歴史好きの大和徒然草子

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一代の風雲児、信貴山に散る。松永久秀(9)

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皆さんこんにちは。

 

大和国の覇権をめぐり筒井順慶とはてしない抗争を続けた松永久秀

辰市城の戦いで順慶に大敗した久秀は、その後振るわず、信長と対立したのち、その軍門に下ることになります。

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主家、三好本宗家が滅亡し、織田信長の配下となった久秀はどうなっていくのでしょうか。

 

天正年間の久秀

 

1573(天正元)年12月26日、信長に降伏した久秀は、奈良支配の拠点であった多聞山城を織田方に引き渡します。

翌1574(天正2)年1月20日には、松永久通が帰順を許されたことへの返礼のため岐阜に赴き、信長に面会しました。

同年3月、信長は3千の兵を率いて、接収した多聞山城に入ります。

この時、信長は奈良の寺社地などの陣取りを禁止したため、奈良の住民たちは「善政の下知」と大いに喜んだといいます。

また、この時、有名な正倉院御物である蘭奢待の切り取りを行っています。

この蘭奢待切り取りは、正親町天皇の勅許を得たうえで行っており、同じく蘭奢待を切り取っ足利義満、義教、義政ら歴代室町将軍を上回る正当性を、世間にアピールする狙いがあったと考えられます。

また、三好三人衆や順慶との抗争で東大寺興福寺を焼いた久秀に代わる大和国の新たな支配者として自らの善政を大いにアピールしました。

 

久秀にとって多聞山城を引き渡し、信長の軍門に下ったことは、自身の大和支配の終焉を意味するものとなりました。

実際に天正元年以降、奈良に対する久秀の発給文書は一切なくなってしまいます。

12月、久秀は剃髪し、「道意」と号します。

それまで久通に家督を譲ったものの、松永家を主導してきた久秀でしたが、出家することで本格的な隠居生活にはいったようで、以後、数年久秀の名は史料から姿を消しました。

 

翌1575(天正3)年3月、山城南部の守護であった信長の家臣、塙直政が大和守護を兼務し、松永、筒井その他大和国人衆の軍事指揮権を握ります。

前年、奈良に対して自らの善政ぶりをアピールした信長ですが、同年3月、奈良の神鹿を正親町天皇に献上したのを皮切りとして、徐々にその強権を大和国全域に及ぼし始めていました。

同年4月、信長はかねてより松永派と筒井派に分かれて争っていた十市氏の内紛に介入。

十市氏の領地を三分割し、直政と久通に三分の一ずつを与え、十市氏の領地を三分の一にまで削減しました。

久通は、同年7月には松永派の旗頭でもあった前当主、十市遠勝の娘、おなへを妻に迎え、十市氏の居城であった龍王山城に入り、十市氏の領土の取り込みを進めます。

また11月には筒井派であった十市遠長を攻め、柳本城を陥落させています。

ともに信長配下となった久通と順慶でしたが、水面下では激しい争いが依然として続いていたようですね。

十市氏の所領を併呑することで、隠居の久秀が信貴山城を守り、当主久通は龍王山城や柳本城を拠点とする体制が確立されました。

 

翌1576(天正4)年2月、大和守護の塙直政は、久秀が復興した興福寺薪能を、自ら興行するため、奈良に赴きます。

これには、水面下で激しいさや当てが続く久通と順慶も参集し、ともに薪能を鑑賞したようです。

3月には久通と抗争を続けていた十市遠長が、直政により河内へ追放されました。

新たな大和守護となった直政と久通は、緊密に連携しあっていたと考えられます。

 

同年4月、本願寺は毛利氏に庇護されていた足利義昭に与して再び挙兵し、信長は諸将に出兵を命じます。

大和守護、塙直政も久通を含めた大和国衆を率いて出兵し、天王寺に砦を築いて本願寺と対峙します。

しかし5月、木津の本願寺勢への攻撃に参加した直政は、雑賀衆を含む本願寺の猛攻によって討ち死し、率いた軍勢が潰走してしまいます。

勢いに乗った本願寺勢1万5千は、明智光秀らが守る天王寺砦を包囲。光秀は京に滞在していた信長に救援を求めました。

光秀からの救援要請に、信長も諸国に取り急ぎ動員令を発しますが、何分急なことで兵が思うように集まりません。

このままでは天王寺砦は持ちこたえられないと判断した信長は、3000ほどしか兵が集まっていないにもかかわらず、天王寺砦を取り囲む1万5千の本願寺勢に、突撃を敢行します。

この軍勢の中には、信貴山城で隠居暮らしていた久秀も、経験を買われて召集されていました。

およそ2年ぶりに、表の世界に戻ってきたことになります。

 

信長としては桶狭間以来ともいえる、寡兵による攻撃でしたが、鉄砲で応戦する本願寺勢の切り崩しに成功し、信長自身も足に軽傷ながら鉄砲傷を負うほどの激戦を制して、天王寺砦の光秀らと合流を果たします。

ただ、この時点で本願寺勢も、囲みの一部を破られたとはいえ、大部分が健在で、陣形を回復しつつありました。

信長は、今なら各個撃破が可能と思い立ったのでしょう。

配下の将たちが、多勢に無勢を理由に、攻撃に反対するのを制して、立て続けに攻勢を指示します。

思いもよらぬ信長勢の攻撃に、本願寺勢は多くの死者を出して潰走し、信長にとっては一連の石山合戦で最大の苦境に立った天王寺の戦いで、勝利を収めました。

 

この天王寺の戦いは、信長の数多い戦いの中でも、その果断ぶりが桶狭間並みに際立つ戦いなのですが、あまり有名とは言えない戦いですね。

光秀が、大きな役割を果たした戦いでもあるので、2020年の大河ドラマ麒麟がくる」では、結構大きく描かれるのではないかなと期待しています。

天王寺の戦いの結果、信長は石山本願寺の完全包囲に成功し、本願寺の周囲を10の付け城で封鎖し、本格的な持久戦が始まります。

本願寺攻めの総大将も討ち死にした塙直政に替わって、佐久間信盛が就き、久秀、久通父子もその与力として、天王寺砦への在番を命じられることになりました。

久秀はこのとき67歳。当時としては大変な高齢であり、前線復帰は大きな負担であったろうと推察されます。

 

さて、塙直政が死亡したことにより、信長の大和支配のかなめであった大和守護の地位が空席となりましたが、信長は直政の死後、一週間ほどで、筒井順慶に「和州一国一円」の支配を命じ、直政の後任を任せます。

順慶の大和守護就任は、興福寺を筆頭とした大和の寺社勢力からは大変に歓迎されましたが、久秀、久通父子にとっては、大和の覇権争いで、決定的な敗北を意味しました。

直政に近づいて大和国内で勢力を扶植しようとしていた久通にとって、直政の戦死と、順慶の大和守護就任は、二重の痛手であったことでしょう。

また、天王寺の戦いで、隠居の身でありながら戦場にはせ参じて奮戦し、戦勝に功績をあげながら、不倶戴天ともいえる順慶が大和国衆の軍事指揮権者に任じられることは、久秀にとっては認めがたい決定であったことでしょう。

 

信貴山城の戦い

1576(天正4)年6月、信長は多聞山城の破却を決定します。

武士による大和支配の象徴でもあった、奈良を見下ろす多聞山城の破却は、信長なりに寺社勢力の強い大和国の統治を円滑化させる狙いがあったのでしょう。

8月には久通が、かつての父の居城の破却を感得するため、奈良に逗留します。

松永氏にとって大和支配の象徴であった多聞山城の破却を、順慶の指揮のもと監督せねばならなかった久通。さぞかし、ほぞをかんだことでしょう。

順慶の大和守護就任により、大和国内で久秀、久通父子はすっかり立場を失っていました。

 

そんな久秀、久通に調略の手を伸ばすものがいました。

かつて久秀が主と仰いだ足利義昭です。

 

この年の2月に備後の鞆(現広島県福山市)に移った将軍の義昭は、毛利輝元に擁立される形で、積極的な外交活動を行い、信長を再び追い詰めようとしていました。

義昭は、5月に長年北陸で対決していた上杉謙信本願寺を和睦させることに成功し、謙信の上洛ルートを確保します。

7月、毛利水軍村上水軍木津川口の戦いで信長を打ち破り、石山本願寺の包囲に穴をあけて、本願寺に兵糧を運び込むことに成功しました。

こうして毛利と信長の対立は本格的な軍事衝突に発展します。

そして9月には義昭、毛利輝元武田勝頼の間に軍事同盟が結ばれ、信長への圧迫をさらに強めます。

 

翌1577(天正5)年5月、毛利輝元足利義昭の上洛作戦の一環として、播磨の英賀に進出し、小寺政職黒田官兵衛と交戦状態に入ります。

閏7月には、上杉謙信能登に侵攻し、上洛の動きを見せ始めます。

これに対し、信長は8月に柴田勝家を総大将に羽柴秀吉滝川一益らを加賀に派遣します。

この上杉の動きに連動するかのように、紀伊雑賀衆が蜂起したため、筒井順慶が和泉に出兵し、雑賀衆の牽制にあたりました。

石山本願寺の包囲戦が膠着する中、三方から信長が攻撃を受ける中、8月17日に久秀、久通父子は天王寺砦を突如退去し、信貴山城に籠城するのです。

これを、信長への3度目の反抗、謀反とみる向きもありますが、1568年の義昭上洛時には久秀と信長の間に対立関係はなく、1573年に対立した際はそもそも信長の家臣であったわけではないため、謀反には当たりません。

まさに、この時こそ、久秀が信長配下の将でありながら、初めて反旗を翻したといえます。

信長は、柴田勝家などがよい例ですが、一度目の謀反や反旗には寛容なところがありました。

その者の実力を買っている場合は、特にその傾向が強く、久秀に不満があるなら言上し、望みどおりにしようと、使者を送って帰順を促します。

しかし、久秀はこの勧告を拒否しました。

大和の覇権を順慶に奪われ、このまま信長に従ってもじり貧であると悟り、乾坤一擲で義昭の上洛作戦に呼応した久秀に、迷いはなかったようです。

 

久秀の恃みは上杉謙信でした。

能登、加賀に侵攻して上洛の動きを見せていた上杉謙信が順調に南下すれば、本願寺や毛利と連動して信長を撃破できる目算があったと思われます。

 

久秀が帰順の申し出を拒絶すると、信長は9月後半、久秀討伐のため筒井順慶を先鋒に、明智光秀細川藤孝らを出陣させ、法隆寺に布陣します。

さらに大和国人たちに、久秀に馳走した場合は同罪とみなす旨を通達して、久秀の戦力増強を抑止するとともに、久通配下の柳本衆の調略に成功して、柳本城を陥落させます。

9月23日、加賀の手取川で、織田勢が、上杉謙信に大敗。

いよいよ謙信の南進が本格化するかと思われ、久秀もここが踏ん張りどころと松永勢の意気もあがったことでしょう。

しかし、久秀の思惑通りに事が進みません。

手取川の戦いで大勝した上杉勢の南進がぴたりと止んで、能登に引き上げてしまうのです。

 

10月1日、信貴山城の重要な支城である片岡城が、順慶、光秀、藤孝の軍勢の猛攻を受けて陥落。この戦いでは、当時15歳だった藤孝嫡男で、後に初代小倉藩主となる忠興が、信長から直筆の感状を与えられる活躍を見せています。

10月3日に、北陸から柴田勝家が安土に帰還し、上杉謙信の南下が止まったと判断した信長は、速やかに久秀を鎮圧すべく、織田信忠を総大将に、佐久間信盛羽柴秀吉など、北陸に派遣していた将兵を久秀討伐の援軍として派遣しました。

信長の果断で素早い判断の真骨頂が見える場面ですね。

先の天王寺の戦いでもそうですが、信長の軍事的天才性は、目まぐるしく変わる情勢を的確に、反射的なスピードで判断できるところに宿っていると思います。

 

謙信の南下が止まったことで、信長の全面的な攻撃を受けることになった久秀は、絶体絶命の窮地に追い込まれたことになります。

10月5日、信長は人質であった久通の13歳と12歳の息子を、市中引き回しの上 六条河原で斬首し、信貴山城への本格的な攻撃を開始しました。

こうして久秀最後の戦い、信貴山城の戦いが始まります。

 

久秀の籠城軍8000に対して信長軍は4万の大軍でしたが、堅固な要害である信貴山城に拠る久秀を攻めあぐねます。

戦局が動くのは10月10日、前日の夜から、筒井順慶の猛攻が続く中、順慶の調略を受けていた久秀の一隊が寝返り、城内に火をかけます。

内部から切り崩された信貴山城は落城し、久秀は4層の天守に火をかけると、息子久通とともに自害して果てました。

享年68。

奇しくも、この日、10月10日は東大寺大仏殿の戦いで、大仏殿が業火に包まれた日と同日でした。

 

久秀は自害に際して信長がずっと欲しがっていた名物、平蜘蛛の茶釜を抱いて爆死したという話が巷間有名ですが、戦後、久秀の首は安土に運ばれているので、事実ではなさそうです。

後世の軍記物である川角太閤記に、平蜘蛛に火薬を詰めて、爆死した旨記載されており、これらの逸話に話が盛られて爆死伝説が定着していったのでしょう。

 

戦後、久秀らの首は安土に送られ、胴体は順慶により、達磨寺(奈良県王寺町)に葬られました。

 

松永久秀とは何者か

ここまで9回にわたって松永久秀の生涯を追ってきました。

出自に不明点が多く、下層身分から時の将軍の側近、国持大名にまで上り詰めたという点では、豊臣秀吉明智光秀に匹敵する稀代の風雲児であったといえるでしょう。

とくに主君三好長慶による取り立ては、家格秩序が絶対的に支配する当時の社会では特筆すべきものであったと言えます。

 

中世は絶対的な家格社会であり、出自と社会的役割は切り離せないものでした。

それは下克上を果たした他の大名たちでも無関係ではなく、例えば美濃の斎藤道三は、美濃国主の地位をつかむにあたり、伝統的な土着の国人衆たちを率いるにあたり、美濃の名族である斎藤氏の名跡を名乗って、その地位に就いています。

また、信長ですら、出自の低いものの重用したい家臣については、朝廷から丹羽長秀に惟住姓、明智光秀に惟任姓を賜って箔付けを行うなど、家格秩序に一定の配慮を行っていました。

秀吉も、関白になるにあたっては摂関家である近衛氏の猶子となり、豊臣姓を朝廷より下賜されるよう工作しています。

 

そんな中にあって、久秀は「松永氏」のまま、将軍の最側近の一人となり、桐紋の使用を許されるなど破格の待遇を受け、中世の家格秩序に風穴を開ける存在となりました。

まさに家格秩序を無視した、下克上の体現者であったと言えます。

 

しかし、江戸時代に入ると、再び厳格な家格秩序が支配する時代となり、久秀のような「成り上がり」は忌避すべき秩序の破壊者とみなされるようになります。

この価値観の変化が、江戸時代多くの軍記物に描かれた、極悪非道の久秀像に投影されていったとみることもできるでしょう。

 

実際の史料ベースで久秀を追うと、その悪漢像や破天荒ぶりが、いかに後世の創作によって形作られていたかがわかります。

それでも、中世の家格秩序を破壊して成り上がり、中世大和の寺社支配を打ち砕く端緒を開いたということで、一代の傑物という評価は変わらないでしょう。

 

とはいえ、創作によりふくらまされた松永久秀が、エキセントリックなピカレスクアンチヒーローとして、大きな魅力を持つことも事実です。

主家を滅亡させ、平然と大仏を焼き、茶釜を抱いて爆死するような、そんなあくの強い、ニヒルな久秀像を、ドラマなどではやはり期待してしまいます。

 

虚実とも、これほど底知れぬ魅力をもつ戦国武将は、久秀以外になかなか見当たらないのではないでしょうか。

 

<参考文献>


 

 

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