大和徒然草子

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木沢長政の大和侵攻と歌人大名・十市遠忠の奮戦~大和武士の興亡(13)

1531(享禄4)年に細川晴元細川高国を敗死させ、細川京兆家家督争い(両細川の乱)に勝利しました。

しかしその後、晴元がそれまで擁立していた堺公方足利義維を切り捨て、12代将軍・足利義晴と和睦する方針を打ち出したことから、堺幕府内は和睦に反対する三好元長畠山義堯と、元長の追い落としと画策する木沢長政三好政とで深刻な対立が発生。

1532(享禄5)年5月にはついに軍事衝突に至り、木沢長政は旧主・畠山義堯と三好元長筒井順興に居城・飯盛山城を包囲され絶体絶命となります。

長政から救援要請を受けた細川晴元は、自分の意向に従わない三好元長と畠山義堯の討伐を決め、法華宗信者であった三好元長と深刻な対立を抱えていた山科本願寺門主証如に元長討伐を依頼しました。

飯盛山城における戦いは、本来武家同士の争いでしたが、証如は「法華宗との最終決戦」と位置付けて畿内各地で一揆軍の蜂起と参集を呼びかけると、大坂御坊に10万の一揆軍が終結

1532(享禄5)年6月、飯盛山城を包囲攻撃していた三好元長、畠山義堯、筒井順興の軍勢に一揆軍が攻めかかり、三好元長、畠山義尭は逃亡先で自害に追いこまれ、筒井順興も大和へ敗走しました。

三好元長を文字通り「血祭り」にあげた一揆軍は余勢をかって次なる目標を、大和国内で浄土真宗を弾圧する興福寺とその手足となる筒井、越智ら国人衆に定めて大和へ乱入。奈良でも一向一揆が蜂起します。

一揆軍は奈良の町を蹂躙し、越智家頼の籠る高取城へと攻め寄せました。

大和国人たちは一向一揆の蜂起まで筒井方と越智方に分かれて相争っていましたが、大和国内で猛威を振るう本願寺勢力を前に一致団結し、一揆軍を撃退します。

その後も畿内各地で一向一揆による混乱が続く中、いち早く一向一揆を鎮めた大和では、再び国人一揆体制を確立して国内を安定させました。

 

木沢長政の大和侵攻

1532(享禄5)年6月の飯盛山城の戦いで主家・畠山総州家当主であった畠山義尭を敗死させた木沢長政は、総州家当主に義堯の弟である畠山在氏を擁立して総州家の実権を掌握し、1534(天文3)年には畠山尾州家の守護代遊佐長教と結託して尾州家当主・畠山稙長を紀伊へ追放。事実上、河内の国主となります。

また長政は、畿内の大きな不安定要因となっていた本願寺一向一揆法華宗法華一揆に対して、ある時は本願寺側、ある時は法華宗側に与して巧みに相争わせ、双方の弱体化に成功しました。

さらに、阿波に逃れていた三好元長の遺児・三好長慶細川晴元の元へ帰参させることに成功。法華宗に強いパイプを持つ三好氏を晴元政権内に取り込むことで、法華宗との交渉を円滑に進めたいという意図があったようです。

元は総州家の一被官に過ぎなかった木沢長政は、権謀術数を駆使して着々と畿内での足場を固め、細川京兆家当主として幕政を牛耳る細川晴元の有力被官として、畿内有数の実力者へと成長しました。

畿内一向一揆がようやく沈静化し始めた1536(天文5)年、木沢長政は大和国への領土的野心を露わにして、河内、大和国境の信貴山山上へ信貴山を築城。飯盛山城から本拠を移します。

信貴山城址

元々室町中期頃から信貴山には戦時の小規模な城砦があったと見られますが、この時長政が築いた城郭は、戦時の要塞としての機能は勿論、長政の居館と家臣の屋敷が配され平時の政庁としても機能した、いわゆる戦国期拠点城郭であり、大和国では最初の築城例となる画期的な城郭でした。

信貴山城の詳細については下記記事もご覧ください。

木沢長政の目が大和に向かったこの頃、大和の有力国人であった筒井氏、十市氏では当主の死去により筒井順昭、十市遠忠が代替わりしたばかりで、特に順昭は元服前の少年(当時13歳)でした。

また、南和の名門・越智氏も一族が分裂して誰が当主かも明らかでないほど弱体化しており、当時の大和は長政にすれば格好の草刈り場に映ったことでしょう。

長政の大和への侵入は、興福寺荘園内の年貢滞納への対応から始まりました。

当時の興福寺が頭を悩ませていたの問題の一つが荘園からの年貢滞納で、特に大仏供庄(現桜井市)の荘官・戒重氏からは数年にわたって年貢が届かず、しびれを切らした興福寺は戒重氏の討伐を決断して、越智家頼にその実行を命じたものの、越智氏は与党である戒重氏をかばったのか、討伐そのものを遅延させていました。

興福寺の衆徒・国民に対するコントロールがもはや機能しなくなっていることを明示する事態ですが、1536(天文5)年、興福寺はこの解決を幕府に求めます。

興福寺からの請願を受けた細川晴元が、問題の解決を命じたのが木沢長政でした。

長政は大和へ本格的に進出するにあたり、幼主・筒井順昭を擁する筒井氏と同盟を結び、筒井氏内衆の中坊氏と連携して戒重氏への対処を進めます。

翌1537(天文6)年7月になると、長政は越智氏の討伐を進め、本拠である貝吹城(現高取町)を攻略するなど、越智党の拠点を次々と攻略しました。

木沢長政が越智氏を討伐した理由は詳細不明ですが、戒重氏討伐をサボタージュした非を咎めたのかもしれません。

翌1538(天文7)年正月には、捕らえられた戒重某が信貴山城で処刑され、一連の戒重氏討伐を完了しました。

この戒重氏討伐には十市遠忠も木沢長政に協力しており、遠忠は戒重氏討伐後にその功として大仏供上庄外護公文職を得ています。

その後、木沢長政は闕所となった越智党の所領を次々と家臣たちに分け与え、大和の領国化を急速に図っていきました。

赤沢朝経の大和侵攻以来、細川京兆家は大和を知行国と見做していたようで、細川晴元は木沢長政を大和守護として送り込んでいたものと考えられています。

実際に木沢長政は大和国内で家臣に知行宛行を次々に執行しており、その行動はまさに守護としての振舞いでした。

幕府、細川晴元を後ろ盾として侵攻してきた木沢長政に筒井氏や多くの国人たちは恭順する中、真っ向から立ち向かったのが十市遠忠です。

長年同盟関係にあった筒井氏との同盟関係を破棄した遠忠は、木沢・筒井両軍と激しい抗争を開始します。

十市遠忠は木沢長政が1536(天文5)年に信貴山城を築城したのと同時期に、従来十市氏の詰の山城であった龍王山城を南北1.2Kmに及ぶ巨大城郭に拡張して、本拠を十市(現橿原市十市町)から移しました。

龍王山北城・石積遺構

龍王山城についての詳細は下記記事もご参照ください。

十市遠忠は木沢長政、筒井順昭との抗争の中で、元々の領土である十市郡だけでなく、龍王山城を中心として東山中の山辺郡一帯に支配権を伸ばし、その勢力は伊賀の一部にまで及ぶなど、十市氏の版図を飛躍的に広げることに成功します。

1521(大永元)年、父・十市遠治の代に大和国一揆体制の確立に伴ってようやく故地・十市郡を取り戻すまで、領地を越智氏に奪われ他国で浪々の身にあった十市氏は、遠忠の代で一躍戦国大名として雄飛したのです。

しかし、大和での戦闘激化を憂いた興福寺が、幕府に十市氏と筒井氏の和睦仲介を依頼すると、1540(天文9)年、遠忠はこれに応じて筒井順昭と和睦。

いったん大和での激しい戦闘は収束しました。

 

木沢長政の凋落

河内、大和の二国を抑えた木沢長政は、1541(天文10)年までに畿内随一の勢力を誇るようになりましたが、その大きな野心からやがて身を亡ぼすことになります。

 

長政が河内、大和支配を進めていた間、山城、丹波、摂津の支配を巡り、細川晴元三好長慶三好政長らの関係は必ずしも良好ではありませんでした。

長政は、細川晴元や三好氏の不和に付け入れば、両者を駆逐して直接将軍・足利義晴を擁立し、天下の権を握れると考えたのかもしれません。

1541(天文10)年10月、細川晴元の命を受け三好長慶は旧細川高国派が籠る一庫城(現兵庫県川西市)を攻撃していましたが、一庫城から救援要請を受けた木沢長政は摂津の有力国人である伊丹親興らとともに三好長慶を攻撃。

木沢長政は三好長慶を撃退すると、足利義晴の身柄を抑えるべく京都へと攻め入りました。

しかし、足利義晴は近江へ退避し、細川晴元も京都郊外の岩倉へと逃れ、木沢長政は将軍・義晴の身柄を抑えることに失敗。

幕府に反逆した謀叛人の汚名を被ることになり、急速に人心を失っていきます。

 

同年11月、細川晴元は長政への反撃を開始し、将軍・義晴を通じて伊賀守護・仁木氏へ長政方の笠置城への攻撃を依頼しました。

笠置城には木沢配下の甲賀衆が7~80人ほどが守備していましたが、仁木氏は伊賀衆を城内に潜入させて放火したと『多聞院日記』天文十年十一月廿六日条にはあり、これは確かな史料に残る最も古い忍者の活動記録としても知られます。

木沢氏、仁木氏双方に雇われた甲賀者、伊賀者の暗闘が、この時の笠置城の攻防で繰り広げられたのです。

木沢方であった柳生家厳と簀川氏は日和見を決め込んだのか、この時笠置城の救援に向かいませんでしたが、筒井順昭は笠置城へ援軍を派遣し、11月28日には伊賀衆は30人余りの死者を出して退散しました。

 

木沢長政は笠置城の防衛には成功したものの、状況は長政の不利に傾き、ついには本拠である河内でも反長政の狼煙が上がることになります

それまで長政と協調していた南河内守護代の遊佐長教は、長政との断交を決意し、翌1542(天文11)年3月、木沢派の尾州家家臣を自害に追い込むと、紀伊へ追放していた尾州家当主・畠山稙長を高屋城へ迎えて、長政との対決姿勢を鮮明にしました。

また、長政が擁立した総州家当主の畠山在氏も、しばしば主君である自分をないがしろにする長政に強い不満を持っていたことから、積極的に長政を支援する姿勢を示しませんでした。

こうして畠山家中からも見限られた木沢長政は畿内で完全に孤立します。

進退窮まった木沢長政は、高屋城を攻略すべく河内南部へ進出しますが、太平寺(現大阪府柏原市)で遊佐長教軍と合戦に及び、細川晴元から高屋城救援を命じられた三好長慶の軍に横槍を突かれて潰走。壮絶な討ち死にを遂げました。

こうして三好長慶は10年越しで父・元長の仇を討ち、天文年間初頭の戦国畿内をかき回した梟雄・木沢長政は、その波乱の生涯を終えたのです。

 

歌人大名・十市遠忠

木沢長政の死により、大和でいち早く勢力拡張に乗り出したのが十市遠忠でした。

1542(天文11)年3月に太平寺の戦いで木沢長政が討ち死にすると、十市遠忠は長政の居城であった信貴山城など奈良盆地各地の長政方の諸城を焼き打ちにします。

そして長政方の領地となっていた式上郡(現天理市桜井市の一部)を切り取り、山辺郡、式上郡十市郡にその版図を広げて、十市氏の最盛期を築きました。

長政の死後、筒井順昭、十市遠忠はともに高屋城へ復帰した畠山稙長に与し、同年8月、稙長が和泉に出兵した際には、筒井順昭は稙長の居城・高屋城に留守居役として出陣。この時20歳となっていた順昭の初めての河内出陣となりました。

翌9月には、幕府から木沢長政の与党と見なされた畠山在氏の討伐が始まると、筒井順昭と十市遠忠は揃って在氏が籠る飯盛山城へ出陣。飯盛山城は翌年の正月に陥落することになります。

 

飯盛山城が幕府勢に包囲される中、11月26日に山城へ三好長慶配下の松永久秀が軍勢を引き連れて進出してきたとの報が興福寺にもたらされました。

木沢長政の残党に備えた動きであったと見られますが、興福寺では三好長慶が奈良に侵攻してくるのではないかと危惧し、南円堂に籠って調伏の祈祷を実施したと『多聞院日記』には記録されています。

結局、翌日松永久秀は山城から退散し、興福寺が危惧した三好長慶による大和侵攻は杞憂に終わりましたが、これが大和の記録に松永久秀が現れた最初の記録になりました。

この時から17年後の1559(永禄2)年、長慶の命を受けた久秀が大和への侵攻を開始することになるのです。

 

さて、木沢長政の大和侵攻で、天文元年から続いた大和国一揆体制は崩壊し、その後は二度と一揆体制は結ばれることはなくなりました。

興福寺を精神的紐帯とする大和武士の一体性はほぼ失われ、各国人は自身の生き残りと勢力拡大のためには、他国衆と手を結ぶことも辞さない状況となります。

 

そのような長政横死後の大和で、他の国人より一歩抜け出したのが筒井氏と十市氏でした。

しかし、十市氏を一代で筒井氏に匹敵する勢力へと拡大させた十市遠忠は、1545(天文14)年に急死します。享年49。

辞世の句として以下の歌が遺されています。

足引の山ほととぎすさよふけて 月よりおつる一声の空

筆者は写生的でとてもよい歌だと感じますが、いかがでしょうか。

 

遠忠は武将として優れただけでなく、当時一流の歌人として知られた三条西実隆から手ほどきを受けたとされる歌の達人で、群書類従続群書類従には「十市遠忠百首」「五十番自歌合」「百番自歌合」などが遠忠の作品として残されています。

また、鳥飼流の書の達人でもありました。

十市遠忠自筆詠草(国立国会図書館蔵)

1499(明応8)年、遠忠が3歳のときに父・遠治は赤沢朝経に敗れて大和を追われ、遠忠は少年期を父の亡命先である京都で過ごしたと見られます。

多感な少年時代を京都で過ごしたことが、遠忠の文化的素養を大きく伸ばしたのかもしれません。

遠忠が文化人として急速に成長するのは、1521(大永元)年に大和国一揆体制が細川高国の肝いりによって結成され、十市氏が旧領復帰してからです。

当時の当主は父・遠治で、気軽な御曹司だった遠忠は京から奈良に訪れる貴族や文化人と連歌会などで親しく交流し、その才能を開花させました。

細川高国政権と国人一揆体制によって築かれた平和が、京と大和の文化的交流を活発にし、若き遠忠の文化的才能を育んだと言えるでしょう。

遠忠の創作活動は、父の死で家督を継いでからも衰えることなく死の前年まで続き、多くの寺社や旧家に遠忠の作品は遺され、現在まで伝わっています。

作品の質、量ともに中世大和の歌人として他を圧倒する十市遠忠は、間違いなく戦国大和における最高の歌人でした。

現在、十市遠忠の居城・龍王山城へ向かう登山道の入り口付近にある、天理トレイルセンターの敷地内には、遠忠の歌碑が立っています。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
Nankou Oronain 作『十市遠忠の歌碑』はクリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 3.0 非移植 ライセンスで提供されています。

天下(あまのした) おさまる時を 朝夕の 月にも日にも 光いのる哉

「世の中の平和を太陽と月の光に祈願する」という遠忠の思いを詠んだこの歌は、1531(享禄4)年から1534(天文3)年あたりに詠まれました。

ちょうど大永元年に結ばれた大和国一揆の体制が、細川高国政権の崩壊とともに大きく揺らいだ時期で、遠忠の平和を希求する思いが伝わる歌です。

歴史上の人物の心情を、史料から読み解くことは不可能とされますが、歌人であった遠忠は、その残した歌から当時の彼の心情を具体的に推し量れる点で、稀有な戦国武将と言えるでしょう。

この歌を詠んで数年後、家督を継いだ遠忠が戦国大和の争乱の中心人物となっていったのは、戦国時代に武家の当主となった者に課せられた使命の残酷さを感じずにはいられません。

遠忠は国人一揆体制の下、平和に歌を詠んで過ごせた時代を理想の時代と考え、一揆体制を破壊する外敵・木沢長政とそれに与する筒井氏を許せなかったのかもしれません。

筒井氏を始め多くの大和国人たちが、侵攻してきた木沢長政に付き従ったのに対し、長年の筒井氏との同盟関係を破棄してまで、敢然と長政に立ち向かった十市遠忠の姿は、そのように考えないと筆者には理解できないのですがいかがでしょう。

 

1545(天文14)年3月に十市遠忠が死去して、十市氏はその子・遠勝が跡を継ぎます。

同年4月には越智氏の中心人物だった越智家頼が世を去り、5月には河内守護で大和国人に隠然たる影響力を有した畠山稙長が急死して、その弟・政国が跡を継ぎました。

 

木沢長政の横死に続き、相次いで大和の覇権に大きな影響を持つ勢力が代替わりで混乱する中、筒井氏の若き当主・筒井順昭が大和統一に向け、いよいよ動き出すのです。

 

参考文献

『奈良県史 第11巻』 奈良県史編集委員会 編

『橿原市史』 橿原市史編集委員会 編

『多聞院日記』英俊著

『中世文芸の源流』  永島福太郎 著

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