筒井順慶
当ブログでは鎌倉時代から江戸時代までの大和武士たちの活躍や動向を、当時の畿内史と関連付けながら21回にわたって「大和武士の興亡」として奈良の戦国史を詳しく紹介しました。 今回は奈良の戦国史について切り口を変え、戦国の大和で活躍した大和武士の一…
松永久秀滅亡後、知行宛行権を除く広範な大和の支配権を織田信長から認められた筒井順慶は、信長政権のもとで急速に近世大名への道を歩みます。 順慶によって大和の中世は終焉を迎えることになるのです。
大和で1559年から続く筒井順慶と松永久秀の抗争は1571年辰市城の戦いで順慶が久秀に勝利したことで大きく筒井氏の優勢に傾きます。 織田信長が大和支配で順慶を重用する一方、劣勢の久秀は1577年、居城・信貴山城に籠って信長に反旗を翻しました。
1564年から70年にかけ、大和で繰り広げられた筒井順慶と松永久秀の一進一退の攻防を紹介します。 三好長慶の死から大きく畿内の情勢は動き出し、三好家中で孤立した久秀に順慶の反転攻勢が始まります。
1550(天文19)年に大和を統一した筒井順昭が28歳の若さで死去すると、2歳の遺児・順慶が当主となります。 一族・家臣の支えで筒井氏による大和の平和は守られましたが、1559年松永久秀による大和侵攻でその平和は打ち破られました。
奈良市北椿尾町の城山山上にある椿尾上城は、筒井氏の山城で、筒井城を松永久秀に奪われた筒井順慶は、この城を拠点として故地回復を図り、久秀と熾烈な抗争を繰り広げた。 元は戦時の詰め城として築城されたが、順昭の時代から政庁機能を持つ戦国期拠点城郭…
奈良県大和郡山市にあった筒井城は中世大和の主要な国人領主だった筒井氏の居城で、奈良盆地の中世城郭としては最大規模を誇ります。 廃城後、城跡は市街地の中に埋もれていきましたが、内堀や外堀の一部は残り、かつての堀跡は多くが水路に形を変え残されて…
筒井順慶は戦国大和を代表する戦国武将ですが、一般的には「洞ヶ峠の順慶」として有名です。山崎の戦いでは日和見を決め込んで後日秀吉に叱責された優柔不断な武将というイメージが巷間流布していますが、実は山崎の戦いの結果に重大な影響を与える重要な立…
皆さんこんにちは。 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」にいよいよ筒井順慶が登場しました。 戦国時代に関心がある方なら、名前くらいは聞いたことがある、という人も多いかもしれないですが、ドラマや小説などに取り上げられることも少なく、一般的な知名度は…
順慶死後、跡継ぎ定次の奮戦と戦国の大和に割拠した国人達のその後をご紹介します。
筒井氏の居城だった筒井城をご案内します。城跡散策のあとは駅前でかき氷を堪能です。
本能寺の変から山崎の戦いを乗り切った筒井順慶。あらたに天下人の道を進む秀吉に接近し生き残りを図ります。
洞ヶ峠に着陣したのは筒井順慶ではなく明智光秀だった!?本能寺の変から山崎の戦いに至る筒井順慶のどうこうをご紹介。
大和守護となり松永久秀滅亡後、織田家中で奮闘する順慶の活躍をご紹介します。
織田家中に参加した筒井順慶。ついに大和守護となり宿敵松永久秀との最終決戦に臨みます。
信長の上洛で窮地に陥った筒井順慶。東山中への逼塞から反転攻勢します。
ようやく青年期を迎えた筒井順慶。宿敵松永久秀との争いは苛烈を極め、筒井城をめぐる攻防から東大寺の戦いに至ります。
大和に現れた最強の侵入者、ま松永久秀。筒井城陥落と教興寺の戦い。
皆さんこんにちは。 「筒井順慶」という戦国武将をご存じでしょうか。 最大でおおよそ20万石(与力も含めれば45万石規模)の太守であり、この規模は江戸時代でいうと土佐の山内氏に匹敵する大身大名といえます。ですが知名度は低く、戦国時代が好きな方でも…