大和徒然草子

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江戸時代の大和と大和国人の末裔たち~大和武士の興亡(21)

1585(天正13)年の筒井氏伊賀転封豊臣秀長の大和入国により、大和では中世的な国人支配の残滓が一掃され、中央武家政権による一元的支配が行き渡る近世が本格的に始まります。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い、そして1614~1615(慶長19~20)年の大坂の陣と相次いだ戦国末期の大戦で、多くの大和国人が敗者の側に付いて姿を消し、勝者の側に付いた者も、その多くが郷土である大和に留まることはできませんでした。

戦国時代が終わり、大和国人の末裔たちはどうなっていったのでしょうか。

大坂の陣後の大和

大坂夏の陣後、戦国時代は終結し、元号も慶長から元和に改元されて本格的な近世社会が開かれました。

下図は、大坂の陣終結直後の大和の情勢図になります。

豊臣氏滅亡直後(1615(元和元)年頃)の大和の有力武将分布

戦前との大きな相違点は、郡山城に徳川譜代の水野勝成が6万石で入城した点です。

勝成は大坂冬の陣では大和方面軍の先鋒隊大将として活躍し、論功行賞では「武功第二」と激賞された剛勇の士でした。

依然政情不安が続く上方に睨みを利かせるため、その武威を期待された勝成が郡山城主に起用されたのでしょう。

また、勝成が大坂冬の陣大和国衆を率いていたことも考慮されたのかもしれません。

水野氏以降、江戸時代を通じて大和における武家政権の中心地である大和郡山には、幕府の譜代大名が入ることになります。

郡山城 追手向櫓と追手門

郡山城には水野氏以降、松平氏、本多氏など頻繁に城主が入れ替わりましたが、1724(享保9)年に柳沢吉里甲府から転封してくると、以後明治まで柳沢氏15万石の本拠となりました。

吉里の父、柳沢吉保甲斐源氏の末裔で、5代将軍綱吉の側近となって800石取りの旗本から甲府15万石の大名に異例の出世を遂げた人物です。

吉保は学問や文化への造詣も深く、江戸時代の代表的大名庭園の一つである東京駒込六義園は、吉保が下屋敷に作庭した庭園でした。

六義園(旧郡山藩下屋敷跡)

また、柳沢氏は戦国期の武功ではなく、江戸時代の太平の世で15万石の大身国持大名にまで異例の出世を遂げた大名で、そのあまりの厚遇ぶりから、吉里は将軍綱吉の落胤ではないかという噂が絶えないほどでした。

郡山に移った吉里も父・吉保に劣らぬ学問好きで、柳沢氏の好学の風は歴代当主に引き継がれ、最後の当主・保申郡山城内の土地と多額の寄付を行い、奈良県で最初の中等学校である奈良県尋常中学校(現県立郡山高等学校)の設立に多大な貢献を行います。

また、現在大和郡山市の特産となっている金魚の養殖も、元は甲府から移ってきた柳沢氏家臣の内職から始まりました。

明治に入ると、禄を失い困窮する旧藩士を経済的に救済するため、旧藩主の保申が柳沢養魚研究場を設立して金魚の品種改良や販路の開拓を行ったことで、大和郡山の一大産業となったのです。

 

大坂夏の陣の緒戦・郡山城の戦いの後に自害した筒井正次は、子の正信家督継承が認められ、旗本筒井氏として幕末まで家名を残しました。

しかし、大和国山辺郡5千石の領地は没収され、武蔵国足立郡に1千石の領地を与えられます。

その後も江戸時代を通じて筒井氏の領地は下野、上野と関東諸国を転々とし、故地である大和へ復帰することはありませんでした。

 

大坂夏の陣で戦死した秋山直国十市郡の領地は子孫に継承された記録がなく、宇陀の有力国人だった秋山氏は直国の戦死で断絶したと見られます。

通常、戦死は大きな武功ですので、合戦に勝利したのであれば一族の内から家督継承されてもおかしくないかと思われますが、秋山氏はなぜかそのまま断絶しています。

その一方で同じく大坂夏の陣で戦死した神保相茂は、当時5歳の幼児だった茂明家督相続が認められ、神保氏は明治まで大身旗本として畝傍(現橿原市)付近の領地と家名を維持しました。

※神保氏が創建した畝傍御坊の記事はこちらになります。

ちなみにこちらの神保氏は元は河内守護・畠山尾州家被官で紀伊守護代を務めた一族になり、越中戦国大名・神保氏(こちらも畠山尾州家の被官)と同族です。

 

五條二見(現五條市)の松倉重政大坂の陣での武功により、1616(元和2)年に肥前日野江4万3千石に加増転封されました。

重政は江戸時代まで大名として生き残った旧大和国人で最大の出世を遂げましたが、五條二見での善政から転封後は一転し、分不相応な巨城・島原城を築くなど領内で圧政を布きます。

肥前における松倉氏の圧政は次代・勝家の時代も続き、ついに1637(寛永14)年、耐えかねた領民は武装蜂起して島原の乱が勃発しました。

島原の乱は翌年鎮圧されましたが、乱の発生原因は松倉氏の多年にわたる悪政にあると幕府は断じ、松倉氏は改易されて領地没収、勝家は斬首刑に処せられました。

江戸時代を通じて、切腹を許されず大名が斬首された例は、勝家だけとなります。

 

最終的に江戸時代、中世以来の大和国人で大和に大禄の領主として残ったのは、後に大名となる柳生氏と旗本・中坊氏の2家だけでした。

徳川家臣となっていた柳生宗矩が本格的に出世するのは3代将軍家光の時代で、剣術指南役から惣目付(後の大目付)に任じられて加増が続き、1633(寛永13)年に知行1万石を越えて大名となります。

以後、柳生氏は将軍の剣術指南役として江戸定府という特殊な大名となり、幕末まで続きました。

中坊秀政は大坂の陣後も初代・奈良奉行として行政官として活躍し、次代の時佑奈良奉行を務め、中坊氏は家名と吉野の領地を明治まで守ります。

ちなみに柳生氏と中坊氏の祖である柳生永珍中坊源專は兄弟で、二人は1331(元弘3)年に後醍醐天皇笠置山で挙兵した際にいち早く味方した人物でした。

大和に最後に残った国人領主が同族というのは不思議な偶然ですね。

 

その他、徳川方に付いた織田有楽斎平野長泰片桐且元貞隆兄弟桑山氏本多氏といった豊臣旧臣たちも大和での旧領を維持し、外様大名、或いは幕府旗本として江戸時代を迎えることになります。

 

大和へ入った他国衆

大坂夏の陣後、大和郡山を除いて多くの豊臣旧臣の領地が大和の主要部を占める中、転封、改易で天領化、譜代への置き換えが進められていきます。

 

宇陀郡では、大坂の陣後に改易された福島氏に替わり、宇陀松山に織田信長次男の織田信雄が大名に復帰して入りました。

最初の陣屋は松山の町から宇陀川を挟んで西側、現在の宇陀市大宇陀地域事務所(旧大宇陀町役場)付近に設けられましたが、17世紀後半に旧松山城北麓の春日村に移転します。

宇陀松山城 春日門跡(織田氏陣屋の大手枡形)

宇陀の織田氏は2万8千石の小藩ながら、戦国の覇王信長の子孫として血統が尊重されたのか、国持大名の家格を持つ特殊な大名となりました。

織田氏城下町・宇陀松山の関連記事は下記です。

お家騒動により織田氏は1695(元禄8)年に丹波国柏原へ転封され、その領地は収公されて天領となりました。

しかし、お家騒動以前の1660(万治3)年に2代藩主・高長の子・長政へ分知されていた宇陀郡内の3千石を領地はそのまま残りました。

旗本となった長政は、萩原宿(現榛原駅周辺)からほど近い福地に陣屋を構え、子孫は高家旗本として同地に留まり明治を迎えます。

 

賤ヶ岳の七本鎗・片桐且元大坂の陣後に4万石に加増され、平群郡竜田(現斑鳩町)を本拠としました。

しかし、且元流の片桐氏は17世紀末に子孫が絶え無嗣断絶となってしまい、その領地は幕府に収公され天領となります。

一方、小泉(現大和郡山市)1万6千石に封じられた且元の弟・貞隆の家は幕末まで家名を残し、同地で大名として存続しました。

特に貞隆の子で2代藩主・貞昌片桐石州の名で世に知られ、大名茶道の本流となる石州流を創始して、徳川光圀保科正之らが門弟となった他、父・貞隆の菩提寺として小泉城下に建立した慈光院は、境内全体が茶会の演出空間として設計された寺院で、茶室や書院は国の重要文化財、庭園は国の名勝・史跡に指定されています。

慈光院・書院

慈光院の詳細は下記記事をご参照ください。

御所と新庄の桑山氏は、ともに17世紀の末までに改易となりました。

御所の桑山氏は無嗣断絶で領地は幕府天領となり、新庄は当主・桑山一尹が勅使饗応役を務めた際に不手際があったことを咎められて領地を没収され、後には徳川譜代の永井氏が入り明治まで続きます(後に1863(文久3)年に陣屋を櫛羅(現御所市)に移転して以後は櫛羅藩となる)。

 

高取(現高取町)の本多氏は1637(寛永14)年に無嗣改易となり、替わって旗本の植村家政が2万5千石に加増されて高取城主となりました。

高取城

植村氏が入った高取城は本多氏の時代に大改修を受けて、山上にそそり立つ巨大近世城郭となり、郡山城と並んで中央武家政権による大和支配の象徴となった城郭です。

植村氏の高取入城で、大和の二大城郭が徳川氏の譜代大名によって抑えられることになりました。

植村氏は安祥譜代と呼ばれる徳川家中で最古参の家臣で、将軍・家光の信任が厚かったこともあり、通常城郭の改修には都度幕府の許可が必要となるところを、高取城については「一々言上に及ばず」と家光より許可されます(『城山由来覚書』)。

高取藩ではこの家光の言を根拠として、高地にあって傷みやすい城の補修を幕府に無許可で小まめに実施できたこともあり、高取城安土桃山時代に建造された豪壮な姿を、明治まで残すことができたのです。

 

改易、転封によって大和の豊臣旧臣諸侯が姿を消す中、明治まで存続したのが前述の神保氏の他、織田有楽斎平野長泰の子孫たちでした。

有楽斎は豊臣氏が滅亡した1615(元和元)年に隠居し、自身の領地を1万石ずつ四男・長政、五男・尚長に分知します。

長政は戒重(現桜井市)に陣屋を構えて戒重藩を立藩。18世紀には陣屋を(現桜井市)に移転(芝村藩)して明治まで存続しました。

芝陣屋跡(現織田小学校)

尚長は柳本(現天理市)に陣屋を構え柳本藩を立藩し、こちらも明治まで家名を存続させます。

柳本陣屋(現柳本小学校)の石垣

※柳本、芝村の織田氏と陣屋跡周辺の詳細については下記記事も参照ください。

 

田原本の平野氏は5千石の交代寄合(大名同様に参勤交代する旗本)として明治まで続き、明治新政府の高直しで1万石の大名となります。

本誓寺山門(手前側)と浄照寺(奥側)

平野氏城下の田原本寺内町として栄え、大和でも有数の商業都市となりました。

 

また、大和国内で江戸時代に大きな領地をもった大名家として、伊勢の藤堂氏があります。

藤堂高虎像(今治城内)

1619(元和5)年に徳川頼宣紀州徳川家初代として和歌山に入ると、伊勢の藤堂領の一部が紀州藩へ割譲されることになったため、その代替地として山城、大和の天領5万石が藤堂領となりました。

大和では山辺郡の現奈良市から天理市桜井市にまたがる広範な地域に点々と藤堂領が散在することになり、古市(現奈良市)の役所を中心に櫟本(現天理市)、丹波市(現天理市)、桜井(現桜井市)の町が、山城・大和と伊賀・伊勢の藤堂領を結ぶ街道の宿駅として整備され、流通の拠点として栄えます。

また藤堂氏は大和国内の天領の管理も「大名預かり」として一部任されるなど、藩祖・高虎が家康から受けた高い信任を、江戸時代を通じて受け継ぎました。

 

天領の支配

関ヶ原の戦い以降、大和で改易された領主の闕所や豊臣氏直轄領(太閤蔵入地)が、徳川氏の直轄領・天領となりました。

広大な大和の天領を統治したのが奈良代官です。

初代の奈良代官は大久保長安で、その後は大和国人で筒井旧臣の中坊秀佑が就任し、大和以外に近江の天領も代官として支配しました。

秀佑の嫡男、秀政は奈良町の町政・訴訟、大和の寺社の統轄を行う奈良奉行となり、父から引き継いだ奈良代官の職務も兼ねたため、奈良奉行所が天領の支配も行うようになります。

奈良奉行所跡(現奈良女子大学構内)

中坊氏による奈良奉行世襲は次代の時佑まで続きましたが、1664(寛文4)年に時佑が奈良奉行を引退したのを機に、奈良奉行と奈良代官の職務は分離され、中坊氏による世襲も終わりました。

当初、寺社勢力の強い大和では旧大和国人で寺社や在地の庄屋らと関係の深い中坊氏が奉行、代官を務めることに大きなメリットがありましたが、幕府による均一的な支配が時代と共に進行したことで、汚職や不正蓄財など世襲のデメリットリスクの方が高くなったと判断されたのでしょう。

奈良代官所奈良奉行所(現奈良女子大学構内)の北西、中御門町の西にあった中坊家中屋敷が充てられました。

また、奈良代官所以外にも、在地の大名に当地を委託する「大名預かり」も行われ、前述の伊勢藤堂氏の他、歴代の郡山藩主や、芝村の織田氏なども天領を預かって統治しています。

しかし奈良代官所は、1737(元文2)年に代官の久下藤十郎の死去を契機に廃止となり、いったん奈良代官支配の天領は近隣の大名の預かり地として配分されました。

 

その後、大名の預かり地となっていた天領のうち、宇智郡(現五條市周辺)や吉野郡の開発が進んでくると、幕府は五條に五條代官所を設置して宇智郡、吉野郡を中心に5郡7万1千石の直接統治に乗り出します。

五條代官所 長屋門

五條代官所の支配は幕末まで続き、大和における幕府天領支配の象徴的機関となった代官所は、幕末維新動乱の先駈けとなる天誅組の変において天誅組挙兵の地となりました。

 

※五條代官所を含め五條新町についての詳細は下記紹介記事をご参照ください。

 

大和を離れた国人の子孫たち

筒井(福住)氏や井戸氏のように、大和国外で幕府旗本として残った国人の他、他国で大名の家臣や武士以外の道で身を立てた大和国人の末裔たちもいました。

最後にそういった大和国人の末裔たちの内、古市氏島氏の例について紹介します。

 

茶道の家となった古市氏

古市氏は応仁の乱の前後、古市胤仙とその子・胤栄澄胤兄弟の時代に最盛期を迎え、筒井氏と官符衆徒棟梁の地位を争った一族でした。

古市城跡(現奈良市

しかし、1508(永正5)年に澄胤が敗死した後は没落し、筒井氏との争いに敗れて最終的には筒井氏の被官となります。

その後、筒井氏の伊賀転封に従って大和を離れ、筒井氏改易後は牢人となり一族は諸国に離散しました。

実のところ古市氏は胤仙とその子胤栄、澄胤兄弟以外の系図が一次史料上は不明なのですが、その子孫と伝わるのが加賀前田氏の家臣となった古市胤重左近)と、豊前小倉の小笠原氏に仕えた古市了和です。

 

まずは前田氏に仕えた胤重は、澄胤の孫とも胤栄の曽孫とも伝わる人物で、加賀前田氏3代当主・前田利常に3千6百石で召し抱えられ、利常が死去した際に殉死した人物として史料に残されています。

その子(弟とも伝わる)、古市務本(かねもと・胤宗)は胤重の遺領を継いで奏者役に就くとともに儒学者としても活躍し、明朝滅亡時に日本に亡命して水戸に滞在していた儒者朱舜水に師事しました。

1677(延宝5)年に務本は36歳で死去し、嗣子がいなかったのか家は断絶したとされます。

しかし、幕末の100石取りの藩士古市新蔵の名が見え、一族がその後も前田氏に仕え続けたのかもしれません。

 

次に、小笠原氏に仕えた古市了和勝元)は、江戸時代の初期に京都を中心に活躍していた茶人でした。

古市胤栄、澄胤は応仁の乱前後の戦乱で名を馳せた武将でしたが、ともに侘茶の祖・村田珠光に師事して茶人としても高名で、胤栄が開いた古市流の茶道は、弟・澄胤(利庵)、澄胤の子孫である紹意勝澄)そして紹意の婿養子となった了和へと引き継がれます。

紹意は京都を本拠として武野紹鴎千利休らと懇意にし、了和も古田織部と「無二ノ交ワリヲナス」(『茶人系譜』)など、父子にわたり名だたる茶人と交遊して自らの茶道を深めていきました。

了和の門人・下条一以が徳川氏譜代大名で茶人としても名高かった豊前小倉藩主・小笠原忠真重臣だった縁で、了和は忠真の茶堂に取り立てられ小倉へと移ります。

以後、古市氏は代々小倉藩の茶堂を幕末まで務め、その茶道流派は古市古流として現在まで伝えられています。

 

造り酒屋で身を立てた島氏

広島県東広島市中心市街・西条伏見と並ぶ日本酒の名産地で、多くの酒蔵が建ち並びます。

その中で最古の歴史を持つ造り酒屋・白牡丹酒造創業家は、平群谷の国人・島氏の出身で、関ヶ原の戦いでは石田三成勢の主力として活躍した島左近の子孫であると、家伝で伝えられています。

白牡丹酒造の延宝蔵煙突(東広島市西条)

伝承によると1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、京都にいた左近の次男・島忠正は西国に逃亡し、安芸国賀茂郡西条庄四日市に定住すると翌1601(慶長6)年から商人として家の再興を図りました。

そして忠正の五男・晴正が1675(延宝3)年に「嘉登屋」の屋号で酒造業を始めたのが白牡丹酒造のルーツで、現在まで代々島家によって当主が受け継がれています。

白牡丹酒造 延宝蔵

創業時に建てられた延宝蔵は、その後修築、増改築が施されましたが現在も酒蔵の町・西条を代表する建物として残されてます。

 

中世、興福寺支配のもと他国衆の侵入を許さず、大和国人が強固な地縁を築いた大和でしたが、織田、豊臣、徳川と中央の武家政権からは国人と土地の強固なつながりが忌避され、近世にほとんどの国人たちが大和を追われ、大和武士は姿を消しました。

現在、我々が目にする奈良県内の城郭や江戸時代からの古い町並みは、近世以降、新たに他国から入った武士により整備されたものが殆どです。

しかし、春日若宮の祭礼や中世以来の環濠集落の町並みや濠跡の水路には、かつて大和を支配した国人たちの面影が確かに残っています。

その微かな面影を探すのも、奈良県内を散策する大きな楽しみの一つと言えるでしょう。

 

参考文献

『筒井順慶とその一族』 籔景三 著

『史料柳生新陰流 上巻』 今村嘉雄 編

『橿原市史』 橿原市史編集委員会 編

『寛政重脩諸家譜 第6輯』

『寛永諸家系図伝』

『高取町史』 高取町史編纂委員会 編

『奈良市史 通史 3』 奈良市史編集審議会 編

『石川県史 第2編 再版』 石川県 編

『師と友 23(6)(257)』 全国師友協会 [編]

『日本醸造協会雑誌 = Journal of the Brewing Society of Japan 77(7)』 日本醸造協会 編

『西条町誌』 西条町誌編纂室 編