大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

大和国人一揆崩壊と薬師寺炎上~大和武士の興亡(11)

細川京兆家家督を巡る細川高国細川澄元の戦いは、1520(永正17)年5月の等持院の戦いで大きな区切りを迎えます。

この合戦で澄元方の主力を担った重臣三好之長が敗死し、同年6月、澄元は再上洛を果たせぬまま失意のうちに阿波勝瑞城で失意のうちに病死。

三好之長、細川澄元の死で、畿内における細川高国の優位が確定しました。

河内では高国に与する尾州家・畠山稙長の優勢となり、大和では細川高国、畠山稙長の強い働きかけによって筒井順興越智家頼が和睦。

翌1521(大永元)年に順興は越智氏の娘を妻に迎えて、再び大和国一揆の体制が固まりました。

細川高国のもと畿内の情勢は安定化するかに見えましたが、1520(永正17)年の三好之長による畿内侵攻の際、細川澄元方へ鞍替えを図った将軍・足利義稙細川高国の関係は修復不能なレベルまで悪化。

1521(大永元)年3月、足利義稙が追放同然に堺へ出奔すると、細川高国は新たに足利義澄・遺児の足利義晴を12代将軍として擁立し、ここに再び足利将軍家が分裂。

室町幕府の終焉は、いよいよ最終段階に入りつつありました。

 

 

大和国一揆の戦い

1521(大永元)年3月、堺へ出奔した足利義稙は同月、淡路にまで逃亡します。

このとき、足利義稙に味方したのが、当時隠居の前河内守護・畠山尚順でした。

1493(明応2)年の明応の政変以来、一貫して義稙に与してきた尚順としてはその関係を断ちがたかったのかもしれません。

しかしこの時、尾州家当主となっていた尚順の子・畠山稙長細川高国との関係を重視して、父とは袂を分かち、ここに畠山尾州家は父子で分裂することになりました。

尚順総州家の畠山義英と和睦し、細川高国と対決姿勢を見せます。

同年10月、足利義稙が淡路から再び堺へ進出すると、畠山義英は大和国宇智郡(現奈良県五條市)に侵入して焼き討ちをかけ、大和を北進する動きを見せました。

この畠山義英の動きに大和国人で呼応したのは古市公胤と箸尾氏、万歳氏、岡氏、片岡氏の五氏に留まり、筒井順興と越智家頼はともに畠山稙長に味方して義英軍を迎え撃ちました。

同年11月3日、義英軍と稙長方の河内衆と筒井、越智連合軍は宇智郡で激突。

合戦は兵数で圧倒した稙長方の勝利に終わり、義英は大和から撤退しました。

同月14日に筒井順興は畠山義英に与した古市公胤を討伐するため、大軍で古市郷(現奈良市)に押し寄せます。

順興は古市、鉢伏、鹿野園、藤原の村々を焼き払うと、古市公胤は東山中へ逃亡し、大和国内は平穏を取り戻しました。

結局、細川高国と畠山稙長、大和国一揆によって足利義稙畠山尚順、義英の反攻作戦は失敗に終わり、足利義稙畠山尚順は淡路に逃亡しました。

そして、翌1522(大永2)年に畠山尚順、畠山義英が相次いで病死。

淡路に潜伏していた足利義稙は再起を図るため、細川澄元遺児の晴元を擁する細川讃州家(阿波守護家)を頼って阿波へと渡ります。

しかしこの当時、当主晴元はまだ10歳で、等持院の戦いの敗戦から立ち直っていない讃州家には、畿内に再進出する余力はありませんでした。

足利義稙は、再び上洛することを夢見ながらもついに果たせず、1523(大永3)年に阿波国撫養(現徳島県鳴門市)で失意のうちに病死します。享年58。

応仁の乱の敗戦で父・義視とともに美濃国に亡命を余儀なくされながらも、従兄弟の9代将軍・義尚が夭折したため将軍位に就任。しかし、その後二度も家臣に都を追われるという数奇な人生を辿った将軍でした。

さて、実子に恵まれなかった義稙は、阿波の地で宿敵だった10代将軍・義澄の遺児を養子に迎えています。

12代将軍・義晴の弟、足利義維(よしつな・この時期の諱は「義賢」ですが当ブログでは義維で統一)です。

11代将軍・義澄は細川高国に京都を追われた際に、亡命先で近江守護・六角高頼の庇護を受けますが、高頼が足利義稙と通じているとの風聞から身の危険を感じ、同行していた二人の息子を、別々の場所に預けました。

兄・義晴は当時細川澄元派であった播磨の赤松義村へ、そして弟・義維は阿波の細川澄元の下で養育されます。

義維は義稙の養子となったことで、その後、実兄・義晴と将軍位を巡って激しい争いを繰り広げることになっていきます。

下掲の図は、6代将軍・義教以後の足利将軍家の略系図です。

こうして概観すると、11代将軍・義澄以降は血統上、堀越公方・政知の子孫になりますが、応仁の乱以降、足利将軍家は義政系と義視系の二つの「家」に分かれて、それぞれを担ぐ勢力を巻き込み、将軍位を争った様相がよくわかります。

さてこの頃、数多くの大和国人の中で最も全国的に有名な一族が、歴史の表舞台に姿を現します。

現在の奈良市北東部、小柳生庄の荘官だった柳生氏です。

1524(大永4)年9月、伊賀守護・仁木政長の弟(子との説もあり)・仁木七郎が、筒井氏与党である狭川氏が拠る笠置山城(現京都府笠置町)へ夜襲を掛けました。

これは小柳生の領主だった柳生家厳(剣豪・柳生石舟斎の父)が、筒井氏与党であった狭川氏を打ち倒すべく、古市氏、簀川(須川)氏と談合の上、伊賀衆を引き入れたものと見られます。

結局戦いは狭川氏の勝利に終わり、伊賀衆は多くの死傷者を出して退散したと、春日社司・祐維が記した『祐維記抄』に記されています。

これが、確かな史料に登場する柳生氏の最も古い活動記録で、この頃から柳生氏は大和の東山中だけでなく、伊賀や南山城地域とも密接な関係を持って活動していたことがうかがえますね。

 

柳生氏が伊賀衆らとともに笠置へ攻め込んだのと時を同じくして、河内では畠山義英から総州家当主を継いだ義英嫡男の義堯が再起を図り、仁王山城(現大阪府河内長野市)で挙兵します。

笠置での柳生氏の軍事行動は、畠山義堯の挙兵に連動した動きだったのでしょう。

義堯勢は7000を超える大軍勢で、この鎮圧には畠山稙長だけでなく大和からは筒井順興、越智家頼ら大和国一揆勢も稙長方として参陣し、細川高国も嫡男の稙国を派遣しました。

結局12月に入って仁王山城は陥落。

畠山義堯は高野山へと落ち延びて河内における畠山尾州家の優勢は動きませんでした。

 

細川高国の凋落

1507(永正4)年の永正の錯乱以降、何度かの苦境を乗り越えた細川高国畿内支配はゆるぎないものになりつつありました。

しかし、1525(大永5)年に嫡男の稙国に先立たれた頃から高国の暗転が始まります。

1526(大永6)年7月に高国が重臣丹波国衆である香西元盛を従兄弟の細川尹賢の讒訴に従って誅殺すると、元盛の弟である波多野元清柳本賢治丹波で高国に反旗を翻しました。

高国は10月に丹波へ討伐軍を派遣しますが、香西元盛の誅殺で急速に家中の求心力を失っていたこともあって討伐軍の士気は上がらず討伐に失敗してしまいます。

この畿内の混乱に敏感に動いたのが、阿波で臥薪嘗胆の日々を送っていた細川晴元三好元長主従でした。

三好元長像(見性寺蔵)

同年10月に細川晴元は10代将軍・義稙の養嗣子・足利義維を擁して阿波で挙兵すると、波多野元清、柳本賢治と連携して12月には畿内に進出し、翌1527(大永7)年2月には柳本賢治丹波衆と合流して桂川(現京都市右京区周辺)まで進出。

これに対して足利義晴細川高国桂川東岸に出陣して決戦となります。

この桂川原の戦いは、細川晴元の大勝に終わり、足利義晴細川高国は近江へ逃亡。幕府評定衆や奉行人まで逃走する有様で、足利義晴細川高国の政権は瓦解しました。

空白地帯となった京都へは、波多野、柳本ら丹波衆が進駐し、足利義維細川晴元三好元長とともに堺へ入ります。

義維の将軍宣下を狙う細川晴元三好元長の朝廷工作により、同年7月義維は将軍宣下の前段階である従五位下左馬頭に任ぜられ、「堺公方」と称されるようになりました。

着々と義維の将軍宣下の準備が進められる中、細川高国は越前朝倉氏の協力を得ることに成功します。

10月には名将・朝倉教景宗滴)が1万余りの軍勢を率いて加勢すると、京都の晴元方勢力を駆逐して、足利義晴細川高国は再び京都に復帰しました。

その後戦線が膠着する中、12月になると筒井順興と越智家頼が畠山稙長とともに京都四条へ着陣し、京都を伺う柳本賢治三好元長の侵攻に備えます。

両軍の睨み合いが続く中、細川高国三好元長が和睦交渉に入りましたが、山城周辺を拠点とする柳本賢治が反対して交渉は難航。

交渉が進まぬまま、翌1528(享禄元)年2月には筒井勢、越智勢が大和へ引き上げ、3月になると細川高国と折り合いの悪くなった朝倉教景が、越前勢を率いて帰国してしまいます。

主力の越前勢が撤退したことで足利義晴細川高国は京都を維持できなくなり、同年5月に再び近江へ撤退。京都は再び細川晴元方の手に落ちることになりました。

京都を巡る攻防に勝利した細川晴元方でしたが、一連の戦いで早くも内部に不協和音が響きだします。

三好元長は京都攻略で抜群の功績を治めましたが、独断で細川高国と和睦交渉した事を柳本賢治と従弟の三好政長が細川晴元に讒訴したため、柳本賢治三好政長との関係は険悪なものとなり、主君・細川晴元の不信を招くことになったのです。

 

大和国一揆の崩壊と薬師寺炎上

さて、細川高国政権の瓦解は、高国の強い意向で結ばれた大和国一揆体制にも大きな綻びをもたらしました。

1528(享禄元)年8月、筒井順興は越智家頼との同盟関係を破棄し、畠山稙長と結んで越智郷への侵攻を企て、1521(大永元)年から7年続いた国人一揆体制は再び崩壊します。

この時、順興は畠山稙長に対して越智郷での占領地の半分を畠山稙長傘下の根来寺杉坊(後に鉄砲を生産し雑賀衆と並ぶ鉄砲集団となる)へ分与することを条件に出兵を促しました。

かつて自身の領土拡張のため他国衆・赤沢朝経を奈良へ引き入れた古市澄胤同様の行為で、武家の支配を拒み続けた興福寺の「神国大和」という伝統的思想を、興福寺官符衆徒棟梁たる筒井順興自身が無視したという点で、戦国乱世による大和武士の伝統的価値観が完全に崩壊していたことが順興の行動からうかがえます。

また、従来は幕府の意向に追従して動くことの多かった筒井氏でしたが、順興は細川高国の勢力が衰えると見るや、元々乗り気ではなかった越智氏との同盟関係をあっさりと破棄して独自の方針で勢力拡張に動きました。

筒井氏は順興の代で本格的に戦国大名したと言えるでしょう。

 

順興は南和侵攻に先立ち、越智氏に与して背後を脅かす超昇寺(現奈良市)、矢田中村(現大和郡山市)の両氏を攻撃して駆逐すると南進を開始。この時、大和の主要な国人のうち箸尾為時、十市遠治は順興に与して越智郷へ侵攻し、筒井軍は越智家頼に与した高田氏が守る四条(現橿原市)へ進撃しました。

この筒井順興の南進に呼応して、9月5日畠山稙長配下の紀伊根来寺杉坊の兵が吐田(現御所市)へ侵攻し越智方の国人たちを打ち破ると、9日には越智氏の本拠である越智館(現高取町)にまで攻め入ります。

越智家頼は越智館を放棄し、高取城へ入って籠城しました。

筒井の主力が南和に展開する中、先に筒井順興によって国外に追われた超昇寺氏、矢田中村氏が大和へ戻り、鷹山氏を味方につけて9月6日に秋篠まで進出します。

秋篠には筒井方の秋篠氏が守りを固めていましたが、超昇寺氏、矢田中村氏、鷹山氏ら三人衆の対して兵数が足りないと見た秋篠氏は郡山城まで撤退しました。

9月7日これを追って薬師寺まで進出した三人衆は、薬師寺を含む五条から九条一帯の郷村に火をかけ、焼き討ちを掛けます。

薬師寺西塔(1981年再建)

特に筒井方が陣地を置いていたわけでもない薬師寺を焼き討ちしたのは、暴挙と言わざるを得ませんが、

この焼き討ちで薬師寺では白鳳時代から残された西塔のほか、金堂、講堂、中門そして各僧房が悉く焼失しました。

薬師寺金堂(1976年再建)と東塔

その後、江戸時代になってようやく仮金堂や講堂が再建されたものの、薬師寺はこの焼き討ちをきっかけに荒廃します。

そして再び東西両塔が並ぶ奈良時代以来の姿がよみがえるのは、1968(昭和43)年高田好胤管長が始めた白鳳伽藍の復興事業による1981(昭和56)年の西塔再建まで待つことになるのです。

薬師寺中門(1984年再建)

薬師寺では1976(昭和51)年の金堂再建を皮切りに、1984(昭和59)年に中門が、そして2003(平成15)年には大講堂が再建され、享禄元年の焼き討ちによって焼失した伽藍は21世紀になってようやく再建されました。

薬師寺講堂(2003年再建)

薬師寺の再建について興味のある方は下記の記事もぜひご覧ください。

薬師寺の伽藍再建を推進した昭和の名僧・高田好胤さんの記事です。

薬師寺復興伽藍の棟梁を務めた法隆寺宮大工・西岡常一棟梁の記事です。

 

超昇寺、矢田中村、鷹山ら三人衆による襲撃の報を受けた筒井順興は井戸城まで引き返しました。

 

さて、大和で筒井氏と越智氏の抗争が再燃している間、山城では細川晴元家中の三好元長柳本賢治三好政長との争いが激化していました。

三好元長柳本賢治は山城の支配権をめぐって山城守護代の地位を争いましたが、京都奪回の功績を評価された元長が守護代の地位を手に入れると、勢力挽回を目指す賢治は次なる目標に大和、河内を目指すことになります。

16世紀に入り、大和の戦国争乱は他国衆の侵入に国人たちの戦国大名化も相まって、混乱のピークに達しようとしていました。

 

参考文献

『奈良県史 第11巻』 奈良県史編集委員会 編

『奈良市史 通史 2』 奈良市史編集審議会 編

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