大和徒然草子

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筒井順慶、松永久秀の激闘~大和武士の興亡(16)

1559(永禄2)年8月、将軍・足利義輝をも凌駕する権勢を誇った三好長慶は、河内守護・畠山高政安見宗房の対立による河内国内の内訌に介入。守護・高政方に付いて、安見宗房を大和へ駆逐しました。

さらに安見宗房追討を名目として、長慶は重臣松永久秀を大和へ派遣し、宗房と同盟関係にあった筒井氏とその傘下国人たちへの侵攻を開始します。

その後、近江守護・六角氏と河内守護・畠山氏と対立するようになった三好氏は、南北から両氏の攻撃を受けて一時苦境に陥りますが、1562(永禄5)年の教興寺の戦いに大勝利して河内を支配下に収め、一時的に揺らいだ大和の支配も回復。

筒井党の主要国人であった井戸氏や、古くからの有力国人・十市氏が相次いで松永久秀に屈服し、少年大名の筒井順慶(当時・藤勝)は東山中の椿尾上城から国中(くんなか・現奈良県平野部)に戻れず、ゲリラ戦を展開するほかない状況でした。

窮地の筒井氏に1563(永禄7)年3月さらなる激震が襲います。

教興寺の戦い以後、堺で亡命生活を送っていた順慶の後見人で叔父の筒井順政が、帰国を果たせぬまま客死したのです。

事実上、筒井氏の棟梁として活動していた順政の死は、筒井党にとっては大きな損失であり、13歳の少年大名・順慶は名実ともに筒井氏棟梁として前面に立ち、松永久秀に立ち向かわざるを得なくなりました。

しかし大和における三好氏の優勢は、翌年早くも揺らぎ始めるのです。

三好長慶の死と三好氏分裂

1564(永禄7)年7月、三好長慶は43歳という若さで世を去ります。

前年の8月、長慶嫡男の三好義興が22歳の若さで亡くなっており、養子として迎えられてた実弟十河一存の子であった義継が、その跡を継ぎました。

三好義継像(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)

義興に幼い実子・義資がいたものの、長慶が義継を後継者としたのは、義資が幼過ぎたことはもちろんですが、もう一つは義継の母が摂関家九条稙通の娘で、甥の中でも抜群の血筋の良さがあったからとされています。

長慶は将軍・足利義輝抜きで5年間中央政権を主宰して、1558年には将軍の専権事項であった改元の諮問と費用負担を行って「永禄」改元を実現した他、1564(永禄7)年には讖緯説(辛酉、甲子の年は革命が起こるという説)に基づく改元の申請を行うなど、将軍権威の凌駕を図るような動きを見せており、摂関家という「貴種」の血筋にある義継を後継者とすることで、将軍・足利義輝に対峙し、あわよくばこれを越えようと考えたのかもしれません。

 

長慶の死はしばらく秘され、義継を宿老である松永久秀三好長逸たちが支える体制が構築されましたが、長慶の死に先立ち同年5月に、唯一生き残っていた長慶の実弟・安宅冬康が誅殺され、1561年から1564年にかけて長慶とその世子・義興、実弟三好実休、安宅冬康、十河一存を相次いで失った三好氏の勢威は、大きく揺らぐことになりました。

一方、長慶の死によって将軍・足利義輝の権威は相対的に高まります。

義輝は長慶を含め、上杉謙信斎藤義龍織田信長といった下剋上で従来の守護を追放して成り上がった大名たちの支配を公認し、それまで足利一門が世襲していた九州探題大友義鎮宗麟)を、奥州探題伊達晴宗を任命するなど、実力本位で有力な戦国大名を自身の直接の影響下に置き、新たな秩序を打ち立てようとした将軍でした。

直接諸国の有力大名と関係を結んで親政を指向する義輝は、大黒柱を失った三好氏にとっては脅威に映ったのかもしれません。

こうして長慶の死の翌年、1565(永禄8)年5月、三好義継は松永久通、三好長逸重臣を伴って将軍御所を急襲。将軍・足利義輝を殺害するという挙に出るのです。

この三好義継による将軍殺害の理由は諸説あり、三好義継が足利将軍家にとって代わろうとしたものとか、将軍家を義晴流から阿波の義維流に変更しようとした等、判然としません。

判然としない理由の大きな要因は、将軍暗殺後の三好政権内での動きに一貫性がないことで、義輝殺害後、三好勢は余勢をかって京都にいたその弟・周暠は殺害しましたが、奈良の興福寺一乗院門跡で義輝の同母弟・覚慶(後の足利義昭)は、松永久秀によって命を救われています。

仮に三好義継が足利将軍家を完全につぶそうと考えていた、もしくは阿波公方の足利義維を新たに担ぎ出そうと考えていたなら、この時覚慶を生かしておくのは明らかにおかしいでしょう。

また実際にこの時点で三好氏、とくに義継に阿波の足利義維を担ぎ出そうという動きはなく、久秀が覚慶を庇護したのは、阿波三好家(当主は実休の子・長治)の家宰・篠原長房が阿波公方を奉じて上洛してきたときの対抗馬として確保したと独自に判断したのかもしれません。

四国東部から畿内一帯に及ぶ広大な版図を持った三好氏は、長慶の死後急速に統率が取れなくなっていきました。

特に長慶死後、三好本宗家内では松永久秀三好長逸、三好宗謂、石成(岩成)友通ら三好三人衆一派との権力争いが次第に表面化してきます。

 

同年7月、奈良で松永久秀の監視下に置かれていた覚慶は密かに近江へ脱出。

翌8月には久秀の実弟内藤宗勝(松永長頼)が、丹波で反三好勢力の赤井直正との戦いで敗死し、三好氏の丹波支配が大きく揺らぎます。

この二つの事態を久秀の失態とした三好三人衆は、同年11月16日、千人の兵を率いて飯盛山城に入り久秀派の金山駿河を殺害。当主・三好義継に久秀との断交を強要しました。

若年の義継は三好三人衆の要求を呑むほかなく、ここに三好家中は松永派と三好三人衆派に分裂し、内戦状態となります。

この三好家中の混乱は早くも大和へ伝わり、順慶は11月18日には東山中から布施城(現葛城市)に移って松永方を牽制。

三好家中で松永久秀が孤立したことから、大和国内の松永方国人たちは次々と久秀から離反し始めました。

11月26日に順慶は松永方の高田郷に焼き討ちをかけると、翌12月15日には井戸氏が筒井氏に寝返り、松永方の古市郷に攻撃を仕掛けました。

さらに筒井方の中坊氏が12月19日に「河州・山城口」へ出陣し、相楽郡(現木津川市)に陣取ります。

順慶は12月までに三好三人衆と同盟を締結。

この盟約に従って、12月21日から26日にかけて三好三人衆は三千の兵を率いて大和北西部に進出し、久秀が多聞山城から出した兵と対峙しました。

順慶は三好三人衆との同盟関係を梃子に、大和国内で久秀に対する優勢を勝ち取ったのです。

筒井城奪回と陽舜房順慶誕生

翌1566(永禄9)年になると、阿波三好氏をはじめとする三好一門が三好三人衆の支持を表明。

三好家中で孤立無援となった松永久秀は、河内から紀伊に追われ前年に兄・高政から家督を譲られた河内守護・畠山秋高とその臣・安見宗房、そして近江矢島に逃れていた足利義昭(当時・義秋)とその支援を表明していた越前の朝倉義景尾張織田信長と連携を取り、劣勢の挽回を図ります。

しかし同年2月に河内で松永久秀と畠山秋高の連合軍が三好三人衆に大敗すると、順慶は攻勢を強め、4月には美濃庄城(現大和郡山市)を奪還して筒井城へと迫りました。

そして翌5月、泉州松永久秀は畠山秋高とともに再度三好三人衆と決戦に及びますが、戦いは三好三人衆の勝利に終わり、戦後久秀は行方知れずとなります。

順慶はこの機を逃さず筒井城へ攻めかかり、同年6月8日ついに1559(永禄2)年以来失陥していた筒井氏歴代の本城・筒井城を奪回しました。

ところでこの時、筒井城を守っていた松永方将兵の中に「尾張国衆」と『多聞院日記』に記載があり、これは織田信長の援軍と考えられます。

1565(永禄8)年12月に近江矢島から諸国の大名に支援を呼びかけた足利義昭に対して、当時尾張一国の大名だった織田信長がこれに応じ、1566(永禄9)年8月に義昭を奉じて上洛することが計画されていたことが近年史料から明らかになっていますが、義昭を共に奉じる畿内の同盟者・松永久秀の窮状を支援すべく、はるばる尾張から援兵を送っている点からは、信長の上洛作戦に対する本気度を感じさせます。

しかしこの時、信長は国内情勢から美濃斎藤氏との戦闘を継続せざるを得なくなり、上洛作戦は幻となりました。

その結果、足利義昭は朝倉氏を頼って越前に逃れ、久秀も畿内での劣勢を挽回できずしばらく行方をくらますことになります。

 

こうした状況下で松永久秀に屈服してきた国人の多くが再び筒井方へと寝返る中、筒井城に復帰した順慶は満を持して得度、即ち僧となる準備を進めます。

筒井氏は代々興福寺一乗院の官符衆徒であり、祖父・順興以来、官符衆徒棟梁を務めてきました。

興福寺の大和支配はすでに有名無実化していましたが、正当な大和の支配者としての権威付けの為には官符衆徒の地位が必要で、そのためには得度して僧となる必要があったのです。

同年9月25日、順慶は5千の兵を率いて奈良に入りました。

多聞山城の松永久通はこの動きに籠城し、筒井軍は興福寺の諸堂に陣取って佐保川を挟んで対峙する松永方の兵に備えます。

両軍が対峙する中、9月28日に順慶は筒井氏ゆかりの成身院で剃髪・得度し、陽舜房順慶を名乗りました。

筒井順慶画像(伝香寺蔵)

 

晴れて官符衆徒棟梁となった順慶に対し、久秀不在の松永方は大和国内では多聞山城、信貴山城を確保するのみで、防戦一方となったのです。

 

東大寺大仏殿の炎上

翌1567(永禄10)年2月16日、三好氏に激震が走ります。

三好三人衆との間に対立が生じた三好氏当主・三好義継が高屋城から突如出奔し、堺に潜伏していた松永久秀と合流したのです。

ちょうど前年の12月、阿波三好氏と三好三人衆の後援により、阿波公方・足利義維の子・義栄従五位下左馬頭に任じられ、将軍叙任が間もなく実現するという時期にありました。

そのため義継の出奔は、義栄を尊重して自身をないがしろにする三人衆の対応に不満を抱いたとも、三好本宗家の家督を狙う阿波三好氏の主導で将軍を擁立することへの不満があったとも考えられています。

いずれにせよ、三好氏の当主・義継が三好氏の推す義栄と将軍位を争っていた義昭支持に回ったことになり、畿内の混迷は進みました。

しかし、畿内で孤立していた松永久秀にとっては、三好本宗家当主の支持を得られたことは、大義名分的にも心強いものだったことでしょう。

同年4月6日、松永久秀は潜伏先の堺から三好義継を伴って信貴山城に帰還すると、同月11日には嫡男・久通が固守した多聞山城へ入りました。

大和へ再び姿を現した久秀を討つべく、三好三人衆は早くも同月18日には1万の軍勢を率いて奈良近辺に陣取り、順慶も出陣して両軍が諸寺の塔や門から鉄砲を打ち合うなど、半年にわたって大小の戦いを繰り広げます。

このとき久秀は多聞山城にほど近い般若寺などを、敵方の陣地に使われることを恐れて焼き払いました。

般若寺

そして同年10月10日、戦線が膠着する中、東大寺に陣取る三好三人衆の軍勢に久秀が奇襲攻撃を敢行。

この東大寺大仏殿の戦いで久秀は大勝利を収め、三好三人衆の軍は潰走しました。

そしてこの戦いでの失火が原因で、東大寺の大仏殿をはじめとした主要な伽藍が灰燼に帰し、大仏は高熱で首から上が溶け落ちて無残な姿となります。

戦いに敗れた三好三人衆が奈良から撤退する中、大乗院山(現奈良ホテル付近)に布陣していた順慶は、直接戦闘に関わることなく撤兵し、松永久秀は奈良近辺の支配を回復します。

しかし、この東大寺大仏殿の戦いの勝利は、大局的に見れば大きな戦況改善をもたらすものではなく、順慶も大きな損害を被ることがなかったため、大和における筒井方の優勢は動きませんでした。

 

織田信長の上洛

東大寺大仏殿の戦いが大和で起こった同時期に、尾張織田信長は美濃の平定を完了して本拠を岐阜に移転していました。

織田信長像(長興寺蔵)

有名な「天下布武」の印判を用いるようになったのは、同年11月のことです。

ここで信長は1年前に断念した上洛作戦を再び始動させたようで、東大寺大仏殿の戦いの後、松永久秀に与して奈良に駐屯する柳生氏ら大和国人たちに対し、「間もなく足利義昭を奉じて上洛するので、松永父子を見放すことが無いように」と「天下布武」印の朱印状を同年12月1日に送り、苦境にある松永方国人たちを督戦しました。

そして翌1568(永禄11)年9月7日、ようやく信長は準備を整え、上洛軍を岐阜から発します。

最初に立ちふさがった六角義賢は6月12日に前衛の城を突破されたため、本城・観音寺城を放棄して甲賀へ逃亡してゲリラ戦の構えを取りました。

これは足利義尚以来、度々幕府の侵攻を受けた六角氏の伝統的戦法で、広大な近江の縦深性を利用して長期戦に持ち込み、敵が音を上げるのを待つというものでしたが、信長は蒲生氏ら有力国人を調略して近江南部の要所を抑え続け、以後六角氏は凋落します。

一方、京都を守るべき三好三人衆は、松永久秀との戦いで大和に釘づけにされ、信長の進撃に対応することができず、9月末にかけて畿内から撤退して阿波へと逃れました。

そして9月29日には、三好氏の拠点城郭だった摂津の芥川山城(現大阪府高槻市)、10月の初めにまでに河内の飯盛山城、高屋城が信長の手に落ちます。

この時信長は足利義昭とともに京都ではなく、芥川山城に入って畿内の制圧戦に入った点が興味深いところです。

京都には防御性の高い城郭がなかったこともありますが、畿内を支配した細川京兆家と三好氏の本城であった芥川山城は、新たな畿内の支配者としてアピールするのにふさわしい場所と信長には映ったのでしょう。

10月4日、松永久秀と三好義継は芥川山城に参上して信長と会見し、久秀は大和一国を、義継は河内半国の支配を認められます。

一方、10月5日には井戸氏ら筒井方国人が義昭への帰順を願い出ましたが、信長により拒絶されました。

筒井一党の帰順は、上洛戦において三好三人衆を大和へ釘付けにして協力した久秀の手前、信長は認めることができなかったのでしょう。

足利義昭の幕府に参加できず三好三人衆の後援も失った筒井順慶は、一転して窮地に追い込まれました。

一方、織田氏の後援を得た松永方は大和で反攻を開始。

10月8日、松永久通は筒井城へ侵攻し激戦の末、筒井城は落城、順慶は東山中へ再び逃亡することになります。

さらに信長は佐久間信盛細川藤孝らに久秀の支援を命じ、10月10日には2万の大軍が大和へ侵攻し、同年12月までに瞬く間に国中地方の主要城郭を攻略しました。

翌1569(永禄12)年4月には片岡城(現上牧町)、貝吹山城(現高取町)が、翌1570(永禄13)年3月には井戸良弘松倉権介が籠り頑強に抵抗を続けた井戸城が陥落し、ほぼ国中から筒井方の勢力は一掃されることになります。

井戸城跡

井戸城の攻防戦は、松永方の人質となっていた幼い井戸良弘の娘と松蔵権介の息子が、絞め殺された上に串刺しにされて城外に晒されるという凄惨なものとなりました。

井戸城陥落でほぼ国中の支配を固めた松永久秀は、1570(元亀元)年7月に大規模な知行割と給人の入れ替えを実施。

ここに松永久秀の大和支配は、最盛期を迎えることになりました。

 

十市氏他の武士の動向と今井町

さて、ここでは少し筒井氏以外の有力国人たちの動向も追っておきたいと思います。

まず、中和の雄・箸尾氏は1559(永禄2)年8月に松永久秀が大和へ侵攻して以来、松永方として活動し、1565(永禄8)年に久秀が三好家中で孤立していた際も離れなかったようです。

1567(永禄10)年に久秀が多聞山城に復帰して奈良で三好三人衆筒井順慶と対峙する中、箸尾為綱は6月に筒井郷を焼いて後方をかく乱した他、1570(元亀元)年7月には筒井方の細井戸城(現大和高田市)を攻撃するなど、久秀の大和侵攻の先兵となって活躍しました。

 

南和の雄・越智氏は筒井順昭によって越智郷を追われ、散発的に筒井氏への抵抗を続けていましたが、松永久秀の侵攻にあたっては筒井氏に合力したらしく、1566(永禄9)年正月に越智家増がかつての居城・貝吹山城を筒井順慶から受け取り入城しています。

その後、1568(永禄11)年から翌69(永禄12)年にかけて松永方の攻撃を受け、1569年4月に降伏開城しました。

 

中和東部の古豪、十市氏は松永久秀の侵攻により最もその影響を受けた氏族の一つです。

1565(永禄8)年頃、時の当主・十市遠勝は松永氏の圧迫を受けた他、宇陀郡の秋山氏との領土争いを優位に進めるため久秀へ従属することを決め、娘・おなへを人質として多聞山城へ送りました。

しかし、同年11月に久秀が三好三人衆のクーデターにより三好家中で失脚すると、大和国内では筒井方の反転攻勢が始まり、翌1566(永禄9)年2月に遠勝は順慶に龍王山城を追われ、今井(現橿原市)に亡命します。

この時遠勝に従って今井町に移住してきたのが十市氏の一族だった河合清長で、後に清長は本願寺の念仏道場を中心とした寺内町・今井形成の中心メンバーとなりました。

その子孫は大坂夏の陣今井町の西口の守備で武功を挙げたため、郡山城主・松平忠明から「今西」へ名字を改めるよう勧められて以後今西家を名乗り、江戸時代を通じて惣年寄筆頭の家として続くことになります。

今西家住宅

1568(永禄11)年になると松永氏の劣勢からついに遠勝は筒井・三好三人衆方に寝返って、2月には秋山氏の森屋城(現田原本町)を自力で攻め落としました。

しかし、今度は秋山氏が松永方に付くと、龍王山城を奪われた他、松永方の箸尾為綱に十市郷が焼き打ちにされるなど、苦戦が続きます。

そして同年10月に織田信長が上洛して足利義昭が15代将軍に就任すると、織田の支援を受けた松永方の攻勢が強まり、再び遠勝は松永久秀の軍門に下りました。

筒井氏と松永氏の間を行き来するうちに、十市家中は十市後室(遠勝の妻)と娘のおなへを中心として久秀に与する松永派と、一族の十市遠長を擁して筒井順慶に与しようとする筒井派が次第に形成されます。

そして1569(永禄12)年10月24日に当主・十市遠勝は跡継ぎのないまま世を去ると、両派の暗闘はいよいよ顕在化しました。

同年11月には、松永派が高田氏を通じて松永方に十市城を明け渡すことを約しましたが、これを察知した筒井派が順慶の兵500を十市城に引き入れて十市後室と松永派重臣を追放。十市後室らは河合清長を頼って今井町へ亡命することになります。

以後も両派の争いは続き、十市遠忠の時代に最盛期を迎えた十市氏は、遠忠の死から30年もたたないうちに大きく衰退してしまいました。

 

1570(元亀元)年、松永久秀によって大和はほぼ統一され、筒井順慶は再び東山中から小規模なゲリラ戦を展開するほかない状況に追い込まれました。

美濃の織田信長、河内、大和の三好義継、畠山秋高、松永久秀らによって支えられ、発足した足利義昭の幕府でしたが、様々な利害が絡み一筋縄ではいかないのが戦国の畿内です。

些細なことから足利義昭松永久秀の間に対立が生じ、再び畿内、そして大和の情勢が大きく動いていくのです。

 

参考文献

『奈良県史 第11巻』 奈良県史編集委員会 編

『多聞院日記 第1巻』 英俊 著 [他]

『史料柳生新陰流 下巻』 今村嘉雄 編

 

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