歴史好きの大和徒然草子

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教興寺の戦いと三好政権の黄昏。松永久秀(4)

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皆さんこんにちは。

 

前回は、久米田の戦いから、三好長慶が窮地に追い込まれるまでをご紹介しました。

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今回は、いよいよ、戦国における畿内最大の会戦となる、教興寺の戦いと、久秀の活躍をご紹介していこうと思います。

 

教興寺の戦い

 

1561(永禄4)年、三好政権の支柱であり、三好長慶実弟十河一存が急死し、細川晴元の処遇を巡って、長慶と近江の六角義賢の対立が深まると、紀伊に追われていた河内守護畠山高政は六角氏と結んで反三好の兵を挙げます。

南北から挟み撃ちとなる形となった三好方は、1562(永禄5)年、和泉国で起こった久米田の戦いで、畠山勢に大敗を喫し、これまた政権の支柱である長慶の実弟三好実休が討ち死したうえ、河内南部と和泉を失陥します。

ここに至って長慶は京の放棄を決断して、京都防衛にあたっていた嫡男義興松永久秀を山崎まで撤退させました。

空白地帯となった洛中には六角軍が進駐。

勢いに乗る畠山方には、先行して大和で一揆を起こして三好勢への反旗を翻していた筒井順政率いる大和国人衆や、沢、秋山、芳野といった宇陀の国人たちも加わり、河内の諸城を攻略しつつ、3月末には長慶の本拠地、飯盛山を攻撃すべく高野街道を北上します。

4月の初めに飯盛山城の包囲を完了した畠山勢は、周辺諸城の攻略を完了して飯盛山城への攻撃を行いますが、長慶は頑強に籠城してこれを撃退します。

 

一方、義興と久秀はこの窮地に、山崎を拠点として京の六角氏や、北上した畠山氏を牽制しつつ、摂津、丹波の三好方部将の集結を図ります。

そして4月中頃までに丹波からは久秀の弟、松永長頼改め内藤宗勝が、摂津からは伊丹親興池田長正らが軍勢を率いて参集し、飯盛山の長慶の救援に陣容を着々と整えます。

 

続々と集結する三好勢に対し、畠山・六角勢の攻勢には陰りが見えてきます。

入京した六角義賢の動きが、ここにきてぴたりと止まってしまったのです。

南北から挟撃して一気に三好の息の根を止めたい畠山高政は、何度も義賢に南進するよう督促しますが、義賢は全く動きませんでした。

このとき、態勢が整いきらない三好勢を、南北から挟撃すれば、三好勢は壊滅していた可能性もありますが、畠山・六角勢はその好機をみすみす逃してしまうのです。

 

5月に入ると、久米田の戦いで潰走していた、四国勢山崎に参集し、三好義興と久秀は、ついに飯盛山城の長慶を救援すべく、5万と号する大軍で、南下を開始しました。

この動きに高政は飯盛山城の囲みを解かざるを得なくなります。

もう一息というところで好機を逃した高政の歯ぎしりが聞こえてきそうですね。

畠山勢は、援軍への迎撃態勢をとるため高野街道を南下しました。

 

飯盛山城を守り切り、援軍と合流した長慶は、義興を総大将、久秀を副将として高政の追撃を命じ、5月17日、両軍は河内国教興寺付近(現大阪府八尾市)で対峙します。

畿内の旧勢力を撃退する最後の関門となる大事な戦いで、長慶は嫡男義興の補佐に、最も信頼厚い久秀をつけて送り出したといえます。

 

久米田の戦い以来、終始畠山勢が数的優位を持っていましたが、三好勢が諸国から兵をかき集めた結果、この時点で三好勢が数的に優位に立ていました。

数の上で優勢とはいえ、三好勢にとって、脅威は久米田の戦いなどでも猛威を振るった雑賀、根来の鉄砲隊でした。

この鉄砲を無力化するため、三好勢は雨が降るのを待ちます。

そして迎えた5月19日早暁。

前日夜半から降る雨が続く中、先方の三好政康の軍が畠山勢前衛に攻撃を開始。

ここに両軍合わせて10万余という、戦国畿内最大の合戦となる教興寺の戦いが始まりました。

 

戦いは、大軍ながらも各国衆を一門衆や忠実な子飼いの重臣たちが率いて、統率力の高かった三好勢が、常に先手を取る形で優位に進めます。

一方の畠山勢は、旧態依然とした各国衆が個別に動く寄せ集めのため、一体的な行動がとれず、常に後手に回り、徐々に苦境に立たされました。

 

 昼前ごろには両軍総力戦となりますが、久秀、義興が相次いで攻勢に参加すると畠山勢が押され、有力武将の湯川直光が討ち死するに及んで、畠山勢の主力の一つであった湯川衆が総崩れとなり、敗勢が全体に連鎖していきます。

湯川衆に続いて、雑賀衆、大和衆も多くの有力武将が討ち取られて敗走し、夕方には畠山勢の本体というべき河内衆、譜代衆も敗走して本陣が崩壊、高政は紀伊に敗走して、三好長慶の勝利のうちに教興寺の戦いはわずか1日で幕を閉じました。

 

教興寺での畠山勢敗戦を知った六角義賢は京を引き払い領国の近江に引き上げました。

三好勢は教興寺での戦勝の余勢をかって大和へ侵攻し、5月21日から25日にかけて、畠山方であった筒井(現大和郡山市)、十市(現橿原市付近)、片岡(現王寺町)、平群、生駒の諸部落や矢田寺(現大和郡山市)を焼き討ちにしました。

 

6月2日には、六角義賢が長慶に降伏してその軍門に下ることになり、結果、畿内で長慶に対立する勢力が一掃されることとなったのです。

 

大和支配の拡大

教興寺の戦いの結果、大和でも反三好の勢力は大きく減退すると、久秀の大和支配も大きく伸張することになります。

まず、同年8月、かねてより建築中であった奈良の多聞山城の棟上げを行い、居城を移します。

そして、1559(永禄2)年の大和侵攻以来、多武峰に籠るなどして頑強に久秀に抵抗していた十市遠勝をついに降伏させることに成功。

その娘、おなへを人質に取り、十市氏を軍門に下して、筒井氏をはじめとした反松永の国人たちにおおきな動揺を与えます。

 

着々と大和支配を進める久秀は、多聞山城の棟上げと同月の8月、大和と山城南部に政令を発布しました。

戦国時代の大和では、戦乱や災害を契機として、借金棒引きや質草の返還をともなう徳政令を官符衆徒であった筒井氏や古市氏が発布していましたが、久秀はこれに倣って、新たな大和の支配者として「代替わりの徳政」を行ったといえるでしょう。

この徳政の対象となった債権の、大きな債権者が奈良の大寺院であり、その筆頭格は大和の旧来の支配者である興福寺でしたが、久秀は寺社勢力の反発も無視する形で、強圧的にこれを進めました。

自らの力が、興福寺をはじめとした寺社勢力に優越することを、この徳政令で示したといえます。

また、11月には久秀が施主となり、春日社で七ヶ夜陪従神楽を興行します。

春日社の七ヶ夜陪従神楽を主催するのは、大和において権威の象徴であり、筒井氏や越智氏といった大和の有力国人たちが催してきた行事でした。

久秀の興行の直近では筒井順慶が1554(天文23)年に行っており、ここでも久秀が自らの権勢を大和の内外に示したといえます。

このような既成事実の積み上げの結果、興福寺も徐々に久秀を大和の支配者と認めるようになり、雑務検断権をもつ衆徒の棟梁として扱うようになります。

これは同じく衆徒の棟梁として大和随一の有力者として君臨した筒井氏には受け入れがたいことであり、久秀と順慶の争いを一層激しいものにしていったといえるでしょう。

 

翌1563(永禄6)年1月、久秀は大和南部で筒井氏、越智氏、根来衆などと結んで反三好の姿勢をとっていた、多武峰妙楽寺に侵攻します。

妙楽寺は現在の談山神社ですね。

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地勢的に守るに易く攻めるに難い多武峰に籠る多武峰衆徒たちの頑強な抵抗にあい、大和国人で久秀の側近となっていた柳生宗厳が武勲を立てたものの、敗北し、久秀はやむなく勅命講和を図ることになります。

 

この年は敗戦が続き、同年4月には、筒井順慶信貴山城を奪われてしまいます。

しかし、翌月には信貴山城を攻め、調略で筒井方の武将を寝返らせるなどして奪回に成功しました。

7月には対立を続ける越智氏を攻撃して高取城を攻略。

多武峰では手痛い敗戦となりましたが、この年、久秀はほぼ奈良盆地の制圧を果たしました。

 

久秀の大和統治の実態について、摂津時代との大きな違いは、ほぼ大和一国についての決裁権が委ねられたことにあります。

摂津を統治していた時代には、重要な決裁は長慶が行っていましたが、大和における各種争論などの調停、裁決については、久秀が独自に行っており、長慶への裁許を求めた形跡はありません。

名実ともに大和国主となった久秀は、三好政権内でも突出した実力を持つようになっていくのです。

 

相次ぐ不幸

 

順調に大和の支配を進めていった久秀ですが、1561年に十河一存、1562年に三好実休と立て続けに政権の支柱というべき一門衆を失った三好政権には、大きな陰りが見えていました。

しかし、1563(永禄6)年、長慶と久秀にとって、最大の不幸が襲います。

長慶の嫡男、義興が6月に病に倒れ、快復することなく8月、ついに病没してしまうのです。

享年22歳。あまりに早すぎる死でした。

義興は、父長慶に劣らず智勇に優れ、畠山・六角氏との戦いでは三好勢の主力を率いて、六角氏との京をめぐる攻防(将軍地蔵山城の戦い)や教興寺の戦いを前線で戦い抜いた勇将でした。

また、教養も高く、とかく父長慶とはそりが合わない将軍義輝とは、同年代でもあって非常に良好な関係を築いており、三好政権と足利将軍家を結ぶキーマンでもありました。

この期待して余りある嫡男に先立たれた長慶の落胆ぶりは激しく、すっかり往時の気概を無くしてしまったとみられます。

 

また、久秀も義興の死を嘆き悲しみ、その心情を吐露した文書が、久秀の側近であった柳生家に残されています。

敬愛する主君の優れた後継者として、大いに頼もしく思っていた若殿の死は、久秀にとっても大きなショックであったと思われます。

 

巷間、久秀が主家を乗っ取るため、優秀な後継者であった義興を暗殺したという説がまことしやかに広まっていますが、すべて後世の軍記物、二次史料を典拠とする風聞であり、おそらく事実ではありません。

また、それら軍記物や二次史料ですら、「久秀が暗殺したという風聞」について、「本当にそんなことがあるであろうか」と疑義をもって扱っているもの少なくありません。

一次史料に見える久秀は、あくまで長慶の忠実な臣下であり、主家の乗っ取りを画策するような具体的な動きはなく、義興を殺害する動機がまず存在しないと思われます。

 

しかし、こういった風聞が生まれた土壌がむしろ興味深く、異例の出世を遂げた久秀に対する世間の「見方」というものが垣間見えるとも言えます。

「あのような異常な出世は、まともなやり方でできるはずがない。」

「下賤の出身の久秀なら、主君の嫡男を殺すことくらいやりそう。」

というような、当時の身分秩序を打ち破った久秀への、反発めいた視線もあったのかもしれません。

そのような視線が後世、身分秩序の安定を最重要視した江戸時代においては、よりいっそう説得力のあるものとして受け止められ、久秀の悪逆談の一つとして広まっていったのでしょう。

 

嫡男を失った長慶は、8月に弟十河一存の一人息子であった義継を養子として次期当主に据えました。

長慶の兄弟の息子たちの中で、義継が後継者に据えられた理由としては、実母が九条家の養女であったことが、決め手であったといわれています。

当時九条家は、将軍家の正室を出していた同じ摂関家近衛家と対立しており、将軍家と対抗するのに、母方の実家の支援を得られるという思惑があったようですね。

 

また、同年12月に久秀は家督を嫡男久通に譲りました。

事実上後見となっていた義興が亡くなったことで、新たな当主となる義継の側近に久通がなれるように取り計らったとみられます。

しかし、隠居したわけではなく、以後も久秀は第一線で活躍を続けます。

  

義継の死で、将軍義輝と長慶の関係は大幅に悪化することになります。

二人の関係悪化を決定づける事件は、翌1564(永禄7)年に発生しました。

この年は、甲子(きのえね)の年にあたり、中国では古来より革命の起こる年とされていました。

そういう年なので、日本でも毎回甲子の年には改元を行う習わしになっていました。

ところが、前回の永禄に続き、将軍義輝は一向に改元の執奏を行いません。

このあたりの動向から、義輝の朝廷軽視の姿勢がうかがえるのですが、同年3月、長慶の意を汲んだとみられる久秀が、朝廷への改元を奏上します。

三好家の奏上による改元を認めれば、三好家に足利家と同列の権威を認めることにもつながり、将軍家と三好氏の決定的な対立を避けたいと忖度した朝廷は、この改元奏上を無視し、結局この年、改元は行われませんでした。

明治に一世一元と改まる以前で、甲子の年に改元が行われなかったのは、この永禄7年だけであり、いかに異常な事態であったかが伺えます。

しかし、この一件は低下した将軍家の権威をさらに貶める行為となり、義輝と三好政権の対立は一層深刻さを増していきます。

 

同年5月には、長慶がただ一人生き残った弟である、安宅冬康を殺害するという事件が起こります。

この実弟殺害については、当時から諸説あり、理由がよくわかっていません。

義継の後継について、長慶と意見が合わなかったとも、ここでも久秀の讒言があったともいわれます。

いずれにせよ、嫡男義興が急死した後の後継をめぐる混乱を収束すべく、当時すでに死期を悟っていた長慶の判断によるものと考えられます。

 

そして同年7月、長慶自身がこの世を去ります。

一代で畿内を席捲し、戦国最初の天下人とも呼ばれた英雄の晩年は、身内の不幸に相次いで見舞われた寂しく悲しいものとなりました。

享年43。

あまりに早すぎる死でした。

政権中枢の相次ぐ死に、長慶の死は、2年間秘されたといいます。

 

最高の主君であった長慶を失い、久秀はいよいよ戦国の荒波に、直接身を乗り出すことになっていくのです。

<参考文献>


 

次回はこちらです。

 

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