳生庄を父・石舟斎の時代に没収され、徳川家康に仕えていた柳生宗矩は、戦前に大和で西軍の後方かく乱工作を行い、関ヶ原本戦では家康本陣に身を置きました。
柳生氏同様、秀長の大和入国時に本領の宇陀を退去していた秋山直国(右近)は、宇陀退去後に家康に仕えていたらしく、会津征伐に同行して関ヶ原本戦には福島正則隊に同行して東軍として参戦しました。
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、西軍に付いた増田長盛をはじめ、箸尾為綱、片岡春之ら多くの大和国人が改易されて牢人となり、その旧領の大部分が闕所(けっしょ)となって家康の管理下に入ります。
東軍に付いた平野長泰や本田俊政は本領を安堵。桑山元晴、神保相茂は本戦の武功で加増を受けました。
そして柳生宗矩は秀長の時代に失った柳生の旧領2千石を回復し、松倉重政は五條二見に1万石を与えられ大名となります。
秋山直国は十市郡石原田等(現橿原市、桜井市)に3千石を与えられました。
また、豊臣家臣で家康に協力した武将たちにも、家康は大和国内の旧西軍方の闕所から領地を与えました。
関ヶ原の戦い前後で豊臣氏と徳川氏の外交交渉で活躍し、豊臣氏存続に奔走した片桐且元は豊臣氏家老に抜擢され、国外の旧領1万石に加えて平群郡1万8千石を与えられ竜田城を本拠とし、その弟・貞隆は小泉1万石を与えられます。
その他、秀長の元家老格の桑山一晴は、和歌山から大和新庄1万石に移り、信長の弟・織田有楽斎は関ヶ原の武功で現在の山辺郡、式上郡を中心とした地域(現在の天理市南部から桜井市北西部)に3万2千石を与えられ、宇陀には福島正則の弟・高晴が3万石で入りました。
宇陀松山は高晴の時代に城下町が本格的に整備され、城と城下の名前が「松山」と改められます。
家康の管理下に置かれた広大な大和の旧西軍方闕所は、奈良代官となった大久保長安の支配に置かれることになりました。
ちなみに長安は大和出身の金春流猿楽師の子として生まれ、武田氏を経て家康に仕え、鉱山開発や領地経営に手腕を発揮、家康時代の吏僚的職務を一手に引き受けた人物です。
関ヶ原の戦いの結果、大和から有力な大和国人は一掃され、豊臣直臣を中心とした親徳川派勢力で占められることになったのです。
筒井氏の改易
伊賀に移った筒井氏も関ヶ原の戦いでは東軍主力の一隊として参加しました。
西軍・石田隊の主力を率いる島左近とも干戈を交えたかもしれません。
戦後、定次は伊賀一国を安堵され1603(慶長8)年には、江戸幕藩体制下で最高の家格である国持大名となり、伊賀守に叙任されます。
しかし1608(慶長13)年、定次の重臣・中坊秀佑が幕府へ定次の不行跡を訴えると、幕府はこれを認めて筒井氏を改易。定次と嫡男・順定は、筒井氏に替わって伊賀を与えられた藤堂高虎(鳥居忠政との説もあり)の下に預けられることとなりました。
筒井氏の改易については、来るべき豊臣秀頼との決戦に備え、大坂と東国を結ぶ要地である伊賀から筒井氏を排除しようとした江戸幕府の策謀との認識が通説になっています。
定次は秀吉の信任が厚かった武将で、関ヶ原の戦い後も徳川氏に臣従する一方で、大坂の秀頼にも挨拶を欠かさず、江戸幕府の目には、いざ大阪と決戦というとき、どちらに付くかわからない存在と映っていました。
そこで、筒井氏家老の中坊秀佑を抱き込んで主君を讒訴させ、定次改易後は筒井氏同様に豊臣恩顧の大名ながら当時家康が最も信任していた藤堂高虎を伊賀に入れ、親豊臣派への刺激を避けながら国主を新徳川派の大名に入れ替えを図ったのでしょう。
高虎は伊賀入国後に上野城の大改修を実施、城の西側を特に強化して、豊臣政権にとって東の防衛拠点であった上野城を大坂方を封じ込める拠点へと変貌させました。
主君を改易に追い込んだ中坊秀佑は、吉野郡竜門郷(現奈良県吉野町)に3500石を与えられて幕臣となり、大和、近江の徳川氏直轄領の代官となります。
秀佑の抜擢は筒井氏改易の「功」とも言えるでしょう。
しかし秀佑は、筒井氏改易の翌1609(慶長14)年に、伏見で旧筒井家臣によって暗殺されてしまいます。
筒井氏の改易後、その家臣のほとんどが牢人となりました。
故地の大和へ帰国後帰農したり、親族の援助を受けながら牢人生活を送るなど困窮する者たちが多い中、主家を改易させながら徳川氏から優遇を受ける秀佑は相応の恨みを買っていたのでしょう。
秀佑死後、家督は嫡男・秀政が継ぎ、大和、近江の代官職を引き継いだほか、後に初代奈良奉行となりました。
旧筒井家臣で牢人となった旧大和国人の内、中坊氏以外で徳川氏の大身旗本となった一族に井戸氏があります。
順慶の代に活躍した当主・井戸良弘は松永久秀との抗争で活躍しましたが、その子・覚弘は定次に従い伊賀へ移り、筒井氏改易後は柳生谷に隠棲しました。
1609(慶長14)年に家康に召されて江戸へ下向し、常陸国真壁郡と下野国都賀郡に3040石の領地を与えられ、関東の大身旗本として幕末まで家名を残します。
幕末の当主・覚弘(井戸氏は歴代当主に良弘、覚弘が複数登場するのが特徴的な一族です)は長崎奉行や江戸北町奉行を歴任して日米和親条約締結に至る外交交渉にも携わりました。
さて、伊賀に転封された筒井氏は改易され筒井宗家は断絶しましたが、筒井氏の名跡は一族で福住(現天理市)の領主だった筒井順斎(福住順斎・紀伊守)により残されます。
18世紀末に編纂された江戸幕府の公式家譜集である『寛政重脩諸家譜』によると、順斎の父・福住順弘は筒井順昭の実弟で、幼主・順慶を後見した筒井一門の筆頭格・福住宗職の養子に入った人物でした。
順斎はその次男で跡継ぎのない従兄弟・順慶の養子となりましたが、同じく従兄弟の定次が筒井氏家督を継ぐと、筒井氏の伊賀転封には同行せず福住に残ります。
筒井順興の孫で血統的にも筒井宗家に近い順斎は、家督争いの対象者として定次とその近臣から警戒されていたのかもしれませんが、伊賀に移った宗家とは距離を持ちました。
1604(慶長9)年に作成された年貢の基礎資料である『慶長郷帳』の山辺郡の領主に「筒井紀伊守」とあり、これは順斎のことであろうと考えられます。
1592(文禄元)年に順斎は家康の異母妹・市場姫を妻に迎え、武蔵国足立郡に1000石を与えられました。
関東の大大名である家康の妹と大和の山間地域の小領主では、全くつり合いが合わない婚姻ですが、順斎が筒井氏宗家に近い血筋であることから、当時、有力家臣が次々に出奔するなど家中に内紛を抱えていた伊賀の筒井氏で万一お家騒動が発生した場合には、順斎が後継となることも十分に考えられ、家康にとっても関係を深めておいて損のない相手だったとも考えられるでしょう。
順斎は関ヶ原の戦いでは上杉討伐に従軍。家康の縁戚でもあったことから東軍に参加。
1610(慶長15)年に世を去って、家督は、嫡男・正次が継ぎました。
なお、18世紀初頭の軍記物『和州諸将軍伝』には、福住順弘の子・定慶が順慶の養子となり家康の命で、筒井氏改易後に筒井氏名跡を継いだとされています。
『和州諸将軍伝』は軍記物で内容の信憑性に欠けますが、その事績から定慶は正次と同一人物と見てよいでしょう。
大坂冬の陣
さて、1614(慶長19)年11月、豊臣秀頼と徳川家康の関係が破綻すると、戦国時代最後の大戦となる大坂の陣が始まります。
秀頼は諸国から牢人を募り、大和からは関ヶ原後に旧領を失った箸尾為綱(高春)、片岡春之の他、筒井氏改易後に牢人となった布施春行ら筒井旧臣たちも大坂城へ入城しました。
一方、大坂の陣開戦直前、大和の情勢は下図の通り旧豊臣家臣が大勢を占めました。
しかし、徳川氏との融和を図っていた片桐兄弟は開戦直前の10月に大坂城を退去し、家老格で大坂城に残った柳本の織田有楽斎は徳川氏に密かに内通し、他の豊臣旧臣の武将たちも大阪方に呼応するものは現れませんでした。
旧大和国人の柳生宗矩、中坊秀政、秋山直国は江戸幕府の幕臣・旗本であり、松倉重政や筒井正次も家康との関係が深く、大和で大坂方に付く大身の武士は全く現れなかったのです。
それでも家康は、筒井旧臣が多数大坂城に入り、その一族の多くが帰農している大和国内の情勢を楽観視していなかったのか、福住の筒井正次を郡山城代に任じて、与力36名とともに入城させます。
家康は筒井順慶の入城以来、大和における近世武家政権支配の象徴でもある郡山城へ、筒井氏の一族を入れることで、大和国内の安定化を期待したのでしょう。
また、田原本の平野長泰は秀吉子飼いの武将であったことから戦中の寝返りを警戒され、福島正則や加藤嘉明ら他の秀吉子飼いの武将同様、江戸にとどめ置かれて大坂への参陣を許されませんでした。
家康は11月15日に京都・二条城を出立し、奈良を経由して大坂へ布陣。
対する豊臣氏9万が籠城する大坂城の守りは固く、戦線は膠着して12月には大坂城の堀の埋め立て、家老の大野治長、織田有楽斎の身内から人質を出すことを条件に和議が結ばれました。
大坂冬の陣が終わり、大坂城の堀の埋め立てや牢人衆の処遇を巡って東西の緊張が再び高まる中、翌1615(慶長20)年3月5日、改易後に幽閉されていた筒井定次と順定父子が、豊臣氏と内通していた嫌疑で自害を命じられ、筒井氏本宗家は滅亡します。
定次父子の遺骸は、筒井順慶の菩提寺である奈良の伝香寺住職によって大安寺に葬られ、伝香寺には石塔が建立されたと伝わります。
幕府の目を憚り、石塔には定次の名は刻まれませんでした。
その石塔は昭和30年代の道路拡張によって一部欠損しましたが現在まで残されています。
江戸時代、その名を石塔に刻むことさえ憚られた定次でしたが、2014年、定次400回忌を迎えるにあたり、新しく伝香寺境内に定次を偲ぶ五輪塔が建立されました。
改易の経緯や、定次の後に伊賀に入った藤堂高虎によって伊賀時代の定次の事績の多くが闇に葬られてしまい、暗愚な大名というイメージが定着している定次ですが、家督継承後、数多くの外征で武功をあげ、伊賀転封後も上野の町を開府し、信長、秀吉も統治に手を焼いた伊賀国を短期間で鎮めたという実績からは、その人物像が死後、必要以上に貶められた感がします。
大坂夏の陣
大坂冬の陣後、大坂城に入った牢人の処遇や秀頼の転封問題をめぐり、豊臣氏と徳川氏の交渉は難航しました。
1615(慶長20)年4月には織田有楽斎が大坂城を退去し、いよいよ東西手切れが確実な状況となります。
戦いの再開が避けられない状況で、大坂方は郡山城代の筒井正次に寝返りをもちかけましたが、正次は寝返りを拒否しました。
正次の調略に失敗した大坂方は、4月26日に大野治房、箸尾為綱(高春)らを主将に旧大和国人の布施氏、万歳氏らを中心とする2千の兵を郡山城へ向け派兵します。
正次は筒井氏の旧臣や筒井氏に旧恩を感じた百姓などの協力も得て、1千の兵で郡山城に籠城の構えを見せました。
兵数だけ見れば郡山城で防戦は可能な兵力差で、御所、新庄の桑山氏や五條の松倉重政らの後詰を期待できる状況でもありました。
しかし、生駒山の暗峠を越えてくる大坂方の兵数を数万規模と見誤った正次は、郡山城での防戦を不可能と判断してしまいます。
ここで正次は「大軍の他国衆を迎撃する際には東山中の山城に籠る」という伝統的な筒井氏の戦術を選択し、郡山城下や大阪方の進軍ルートと予想された龍田、法隆寺近辺を焼いて郡山城を退去して本拠の福住へと撤退しました。
翌4月27日、郡山城に大坂方は攻撃を開始し、戦国最後の合戦となる大坂夏の陣の火蓋が切られます。
僅かな城兵しか残っていない郡山城は瞬く間に陥落し、大坂方は奈良に向かって進軍しましたが、五條の松倉重政や京都方面から水野勝成ら徳川方の援軍が駆け付けると大坂方は撤兵しました。
筒井正次は敵兵の数を見誤り、小勢の敵に一戦も交えることなく郡山城を捨てたことに責任を感じたのか、5月3日に自害しました。
5月に入ると、上方に集結した徳川方は淀川左岸から河内に入り、高野街道を進む河内方面軍と、大和から奈良街道を西進する大和方面軍の二手に分かれて進軍を開始。
紀伊・和歌山からは浅野長晟の軍が北進して、徳川方は三方から大坂城を目指します。
徳川方の大和国衆である松倉重政、神保相茂、桑山元晴、桑山一直、秋山直国らは、敵地に近い領主が先鋒を務めるという戦国の慣習に従い、大和方面軍の先鋒大将・水野勝成の配下に入りました。
現在の国道25号線とほぼ同じルートで河内へ侵攻した徳川方の大和方面先鋒軍は、5月6日早朝には国分(現柏原市)まで進出し、道明寺(現藤井寺市)付近で大坂方・後藤基次(又兵衛)隊と激突します。
大坂夏の陣の激戦の一つである道明寺の戦いは、大坂方・後藤基次隊による徳川方・松倉重政、奥田忠次隊への攻撃から始まりました。
後藤隊の猛攻で奥田忠次は討死、松倉重政も潰走の危機に瀕しましたが前戦を維持すると、水野勝成らの援軍が駆け付けて後藤隊を押し返します。
道明寺の戦いは5月6日正午過ぎに、後藤隊の壊滅で徳川方の勝利に終わりますが、徳川方の被害も大きく、大和国衆では秋山直国が戦死しました。
翌5月7日、大坂夏の陣最後の決戦となった天王寺・岡山の戦いでも、神保相茂が明石全登隊との激戦で戦死するなど、大和国衆の戦死が相次ぎます。
天王寺・岡山の戦いで、真田信繁ら大坂方の主だった武将は戦死、行方不明となり、翌5月8日継戦能力を失った大坂城はついに陥落して、大坂夏の陣は終わりました。
大坂方に付いた箸尾氏、片岡氏、布施氏らのその後については、確かな史料に記録がなく、戦死もしくは逃亡、あるいは大和へ戻って帰農したと考えられます。
いずれにせよ、大名への復帰は果たせず歴史の表舞台から姿を消しました。
一方、徳川方に付いたものの、宇陀松山の福島高晴は戦後間もない6月25日に、大坂方と内通の嫌疑をかけられ改易。領地は没収のうえ伊勢山田に蟄居を命じられ、その地で一生を終えます。
居城の宇陀松山城は小堀遠州らの指揮のもと、徹底的に破却されました。
関ヶ原の戦い、大坂の陣は、中世以来の大和国人たちの運命に大きな影響を与えました。
室町時代から戦国時代にかけて大和の武家支配をリードした、筒井氏、十市氏、箸尾氏、越智氏、古市氏は、いずれも大名として家名を残すことができず、江戸を迎えるまでに大和の歴史から姿を消していきます。
室町時代以来の故地を江戸時代から明治まで維持できたのは、わずかに柳生氏一家だけだったのです。
参考文献
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