大和徒然草子

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大混迷の畿内、最後はふりだしに戻る!?松永久秀(7)

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皆さんこんにちは。

 

三好三人衆のクーデターで三好家中から一度は追放され、窮地に追い込まれた松永久秀でしたが、三好義継と合流して大仏殿の戦いで勝利し、織田信長の上洛によって形勢を挽回することに成功しました。

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その後の久秀の活躍を今回も見ていきたいと思います。

 

義昭の幕臣として

1568(永禄11)年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、三好三人衆は毛利、久秀、織田による三方からの攻勢に、形勢不利と判断して四国に撤退。

畿内は義昭を担ぐ信長、畠山秋高三好義継、そして久秀らの勢力権となりました。

10月には義昭が朝廷から将軍宣下を受け、15代将軍に就任。

義昭は山城国の兄義輝の御料所も回復して、幕府機能を復活させます。

とはいえ、信長との決戦を避けた三好三人衆の軍勢は健在で、四国から畿内を虎視眈々と狙い続けていました。

畿内を制圧して間もなく信長が岐阜へ帰国し、12月に久秀が岐阜を訪問すると、その間隙を狙って、三好三人衆がすぐさま動きます。

1569(永禄12)年1月5日、三好三人衆は義昭の仮御所であった本國寺を急襲しました。(本國寺の変

義昭にとっては、あわや兄、義輝と同じ運命かという危機でしたが、明智光秀ら義昭を守る将兵らの奮戦で、三好三人衆方は、それほど堅固ともいえない本國寺の寺内に侵入できません。

この戦い、きっと大河ドラマ麒麟がくる」のハイライトの一つになるでしょうねえ。

翌日には、義昭危うしの急報を受けた幕臣細川藤孝三好義継浅井長政ら織田勢が救援に駆け付けると、形勢不利とみた三好三人衆は摂津方面へ撤退。

これを追撃した織田勢と桂川河畔で合戦となり、織田勢の勝利に終わりました。

 

この戦いの直後、義昭は信長に命じて、二条城の建築を命じます。

ちなみにこの二条城は、現在の二条城とは全く異なる場所で、京都市上京区武衛陣町にありました。現在の京都御所の西隣になります。

この二条城は従来の将軍の御所とは違い、平城といって差し支えない城郭建築だったようです。

 

本拠を襲われた義昭は、毛利元就に四国の三好三人衆討伐を命じる御内書を発給します。

この義昭の思惑は結局実りませんでしたが、このとき毛利に宛てた御内書の副状(そえじょう)を発給したのは久秀でした。

この時期、義昭の副状を発給していたのは信長だけでなく、久秀も発給しており、義昭の幕府は信長だけでなく、久秀や三好義継、畠山秋高らに支えられた政権であったことが伺えます。

信長の軍事力は圧倒的であったとはいえ、この時点で久秀は信長に臣従していたわけではなく、ひとしく義昭に仕えるという立場であったといえるでしょう。

 

さて、筒井順慶を東山中、現在の天理市山間部に追いやった久秀は、一時揺らいだ大和支配の再構築を始めます。

筒井方についた国人たちの領地を取り上げて家臣や自派についた国人たちに与えたほか、閏5月には興福寺のために御所にあった浄土真宗の道場を破却するなどしています。

また、10月、11月と、本拠多聞山城の周囲に相次いで市をたてるなど、城下の整備にも力を注ぎました。

 

翌1570(永禄13)年1月、久秀は飯盛城から若江城東大阪市)に移った三好義継に正月の礼のため赴いています。

この段階でも義継は久秀が仕えるべき主筋であったことが伺えますね。

さらに信長の上洛要請に応じて、2月になると大和の国人衆を率いて嫡男の久通とともに上洛します。

久秀親子が奈良から不在になった間隙を衝くように、井戸良弘が挙兵し多聞山城を急襲する事件が発生します。

松永方は報復に人質としていた井戸氏の娘を、見せしめに串刺しにしました。

井戸氏は永禄8年にも久秀に反旗を翻したために人質を殺害されていていますが、この時代、人質となったものは常に過酷な運命と背中合わせです。

この井戸良弘による多聞山城攻撃は失敗に終わり、久秀はすかさず反撃して4月には井戸城は落城。これを破却しました。

 

同年4月14日には、義昭の居城たる二条城の普請が完成。

これを祝して能が催され、織田信長をはじめ、徳川家康や三好義継、そして久秀も参集しました。

そして京に集結したこれら諸大名は、20日、越前の朝倉義景討伐のため京を出発します。

23日には義昭の執奏により元号が「元亀」に改元されました。

 

元亀の争乱

信長を中心とした朝倉討伐軍には久秀も加わり、越前に侵攻しているさなか、驚くべき知らせが信長、久秀らにもたらされました。

信長の妹お市の婿である北近江の浅井長政が、突如朝倉義景六角承定三好三人衆らと結び、信長に反旗を翻したのです。

この時、信長軍は朝倉、浅井に挟み撃ちされる形となり、金ケ崎の退き口として知られる過酷な撤退戦を強いられることになります。

この撤退戦では、殿を務めた羽柴秀吉の活躍が有名ですが、久秀は信長の撤退路を確保すべく奔走。

京への最短ルートとなる朽木谷の領主、朽木元綱を必死に説得し、脱出路を確保して信長を無事京まで逃がすことに成功するのです。

信長にとっては桶狭間以来の窮地を救ったことで、久秀は大きな信頼を信長から受けることになりました。

 奈良に舞い戻った久秀と久通は、6月、三好三人衆側についた十市、福住、郡山の各郷を転戦し、これを焼き討ちにしました。

そして、7月には大和一国規模の知行割を興福寺の意向を無視して久秀は断行します。

これは従来、敵対した国人を滅ぼしたり、追放したりして接収した土地を個別に家臣に与えるというようなものではなく、一斉に大和国中の知行割をやり直し、すべての収取を久秀が差し押さえるというもので、これによって興福寺大和国内からの収入源の多くを喪失することになりました。

中世的な荘園の重層的支配が大和から取り払われ、興福寺による大和支配が決定的な打撃を受けた瞬間であり、大和の近世は、このとき久秀が開いたのです。

 

久秀が大和の支配を着々と進める一方で、1568年の信長上洛以来息をひそめていた、足利義昭織田信長、そして久秀らの新たな幕府へ反発する勢力は、元亀元年となる1570年、勢力を結集して反撃に転じました。

6月下旬から四国に引き上げていた三好三人衆は、続々と堺に渡海すると、軍勢を北上させ、野田、福島(大阪市福島区)に陣取りました。

この軍勢には、紀伊雑賀孫一のほか、義栄擁立に助力したため義昭によって追放されていた元関白、近衛前久なども加わるなど、大きな広がりを持つものでした。

これに呼応するように、東山中の福住に逼塞していた筒井順慶も7月末に十市城に進出します。

このような動きに対し、久秀は三好三人衆に備えるために高安(大阪府八尾市)に進出。奈良では久秀の重臣竹内秀勝が筒井勢と戦ってました。

 

9月、久秀は三好義継とともに、野田、福島に隣接する海老江を攻略し、信長、義昭と合流すると、三好三人衆方への攻撃を本格的に開始しました。

現在の大阪市福島区付近で戦闘が繰り返されましたが、ここに突如、石山本願寺の軍勢が、信長の陣に夜襲をかけてきました。

本願寺三好三人衆方として参戦したのです。

 

これと呼応するように、越前、北近江の朝倉、浅井両軍が、信長の背後を衝くため行動を開始しました。

当初、南近江を防衛する織田軍は、よく朝倉、浅井軍を抑えていましたが、本願寺の呼びかけで、比叡山延暦寺が朝倉、浅井軍に合流すると戦局は一気に織田方不利となり、織田方は信長の実弟信治や、重臣森可成が討ち死にするなど大敗します。

 

勢いに乗る朝倉、浅井軍は山科まで進出して京を伺います。

この動きに義昭と信長は京へ撤兵して朝倉、浅井軍を牽制。

久秀は信貴山城、義継は若江城に戻って三好三人衆と対峙しました。

周囲を敵に囲まれて一斉に攻め込まれた義昭の幕府は最も苦しい局面に立たされました。

 

この難局に義昭、信長は、対抗勢力との和睦交渉を進めることとし、久秀は三好三人衆と信長の和睦に向け尽力。

見事に交渉を取りまとめ、12月には和睦を成立させます。

信長は本願寺延暦寺とは、正親町天皇の勅命による和睦を成功させ、浅井氏や六角氏との和睦も取り結び、最大の危機を脱することに成功しました。

久秀としても三好三人衆との和睦で、久々に畿内での緊張関係を解かれたといえるでしょう。

翌1571(元亀2)年2月には1569(永禄12)年から途絶えていた興福寺薪能を復活させ、久秀、久通父子他、重臣たちや女房衆がこれを見物しました。

久秀は大和に平和がもたらされたことを強く内外にアピールしたのです。

 

畿内の混迷

 

しかし、大和を含めた畿内の平和は長続きしませんでした。

三好三人衆との和睦で、義昭の幕府はいったんは窮地を脱したものの、この和睦が思わぬ動きを引き起こします。

そもそも、久秀が河内守護の畠山秋高と結び、義昭を担いだのは、三好三人衆と対抗するためでした。

しかし和睦により、三好義継のもとに、再び久秀と三好三人衆が結集する動きが現れたのです。

この動きに不快感を示したのは、かつて三好家の本拠であった芥川山城周辺を領地としていた摂津守護の和田惟政と、河内守護の畠山秋高でした。

惟政は元亀の争乱で、摂津半国を三好三人衆に調略されており、和睦が成ったものの、失陥した領地の奪還を狙っていました。

また、秋高も居城の高屋城をめぐって三好三人衆と対峙しており、惟政と秋高はこの和睦には大いに不満があったようです。

そのためか、和睦後、ふたたび三好家として結集していく久秀を、幕政から締め出す動きを起こすのです。

 

くすぶっていた久秀と惟政、秋高の対立でしたが、久通が惟政、秋高と通じたて敵対した旗下の安見右近を自害させる事件が起こると一気に緊張が表面化します。

この久秀の動きに急速に不信感を強めたのが、ほかならぬ将軍義昭でした。

かつての三好長慶の時代の三好政権を、義継のもとで復活させるのではないか、という不安を抱いたのかもしれません。

また、信長が伊勢や近江の戦いに忙殺され、万一義昭が危機に陥った時、すぐに畿内に援軍を出してくれる状況にはなく、そうなってしまった時、畿内で誰を頼ればいいのか。

義昭が白羽の矢を立てた相手は、なんと大和で久秀と激しく対立していた筒井順慶でした。

1571(元亀2)年6月、義昭は摂関家である九条家の息女を養女として、筒井順慶に嫁がせました。

それまで、信長の目もあって帰参を許さなかった方針を打ち捨て、筒井順慶の抱き込みを図ったのです。

なぜ、順慶なのかといえば、やはりもともと義昭自身が一乗院門跡であったことが大きく関係しているのではないでしょうか。

なんといっても筒井氏は、元来一乗院の衆徒筆頭の家ですから。

順慶が将軍義昭の縁戚となり、幕府体制に加わったことは大和に激震をもたらします。

それまで松永方であった大和の有力国人である中坊氏や箸尾氏が順慶に寝返り、久秀の大和支配は大きく揺らぎました。

義昭の順慶への急接近は、久秀にとって大きな裏切りであり、久秀は義昭の幕府から離反する動きを取ります。

7月、久秀は三好義継、三好長逸とともに高槻の和田惟政を攻撃。

ここに義昭幕府からの久秀の離脱は決定的となりました。

こうして畿内の状況は、三好義継とそれを支える三好三人衆、久秀の勢力と、義昭、秋高、順慶の幕府方勢力が対峙する形となりました。

結局のところ、これは三好三人衆により久秀が三好家中から追放される以前の状況に舞い戻ってしまったような形じゃないでしょうか。

 

戦国における畿内の情勢はとにかく複雑怪奇ですね。

また複雑な割に、劇的なドラマもないあたりは、応仁の乱以来、畿内の争乱の特徴ともいえます。

そのためか、とかく織田信長中心の戦国史では、無視されることも多い当時の畿内情勢ですが、そのど真ん中で活躍したのが久秀であり、2020年大河ドラマの主人公、明智光秀でした。

大河ドラマ麒麟がくる」では、制作のかなり早い段階で、松永久秀の配役が吉田鋼太郎さんに決まるなど、このあたりの畿内のごたごたも、みっちりと描いてくれることに期待したいです。

<参考文献>


 

 

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