畠山総州家の守護代から身を興し、河内大和を支配して畿内屈指の実力者に成長した木沢長政は、将軍・足利義晴擁立を目論み細川晴元に反逆しましたが畿内で孤立。1542(天文11)年3月、政敵・三好長慶に太平寺の戦いで敗れ、敢え無い最期を遂げました。
長政死後、同年12月には、細川晴元と細川京兆家当主を争って敗れた細川高国の養子で喜連城(現大阪市平野区)主だった細川氏綱(高国の従兄弟・細川尹賢の子)が旧高国派の勢力を糾合して挙兵。摂津、和泉、山城では細川氏の家臣団が晴元派と氏綱派に分かれ、再び細川京兆家当主の座を巡って争いが勃発するのです。
一方、大和では木沢長政による支配がその死によって一瞬で瓦解し、長政と同盟を結んでじわじわと勢力を広げていた筒井順昭と、長政の侵攻に対抗して領土を広げていた十市遠忠が当時の大和国人衆の中では一歩抜きんでた状態となっていました。
十市遠忠は長政の死にいち早く反応して、長政の居城・信貴山城を焼いた他、長政によって奪われていた領土を切り取り、十市氏の最盛期を築きます。
一方、筒井順昭はこの時20歳(数え年のため現在なら19歳)。
11歳で父・順興の死によりその跡を継いでから9年。木沢長政が世を去って、いよいよ自立した動きを見せ始めようとしていました。
筒井順昭の台頭
木沢長政の死後、筒井順昭はそれまで同盟関係にあった長政に替わって、再び伝統的な同盟関係にあった畠山尾州家との関係を強化したと見られ、実質的に河内を取り仕切る守護代・遊佐長教に同調した動きをとります。
1542(天文11)年8月、和泉国の松浦氏討伐の為、畠山稙長、遊佐長教が出陣すると、順昭は畠山氏本拠の高屋城(現大阪府羽曳野市)に入って守備を任されました。
記録に残る順昭の外征記録はこれが初めてになりますが、本拠の守備を任せたことから畠山尾州家側の順昭への信頼のほどがうかがえます
翌9月には、木沢長政の残党とされた飯盛山城に拠る畠山在氏への討伐軍に畠山稙長とともに参加し、十市遠忠共々河内まで出陣しました。
翌1543(天文12)年1月に飯盛山城が落城すると、帰国した順昭が開始したのは、木沢残党で東山中東北部に割拠する簀川氏、柳生氏、古市氏の制圧です。
同年4月、筒井順昭は6000余騎という大軍勢で須川(現奈良市須川町)に割拠する簀川氏への攻撃を開始しました。
『多聞院日記』の6000という兵数には誇張もあるでしょうが、応仁の乱前後では数百の動員力しか持たなかった筒井氏が、百年足らずで中世国人から戦国大名化を果たし、飛躍的に軍事動員力を高めたことがうかがえます。
戦国時代の大名は100石で2~3人程度の動員力があったといいますから、6000人だと当時の順昭は20万石ほどの領地があったことになります。
しかし、この石高は順昭の子・順慶の最盛期に匹敵しますので、ちょっと考えられません。
やはり実際の兵数は半数の3000程度だったと考えれば、領地は10万石で当時の筒井氏の規模感からもマッチしている気がします。
さて、簀川領へ攻め入った筒井軍はたちまち簀川氏の2つの城を攻略し、本城の須川城(現奈良市須川町)に攻撃を加えました。
しかし、簀川氏の守りは固く、結局1日で落城したものの筒井方にも多数の死傷者が出たと記録されており、この一戦にかける順昭の覚悟が偲ばれます。
簀川氏が城を捨てて逃亡すると、順昭は軍を返して古市城(現奈良市古市町)を攻撃し、古市重胤も東山中へ逃亡させました。
活発に北和で領土を拡大していく順昭を牽制するように、同年7月越智家頼が筒井方・細井戸城(現奈良県広陵町)の万歳則貞を撃破します。
万歳氏は長らく越智党の主要国人でしたが、この頃筒井氏に寝返ったのか、裏切りへの報復攻撃だったのかもしれません。
順昭はすかさず越智氏に反撃するため、出陣の準備に取り掛かりました。
再び筒井と越智の全面対決が発生するかと思われましたが、畠山稙長が和睦の仲裁に乗り出します。
同年1月に総州家・畠山在氏の拠る飯盛山城を陥落させ、尾州家による畠山氏家中の優位を確立していた畠山稙長は、大和で筒井と越智が直接干戈を交えることで、自身の勢力圏と考える大和に、これ以上の混乱がすることを望まなかったのでしょう。
与党の万歳氏が撃破され、これに報復しなくては順昭の面子は立ちませんが、この時は順昭は稙長の仲裁を受け入れて矛を収めました。
稙長の仲介を拒否すれば尾州家との関係が悪化し、万一尾州家の後ろ盾を失うようなことがあれは勢力維持が難しくなるとの打算もあったのでしょう。
一方の越智家頼は、畠山尾州家を後ろ盾とする筒井氏に対抗するため細川晴元に接近。翌1544(天文13)年4月、家頼は和泉上半国守護・細川元常の子息を、京兆家当主・晴元の猶子としたうえで養子に迎えました。
当時、畠山尾州家は細川氏綱を支援して細川晴元とは対立状態にあったので、越智氏は晴元派に加わることで氏綱派である尾州家とつながる筒井氏に対抗しようとしたのでしょう。
1544(天文13)年7月末、順昭は東山中東北部で最後の反攻勢力となっていた柳生氏への攻撃を開始します。
この時の柳生攻め軍勢は、順昭与党の大和国人だけでなく、十市遠忠や畠山稙長からの援軍である河内衆や畠山被官の鷹山氏(現生駒市高山町の国人)らも加わり、総勢1万の大軍勢に膨れ上がりました。
対する柳生家厳は小勢で柳生城に籠城し、抗戦の構えを見せます。
また、この籠城軍の中には後に柳生新陰流の開祖となる柳生宗厳(石舟斎)の姿もあったことでしょう。当時宗厳は15~17歳で年齢的には既に元服済みであったと考えられます。
1万余の筒井勢に外城を攻略されながらも柳生城の守りは固く、柳生父子は寄せ手を悉く撃退しました。
筒井勢の名のある武士たちにも死者が出て、手負いの者が多数出たため、順昭は力攻めを中止し、柳生城の水の手を止める策に出ます。
水を止められると籠城側はもう持ち堪えられません。
3日間の攻防戦の末、柳生家厳は開城してついに降伏。柳生氏は筒井氏に臣従することとなったのです。
順昭の国中平定
柳生氏を従属させたことで、筒井順昭は北和地域の大部分を支配下に収めることに成功し、大和国内では一歩抜きんでた勢力となっていました。
この時筒井氏に対抗しうる勢力と言えば、龍王山城の十市遠忠、貝吹山城の越智家頼くらいで、順昭は十市遠忠とは1540(文明9)年以来同盟関係を維持し、越智氏とは畠山稙長の意向に従い、武力衝突を避けて睨み合う状態で、微妙なパワーバランスの下で武力衝突が避けられていた状況と言えるでしょう。
しかし、このパワーバランスは1545(天文14)年からにわかに揺らぎ始めます。
この年の3月、十市遠忠が享年49で世を去り、嫡男・遠勝が跡を継ぎます。
持ち前の武勇で十市氏の最大版図を築き、和歌の達人で書や茶の湯の諸芸に通じた文化人というカリスマの死は、十市氏にとって大きな打撃となりました。
翌4月には越智家頼が急死して、その跡は養子としていた越智某(細川晴元猶子)が継ぎます。
更に同月、河内では畠山稙長も急死。稙長には実子がおらず、後継を巡り稙長の弟や一族で混乱が生じたものの、最終的に尾州家の実権を握る遊佐長教が擁立した畠山政国(稙長の実弟)が尾州家を継ぎました。
大和をとりまくキーパーソンたちが相次いで世を去る中、順昭の国中(くんなか=大和国平野部)統一への動きが一気に加速したのが、翌1546(天文15)年のことです。
この年の2月、順昭は中和の雄・箸尾氏を圧迫し、筒井氏と所縁の深い興福寺一乗院末寺の成身院(現奈良市中ノ川町)で当主・箸尾為政を自害に追い込み謀殺。
箸尾氏当主は弟の為綱が継ぎましたが、箸尾氏は筒井氏への従属を余儀なくされました。
8月になると、細川氏綱が遊佐長教らと結んで再び和泉で挙兵し、順昭は畠山尾州家との関係から氏綱派として行動します。
8月16日に細川晴元から氏綱討伐の命を受けた三好長慶は、本拠とする越水城から堺に入りましたが、20日に氏綱、長教の軍に包囲されて撤退。氏綱軍は10月中頃まで進撃を続け、京都から細川晴元を丹波へ追い出しました。
堺で三好長慶が細川氏綱、遊佐長教に包囲されたのと同日の8月20日、十市遠勝は父・遠忠の代に結んだ順昭との和睦を破棄して、筒井方の竹内城(現天理市竹之内町)に攻撃を掛けました。
十市勢による竹内城攻撃は、時期的に見て晴元派へ付いた十市遠勝が、氏綱派の筒井方を攻撃したものと考えられます。
この十市勢の攻撃に対応したのか、翌8月21日に順昭は出陣して竜田へ布陣するとともに、晴元派による侵攻に備えて傘下の超昇寺氏と山城衆を奈良に入れます。
十市勢による竹内城攻略が失敗に終わると、遠勝は9月20日には龍王山城、十市城を筒井方へ明け渡して、越智氏の勢力圏である多武峰へ逃亡。さらに吉野へと落ち延びていきました。
竹内城攻撃に失敗した後、順昭と遠勝が直接合戦したという記録はありませんが、順昭の侵攻を察知した遠勝が城を捨て、越智氏を頼って逃亡したと見てよいでしょう。
実際に十市遠勝を追撃するかのように、順昭は9月24日、越智領の多武峰郷へ侵攻を開始しました。
なお、この頃順昭は天然痘と見られる病(『多聞院日記』には「もかさ之煩」とある)に罹患しており、病を押しての出陣だったようです。
多武峰侵攻開始の翌9月25日には、越智氏の本拠・越智郷に6000もの大軍で侵攻して郷村を焼き払い、越智勢を貝吹山城まで追い込みました。
細川晴元猶子と見られる越智某は、降伏を申し出たのか順昭のもとへ出頭しましたが、越智家増ら越智氏の大部分は貝吹山城へ籠って徹底抗戦の姿勢を示します。
10月3日に勧学寺(現高取町勧覚寺)で大きな合戦となり、この戦いで越智氏は大敗して多くの死傷者を出しました。
越智方の戦死者の中には、1543(天文12)年に順昭によって故地を追われた簀川氏の弟も含まれており、越智氏以外の反筒井勢力もこの戦いに参加していたことが伺えます。
勧学寺の戦いで大敗した越智氏は継戦能力を失い、10月10日、貝吹山城はついに開城。
越智家増らは本領を失って牢人となり、順昭は5人の家臣を貝吹山城守備に残して帰還しました。
越智氏を降した順昭は、国中の平定をほぼ完了したことになり、多聞院英俊は「一國悉以帰伏了、筒井ノ家始テヨリ如比例ナシト云々」と記しています。
こうして順昭は、南北朝以来勢力を拮抗させた越智氏、箸尾氏、十市氏を打ち倒し、大和国人としては初めて、武略による国内統一を果たしたのです。
順昭が越智領に侵攻して大和平定を進めていた頃、摂津、山城では細川氏綱が破竹の勢いで進撃し、9月には細川晴元は京都から丹波に逃れるなど、氏綱派が優位に戦いを進めていました。
晴元が京都を脱出すると、将軍・足利義晴は細川氏綱が有利と見て、密かに氏綱への接近を図ります。
しかし、10月になると阿波と淡路から三好長慶の実弟である三好義賢、安宅冬康らが援軍に駆け付けて反攻を開始。氏綱軍を押し戻し、三好軍は京都に迫る勢いを見せました。
大和では順昭により越智氏をはじめ晴元派が一掃されましたが、畿内では氏綱派の優位が崩れて晴元派が優勢の状況となります。
しかし、細川氏の内訌がおさまらず河内の畠山氏もその争いに巻き込まれる中、ともに大和へ介入する余力がなかったことは、順昭にとって幸運に働いたと言えるでしょう。
緊迫する畿内と大和
1546(天文15)年12月、京都に三好軍が迫る中、足利義晴は近江守護・六角定頼を頼って近江坂本へ退去しました。
そして同月・嫡男の義輝(当時は義藤)を13代将軍として、自身は大御所となります。
翌1547(天文16)年正月に義晴父子は京都に戻ったものの、前年から細川氏綱との連携を図ったため細川晴元との関係がこじれ、武力衝突直前の状況に陥ります。
こうした京都の混乱を尻目に、筒井順昭は同年5月、前年謀殺した箸尾為政の居城・箸尾城を破却するなど、国内の安定化に注力してこの年は目立った軍事行動は行っていません。
さて、義晴父子と細川晴元との争いは、晴元が阿波の足利義維を再び擁立する動きを見せて緊迫しましたが、義晴を後援する六角定頼が、細川晴元の岳父でもあったことから両者の衝突を望まず、7月に入ると定頼が両者の和睦仲介に乗り出しました。
そして同月21日、三好長慶を主力とする晴元軍が、細川氏綱、遊佐長教、畠山政国らを舎利寺(現大阪市生野区)の戦いで撃破すると、大御所・義晴も氏綱との連携を諦め、晴元との和睦を受け入れたのです。
翌1548(天文17)年4月、奈良で六角定頼が立会いの下、三好長慶、遊佐長教の間で晴元派と氏綱派の和議がまとまり、義晴、義輝父子も帰京して畿内の混乱は収まりました。
この和睦の際、三好長慶と遊佐長教は関係を深め、長慶は後に長教の娘を妻に迎えて同盟を結びます。
大和を取り巻く畿内が晴元派優勢になる中、遊佐長教を通じて氏綱派であった筒井順昭にとっても、長慶と長教の友好関係は望ましいものだったでしょう。
実際に筒井氏は永禄(1558年~)の頃まで三好氏とは友好関係にあり、畠山尾州家と三好氏の同盟関係は大和にも安定をもたらしました。
晴元派と氏綱派の和睦が成立して畿内の情勢がようやく収まったかに思われましたが、細川晴元の家中では、政権内での主導権争いという潜在的な対立を抱えていた三好長慶と三好政長の関係が再び悪化します。
長慶と政長の対立は、氏綱派という外敵に対抗するため一時的に鎮静化していただけであり、外敵の消滅で再燃することは自明のことでした。
同年8月、三好長慶は主君・細川晴元に対して、讒言を繰り返して家中を乱すものとして、三好政長の誅殺を願い出ましたが、晴元がこれを拒んだため元々ぎくしゃくすることも多かった長慶と晴元の関係も、険悪化していきます。
畿内の情勢が緊迫する中、同8月、順昭は南山城の和束城(現京都府和束町)へ出兵して畠山政国の弟を攻め殺しました。
なぜ、この時期に山城国相楽郡へ順昭が出兵したのか確かな理由は不明です。
相楽郡の木津川以南は順昭の勢力圏ながら、独断で木津川を越えて軍事行動を起こすことは、山城を抑える細川氏や三好氏を刺激することも考えられるので、三好長慶と遊佐長教の同意、もしくは両者からの要請を受けての攻撃だったのかもしれません。
この頃、三好長慶は来るべき細川晴元、三好政長との対決に備え、盟友となった遊佐長教らと着々と準備を進めており、順昭による南山城での軍事行動もこれに連動するものだった蓋然性は高いと考えます。
9月に入ると、順昭は戦時の詰め城として利用していた東山中の椿尾上城(現奈良市)の大規模改修に着手しました。
椿尾上城は順昭の父・筒井順興の代に本格的な城郭に整備された山城でしたが、順昭の代になると天文10年(1541)頃には政庁機能も有していたとみられる史料が遺されており、順昭は椿尾上城を木沢氏の信貴山城、十市氏の龍王山城と並ぶ戦国期拠点城郭とすべく大規模な改修・拡張をこの時実施したのです。
※椿尾上城についての詳しい紹介は、下記記事をご一読ください。
9月は年貢の徴収時期に当たり、各荘園から順昭が工事の人夫を大動員したため、薬師寺では年貢の徴収が困難になったという記録が残っているほどで、この時の工事は大規模かつ急ピッチに行われました。
既に大和を平定していた順昭が、椿尾上城の改修・拡張を急いだ理由は、遠からず発生すると予見された三好長慶と細川晴元、三好政長の間で勃発する戦いと、その後の畿内の混乱に備えるためと考えるのが妥当でしょう。
早すぎた死
1548(天文17)年10月、三好長慶は主君を細川晴元と袂を分かち、細川氏綱方に寝返る形で挙兵しました。この頃、諱も長慶(実はそれまでの諱は範長)と改め、遊佐長教と結んでついに父・元長の仇である細川晴元、三好政長と対峙したのです。
翌1549(天文18)年3月、畿内の緊張が高まる中、筒井順慶が順昭の嫡男として誕生しました。
順昭にとっては待望の男子でしたが、その誕生の翌月である4月26日、家督を生まれたばかりの順慶に譲ると言い残し、数人の供回りとともに突然比叡山に籠ってしまうのです。
順昭の突然の比叡山入りの理由は、当時も不審がられたようで、『多聞院日記』天文十八年五月十八日条には、筒井城に興福寺の寺僧が下向して経をあげた記事があるのですが、筒井城では度々怪火などの怪異が起こり、順昭も精神に異常をきたしたらしく、怪異を鎮めるための祈祷だったと記されています。
当時、細川晴元と三好長慶の対立では、畿内の国人に対して熾烈な多数派工作が繰り広げられており、大和においても晴元方の近江守護・六角定頼が遊佐長教の影響下にある大和国人たちに書状を送り、切り崩しを行っていました。
この圧力に耐えかねて順昭が比叡山へ遁世したとする説もありますが、当時の大和に六角氏や細川晴元の圧力がそれほど強く及んでいたとは考えにくく、筆者は体調を崩したため比叡山で療養に入ったのだろうと考えます。
比叡山に籠った後も、順昭の名で相楽郡の木津一坂(現京都府木津川市)で農作物の差し押さえや、興福寺と東大寺の神鹿を巡る争いの調停が行われており、現場は一族・家臣に任せながらも、病身をおして順昭は筒井氏惣領として決裁権を振るいました。
順昭が比叡山に籠ってから2か月の6月24日、三好長慶は三好政長の籠る摂津江口城(現大阪市西淀川区)を急襲(江口の戦い)。父の仇である政長を討ち取りました。
この敗戦に、長慶の追撃を恐れた細川晴元は足利義晴、義輝父子を連れて近江坂本まで退去し、京都を放棄します。
畿内の情勢は雪崩式に三好長慶優勢に転じ、長慶は和泉国を切り取り、摂津もほぼ平定して、翌7月には細川氏綱を伴って上洛を果たしました。
ここに細川晴元政権は崩壊し、三好長慶が細川氏綱を細川京兆家当主として推戴する、いわゆる三好政権が樹立されたのです。
三好長慶と京都を追われた細川晴元と足利義晴は、以後数年にわたり京都東山を挟んで熾烈な攻防戦を繰り広げますが、翌1550(天文19)年5月、大御所・足利義晴は帰京を果たせぬまま近江穴太で世を去りました。
大きく畿内の情勢が変転する中、大和では当主順昭が不在の中でも、筒井の一族・家臣が結束して安定した治世を継続していました。
1549(天文18)年12月には、順昭不在を狙った越智家頼が貝吹山城の奪回を図って攻め寄せましたが、城番の筒井方に撃退されています。
翌1550(天文19)年2月28日、順昭は約1年ぶりに奈良に帰国しましたが、病状は思わしくなかったようで、奈良林小路(現在の近鉄奈良駅南側)にあった筒井家の奈良屋敷で6月には危篤となります。
興福寺の寺僧数十人が快癒の祈祷を行いましたがその甲斐なく、6月20日に世を去りました。享年28。大和平定からわずか4年。あまりにも早い死でした。
その後、順昭夫人によって林小路の屋敷地に筒井から圓證寺が移され、順昭の菩提寺とされました。
1985(昭和60)年に圓證寺は奈良市森小路町から生駒市上町へ移転しましたが、順昭の五輪塔(国の重要文化財)も移築され現存しています。
※五輪塔はこちらのリンクからご覧ください。
なお、順昭の死は1ヶ月の間秘されたようです。
順昭が亡くなったのは圓證寺の五輪塔碑文から天文19年6月20日とされますが、『多聞院日記』には6月21日にも順昭の快癒を願う祈祷が行われたとあり、翌7月16日条に順昭が死んだことが明らかになった旨が記されています。
6月23日には亡くなったのではないかという話が噂に上るなど、周りは薄々気付いていたようですが、後継体制が整うまで公にはその死が公表されなかったのでしょう。
ちなみに元の黙阿弥(木阿弥)の語源となった『黙阿弥という盲人を順昭の身代わりに立てて3年間その死を秘した』という有名な逸話は、江戸時代の軍記物である『和州諸将軍傳』が出典でそのまま事実ではないと考えられますが、死の直後にしばらくその死が伏せられたことは間違いなく、そういった事実を反映した逸話と考えてよいと思います。
順昭死後、筒井氏家督はその遺言に従い嫡男・順慶が2歳で継ぎ、一族の重鎮である福住宗職が後見して、幼主を一門、家臣が支える体制が発足しました。
元々、筒井氏は南朝方が多かった大和では幕府の支援なしには存立できない弱小勢力で、応仁の乱では勝者となった東軍に属しながら本領を失うなど苦難の多い国人でしたが、他の国人に養子や娘を送り込んで一門化をすすめ、一門の結束で勢力を徐々に扶植していきました。
一方、ライバルの越智氏は応仁の乱後に畠山総州家との連携で筒井氏を圧倒しましたが、その後一族が分裂して内訌を繰り返し、16世紀初めには惣領の名が分からないほど低迷し、最終的には一門の結束を守った筒井氏が順昭の代に越智氏を打ち破り、大和を平定することになったのです。
しかし、強固な結束を誇った筒井氏も、順昭の死後に他国勢力との関係を巡る方針の対立から内部から綻びを見せ始めます。
また、順昭の時代に武力によって大和国内の平定が強引に進められた結果、大和国人間の興福寺・春日社を精神的紐帯とする一体感は失われました。
こうして戦国末期にかけ、大和は国内勢力、他国勢力が入り乱れる戦国争乱の巷と化していくのです。
参考文献
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