大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

大和武士の興亡

江戸時代の大和と大和国人の末裔たち~大和武士の興亡(21)

大坂夏の陣が終わった後、江戸時代に大和で大名、旗本として残った旧大和国人は柳生氏と中坊氏だけでした。 江戸時代、新たな領主として大和に入った大名や天領の支配、そして大和を去った国人たちのその後を紹介します。

大和国人たちの運命を決した関ヶ原の戦いと大坂の陣~大和武士の興亡(20)

筒井氏の伊賀転封によって大和国は中世以来の国人支配が解体され、近世武家政権による支配が始まります。 関ヶ原の戦い、大坂夏の陣と戦国の最末期に起きた大戦で、大和国人たちはどのような活躍を見せたのかを紹介します。

大和武士の黄昏。豊臣政権下の大和国衆と筒井氏の伊賀転封~大和武士の興亡(19)

筒井順慶が織田信長、豊臣秀吉に臣従することで大和では興福寺を中心とした中世的支配が崩壊し、近世武家政権による支配が確立する。 順慶死後、筒井氏は伊賀に転封され大和には豊臣秀長が入り豊臣政権による大和直轄化が進行して中世以来の大和国人たちは歴…

筒井氏の近世大名化と中世大和の終焉~大和武士の興亡(18)

松永久秀滅亡後、知行宛行権を除く広範な大和の支配権を織田信長から認められた筒井順慶は、信長政権のもとで急速に近世大名への道を歩みます。 順慶によって大和の中世は終焉を迎えることになるのです。

筒井順慶の大和制覇~大和武士の興亡(17)

大和で1559年から続く筒井順慶と松永久秀の抗争は1571年辰市城の戦いで順慶が久秀に勝利したことで大きく筒井氏の優勢に傾きます。 織田信長が大和支配で順慶を重用する一方、劣勢の久秀は1577年、居城・信貴山城に籠って信長に反旗を翻しました。

筒井順慶、松永久秀の激闘~大和武士の興亡(16)

1564年から70年にかけ、大和で繰り広げられた筒井順慶と松永久秀の一進一退の攻防を紹介します。 三好長慶の死から大きく畿内の情勢は動き出し、三好家中で孤立した久秀に順慶の反転攻勢が始まります。

松永久秀の大和乱入~大和武士の興亡(15)

1550(天文19)年に大和を統一した筒井順昭が28歳の若さで死去すると、2歳の遺児・順慶が当主となります。 一族・家臣の支えで筒井氏による大和の平和は守られましたが、1559年松永久秀による大和侵攻でその平和は打ち破られました。

戦国大和の覇者・筒井順昭~大和武士の興亡(14)

木沢長政の死後、大和で台頭したのが筒井順昭でした。順昭は長政派の残党を掃討しながら勢力を強め、元々同格の有力国人だった箸尾氏、十市氏、そして最大のライバル越智氏を降してわずかか4年で大和統一を果たします。 順昭の大和統一事業と最期を紹介しま…

木沢長政の大和侵攻と歌人大名・十市遠忠の奮戦~大和武士の興亡(13)

享禄・天文の畿内の混乱から下剋上を果たした木沢長政は、信貴山城を築いて大和への侵攻を開始する。 筒井氏を始め多くの国人たちが長政に従う中、十市遠忠は龍王山城を拠点に敢然と立ち向かい、十市氏を大和有数の戦国大名へと成長させた。 また十市遠忠は…

柳本賢治の大和侵攻と天文一揆~大和武士の興亡(12)

明応の政変以来続く他国衆による大和侵攻の流れの中、1528年には筒井と越智の戦いで混乱する大和へ柳本賢治による大和乱入、1532年には一向一揆が相次いで勃発。 筒井、越智を中心とした大和国人の動向を畿内の政治情勢と併せて紹介します。

大和国人一揆崩壊と薬師寺炎上~大和武士の興亡(11)

永正の錯乱以降の混乱で細川京兆家家督を握った細川高国も、家中の混乱を宿敵・細川晴元、三好元長主従に衝かれて京都を追われます。 畿内が混乱する中、筒井順興は越智家頼との同盟を破棄して再び筒井と越智の抗争が再燃。 再び大和の争乱が激しくなる中、…

両細川の乱と戦国大和の争乱~大和武士の興亡(10)

永正の錯乱で細川政元が暗殺され勃発した細川高国と細川澄元の細川京兆家家督を巡る争いは幕府と畿内全域を巻き込む争乱へと発展します。 激動の畿内の戦国史を大和武士の活躍を中心に紹介します。

細川京兆家の分裂と大和国人一揆の終焉~大和武士の興亡(9)

永正の錯乱により赤沢朝経が死亡すると一度は領地を追われた大和国人一揆は故地に戻ります。 細川氏の分裂によって混迷を極める畿内の戦乱に巻き込まれていく大和国人たちの活躍を紹介します。

大和国人一揆・赤沢朝経の猛威~大和武士の興亡(8)

応仁の乱から明応の政変と戦国の争乱が進む中、ついに大和の領地が他国衆に知行される事態が発生します。 1499年に畠山尚順に与する筒井党を討伐するため大和へ乱入した細川政元家臣の赤沢朝経は北和を席巻して寺社を焼き、反抗する国人の土地を自領としまし…

明応の政変と越智氏の没落~大和武士の興亡(7)

応仁の乱後、将軍・足利義尚、大御所・足利義政が相次いで死去すると、足利義視の嫡男・義材が11代将軍となります。 しかし新将軍・義材は幕府の実力者である日野富子、細川政元、伊勢貞宗らの支持を得られず、河内へ親征中にクーデターを起こされ、将軍の座…

筒井党の没落と山城国一揆~大和武士の興亡(6)

1477(文明9)年11月、応仁元年以来11年続いた応仁の乱は、外形上東軍・幕府方の勝利で終結し、京都での戦闘は終結しました。 しかし、大乱以前から続く畠山義就と政長による家督争いはなおも続き、京都を去った義就は幕府に反乱したまま、河内、大和を実力…

応仁の乱・激戦地の大和~大和武士の興亡(5)

1467(応仁元)年5月、御霊合戦で山名宗全によって面目をつぶされた細川勝元はついに反撃を開始して応仁の乱が始まります。 将軍・足利義政は停戦を働きかけますが、宗全と勝元の幕府における主導権争いに、畠山氏、斯波氏の内訌、日明貿易を巡る大内氏と細…

大和の戦乱と応仁の乱のはじまり~大和武士の興亡(4)

応仁の乱の大きな原因となった畠山氏家督を巡る争いは、南北朝争乱以降の抗争の図式が残る大和を中心に起こりました。 大和国内での戦乱を中心に応仁の乱に至る経過をわかりやすく解説します。

応仁の乱への道~大和武士の興亡(3)

大和永享の乱は幕府方筒井氏の勝利で終結しました。 しかし乱後間もなく嘉吉の変で将軍・足利義教が暗殺されると、義教によって失脚していた各地の実力者が復活。 大和でも筒井氏出身の成身院光宣と一時将軍・義教によって失脚していた経覚が、興福寺の権益…

南北朝の争乱・興福寺支配の解体と大和永享の乱~大和武士の興亡(2)

鎌倉時代末期から南北朝時代を経て興福寺の支配を脱していく大和武士の姿をご紹介します。 鎌倉時代末から大和国内では興福寺の両門跡寺院の争いが激化して寺門の権威が失墜する一方で、南北朝の争乱を通じて衆徒・国民たちは興福寺からの自立し、幕府・北朝…

なぜ興福寺は中世大和の支配者となったのか~大和武士の興亡(1)

奈良県域の大和国は中世興福寺が治めたことで知られ、鎌倉、室町を通じて守護が置かれませんでした。 しかし、他国同様平安時代の後期には武士が出現しており、大和の武士たちは興福寺によって組織化されていきました。 なぜ興福寺が中世大和の支配権を握っ…