1550(天文19)年6月、大和一国を武略で平定した筒井順昭は28歳の若さで病死し、2歳の遺児・順慶が一門・家臣に支えられる形で筒井氏当主となります。
畿内では前年に筒井氏と友好関係にある三好長慶が、元の主である細川晴元と足利義晴、義輝父子を京都から追い出し、細川氏綱を細川京兆家当主と仰ぐ三好政権を樹立して、近江に逃れた晴元、足利将軍と対峙していました。
大和と関係の深い畠山氏が拠る河内では、実権を握る守護代・遊佐長教と守護・畠山政国が江口の戦い後に対立が起こり、政国は紀伊国宮原(現和歌山県有田市)へ逼塞。長教が事実上の河内国主となります。
筒井氏は当主が幼年ながら、周囲を友好勢力に囲まれていたこともあって大きな外冦の脅威はなく、1546(天文15)年に順昭が越智氏を降してからは平穏な時期に入っていました。
しかし、その平穏も1551(天文20)年から勃発する河内・畠山家中の内訌により打ち破られることになるのです。
安見宗房の台頭
1551(天文20)年5月、畠山尾州家の守護代で事実上河内の国主であった遊佐長教が、遊佐氏被官の萱振賢継によって暗殺されました。
長教亡き後、長教を暗殺した萱振賢継と同じく遊佐氏の有力被官だった安見宗房がそれぞれ遊佐氏一族を擁立し、河内で遊佐氏後継を巡る内紛が勃発します。
河内は、守護代の遊佐氏が守護畠山氏当主を紀州に追い、主君を追った遊佐氏がその被官たちによって当主を殺され実権を奪われていく、まさに下剋上の巷と化した感があります。
この河内の混乱に介入したのが、暗殺された長教の娘婿・三好長慶でした。
萱振、安見両氏は三好長慶の仲介でいったん和睦したものの、安見宗房と長慶は密かに結託。
翌1552(天文21)年2月に宗房は萱振賢継とその一党を悉く謀殺し、一躍河内の有力者に躍り出ました。
この安見宗房という男は、天文年間になって突然現れ、その出自は不明点も多く謎に包まれた人物です。
南和の越智氏の被官とも、現在の富田林市付近に勢力を持った彼方氏の被官ともいわれ、南河内と南大和国境付近に出自と勢力を持った人物・一族であったということしか明らかになっておらず、三好氏における松永久秀や岩成友通と同様、その才覚を見込まれて守護代・遊佐氏によって取り立てられた、戦国期下剋上を体現した人物でした。
遊佐長教暗殺後に発生した混乱の中、安見宗房は同年9月、紀伊に逼塞・隠居した畠山政国の嫡子・高政を河内守護に擁立。
守護代には遊佐氏一族の遊佐太藤をたてて、反発する他の国人たちを排除しながら河内の実権を握っていきました。
この宗房が、後に大和へ三好長慶・松永久秀の侵攻を呼び込むことになるのです。
筒井氏の内訌
父、順昭の死により家督を継いだ筒井順慶は1552(天文21)年2月に元服しました。
諱は将軍・足利義輝(当時の諱は義藤)から偏諱を拝領し藤勝(のち藤政)と名乗ります。
実際に順慶を名乗るのは1566(永禄9)年に得度してからですが、当ブログでは便宜上・順慶と表記していきます。
順慶が元服したのは、筒井氏の「山ノ城」である椿尾上城でした。
下記は1552年頃の筒井氏の主要城郭と、同盟関係にあった畠山氏、安見氏の主要城郭の位置関係を記入した図です。
本来の筒井氏本城は奈良盆地にある筒井城でしたが、順慶は生後間もない頃から東山中にある要害堅固な椿尾上城で養育されていたとみられます。
当時の筒井氏は、河内畠山氏とは伝統的友好関係にあり、摂津、山城の三好氏とも良好な関係を築いていたため外冦の恐れはほとんどない状況で、国内的にも古市氏、越智氏の散発的な反抗はあったものの、ほぼ国内の治安も良好な状況にありました。
しかし、当主である順慶はまだ幼児であり、その身の安全を図るため防御性の低い平野部の筒井城ではなく、後見人である福住宗職の本拠・福住城(現天理市)からも近く、容易に攻め込まれない椿尾上城が居城とされたのでしょう。
幼年期の順慶の行動記録はほとんど残されていませんが、1553(天文22)年に和泉へ出兵した三好長慶に筒井氏は援軍を出して、長慶から順慶へ援軍への謝意を伝える文書が遺されており、一門・家臣たちによって内政だけでなく外交も滞りなく行われていたようです。
外形上は盤石に見えた筒井氏。
しかし、その内部では、順慶を後見する福住宗職を中心とするグループと、順慶の叔父・筒井順政を中心とするグループに分かれ、政策方針を巡る内部対立が徐々に顕在化していきます。
福住宗職派は、寺門・衆中の意向を尊重して、畠山氏を中心とする河内衆や三好氏を中心とする京衆とは一定の距離を持ち、大和のことは大和で決めようとするグループでした。
一方の筒井順政派は、伝統的な畠山氏との関係を重視する一派で、1557(弘治3)年2月には筒井順政が河内守護・畠山高政と「婚姻」関係を結び、河内衆の支援をバックに大和での主導権争いを優位に進めようとします。
筒井氏内部の主導権争いを好機ととらえたのか、同年4月25日に越智家増が旧領回復と貝吹山城(現高取町)奪回のため挙兵すると、この時9歳の順慶は越智氏討伐の為出陣。これが初陣となった順慶は見事に越智軍を撃退して、5月18日には筒井城に凱旋しました。
9歳の少年に軍隊の指揮は不可能かと思いますので、一門・家臣団が一致団結して有事に当たっている様子がうかがえます。
しかし、同年12月に事態は急変します。
12月24日、順慶は居城である椿尾上城から龍田城(現斑鳩町)へ突然退去すると、12月26日には安見宗房の居城・飯盛山城へと入ったのです。
この順慶の行動については、福住派と順政派の内部抗争に巻き込まれ福住派に追われた、または順政派によって連れ出されたものと見られます。
幼年の順慶が自らの意思で順政に与していたとは考えづらく、幼年の当主・順慶を追放すれば福住宗職の権威も失われることから、福住派によって順慶が追われたのではなく、河内の安見宗房と筒井順政が図って福住派から順慶の身柄を奪い取ったと考えた方が、その後の経過からも蓋然性が高いと筆者は考えています。
いったんは大和を出た順慶ですが、翌1558(永禄元)年2月21日、安見宗房に伴われ奈良に帰還しました。
詳細は伝えられていませんが、事実上の河内国主に成り上がっていた安見宗房の武力を背景に筒井順政が福住派を圧迫し、順慶を大和へ帰還させたのでしょう。
そしてこの時に、順慶の後見は福住宗職から筒井順政に移ったと見られ、同時期に順政は宗房とともに興福寺内の争いを「官符衆徒」として仲介するなど、筒井氏の実権を握り、安見宗房と密接な関係を築きました。
同年11月19日には順政、宗房の主導の下、河内で順慶は前河内守護代・遊佐長教の娘と祝言をあげます。
長教の娘の年齢は定かではありませんが、順慶はこの時10歳の少年で、安見氏との同盟関係を強化するための政略結婚と考えてよいでしょう。
しかし、この順政主導による筒井氏と安見氏の強固な同盟関係構築が、筒井氏に思わぬ不幸を呼び込むことになるのです。
松永久秀の大和侵攻
順慶が遊佐長教の娘を妻に迎えたのと同じ月の11月30日、河内守護・畠山高政は安見宗房と対立して居城・高屋城(現大阪府羽曳野市)から出奔し、紀伊へ逃れました。
この畠山氏内部の対立に畠山氏と同盟関係にあった三好長慶は、紀伊へ逃れた畠山高政を支持します。
畠山高政の紀伊出奔に先立つ11月3日に、三好長慶は1553(天文22)年以来抗争していた将軍・足利義輝と和議を結ぶことに成功し、摂津を中心に山城、丹波、和泉、淡路、阿波、讃岐そして播磨の一部にまで勢力を伸ばして、最盛期を迎えつつありました。
将軍・義輝を5年ぶりに京都へ迎え、近江の六角氏とも和睦して北方の脅威がなくなった長慶の眼は、家中の争いで混乱する河内そして大和へと向かったのです。
翌1559(永禄2)年6月、三好長慶は重臣・松永久秀とともに河内へ2万の軍勢を引き連れて出陣しました。
※松永久秀の詳細については下記記事もご覧ください。
長慶は8月1日に高屋城を、4日には安見宗房の居城・飯盛山城を陥落させると、自らと通じた紀伊国人で幕府奉公衆である湯川直光を河内守護代に任じて、紀伊から畠山高政を高屋城へ復帰させます。
そして、敗れた宗房が大和へ逃亡すると、長慶は松永久秀に大和へ宗房追撃を命じました。
松永久秀による大和侵攻は、三好長慶の政敵である安見宗房とその同盟者の大和国人討伐を名目としたものだったのです。
松永久秀は、8月6日、瞬く間に筒井氏の本城・筒井城(現大和郡山市)を陥落させて本陣とし、居城を奪われた順慶と順政は、東山中の椿尾上城へ撤退せざるを得ませんでした。
久秀の鮮やかな筒井城攻略の陰には周到な国人たちへの調略があったようで、侵攻に先立つ一月前の7月、筒井氏に服従を余儀なくされていた箸尾為綱が故地である箸尾城(現広陵町)に復帰した他、柳生氏へ順慶から領地の加増が行われており、これは柳生氏が三好方へ寝返らないための筒井氏の引き留め工作と考えられます。
三好長慶は6月の河内侵攻当初から安見氏と同盟する筒井氏の大和侵攻を目論んでいたと見られ、筒井氏もこれを察知していたのでしょう。
そしていざ松永久秀による大和侵攻が始まると、元より筒井氏とは宿敵である古市氏が呼応した他、箸尾為綱、柳生家厳は三好方に付き、超昇寺氏は久秀を先導して筒井城の陥落に力を貸したのです。
筒井氏が順興、順昭の二代にわたって、武力により他の国人たちを屈服させ結果、かつて他国衆の侵攻に一致団結した国人一揆が結成される素地は完全に失われ、畿内最大の勢力となった三好氏の侵攻を前に、筒井氏に屈従を余儀なくされた国人たちは雪崩を打つように三好氏へ付きました。
その結果、松永久秀は易々と筒井城を陥落させ、短期間で大和の広範な地域を支配下に収めることができたのです。
久秀は筒井城陥落後の8月8日、かつて木沢長政が本拠とした信貴山城(現平群町)に入り、大和経略の拠点として大改修を開始しました。
翌1560(永禄3)年になると久秀は大和への攻勢を強め、7月には井戸氏居城の井戸城(現天理市)、11月には万歳氏居城の万歳城(現大和高田氏)、澤氏居城の澤城(現宇陀市)と檜牧城(現宇陀市)を相次いで陥落させ、下図のとおり大和の大半を勢力下に収めることに成功します。
なお、この時に澤城主として久秀から送り込まれたのが、摂津の国人だった高山友照で、後にキリシタン大名として名を馳せる嫡男・高山重友(右近)ら家族とともにキリスト教の洗礼を受けたのは、ここ澤の地でした。
久秀の侵攻に対する筒井勢は、椿尾上城から散発的なゲリラ戦を仕掛けるものの成果は乏しく、敗勢を押し戻すことはできませんでした。
久秀による大和侵攻が進む中、河内守護・畠山高政は露骨に河内の政治へ介入して、大和へも進出する三好長慶への不信感を募らせ、ついに長慶が守護代に任じた湯川直光を罷免。再び安見宗房を河内・飯盛山城に復帰させて長慶と対決姿勢を見せます。
この高政の動きに怒った長慶は7月河内へ出兵。10月末には飯盛山城、高屋城を陥落させて河内国全域を平定すると、高屋城には実弟の三好実休を入れ、畠山高政、安見宗房主従を堺へ退去させました。
そして11月に長慶は、本拠を摂津・芥川山城(現高槻市)から河内の飯盛山城へと移転させ、同月に松永久秀も、本拠を摂津・滝山城(現神戸市)から信貴山城へと移転します。
畿内の中央に位置する生駒山地に築かれた飯盛山城と信貴山城を、畿内支配の中心地とし、大和や河内南部、さらには紀伊まで進出する三好長慶の意欲を、この拠点変更からも読み取ることができるでしょう。
教興寺の戦い
翌1561(永禄4)年5月、三好長慶は将軍・足利義輝の勧めに従い、対立していた元の主君・細川晴元、昭元父子と和睦します。
晴元は1543(天文17)年に都を追われてから18年ぶりに入京を果たしました。
しかし長慶は、京都へ戻った晴元・昭元父子の身柄を拘束すると、二人を摂津普門寺城(現高槻市)へ幽閉してしまうのです。
この措置に、妹が晴元の妻である近江守護・六角義賢は怒り、三好氏と対立することになりました。
一方、和泉では、同年3月に長慶の弟で、その剛勇から鬼十河の異名で恐れられた岸和田城主・十河一存が急死しており、紀伊に逃れた河内守護・畠山高政と安見宗房はこれを好機と見て反攻の準備を進めます。
そして同年7月、畠山高政と六角義賢は呼応して挙兵すると、畠山軍は和泉へ、六角軍は京都を目指して進軍しました。
南北から挟撃される形になった三好長慶は、居城の飯盛山城から全軍の指揮を執り、京都には嫡男・義興に重臣・松永久秀をつけて六角氏に当たらせ、和泉へは高屋城主の弟・三好実休を派遣して畠山軍を迎撃させました。
大小の合戦が繰り返され、戦いは翌年まで続き三好家中にとって永禄4年は何かと忙しい時期となりましたが、この年、1559(永禄2)年の大和侵攻から久秀が奈良の拠点として築城中だった多聞山城(現奈良市)の重臣用屋敷などがほぼ完成し、築城中ながら使用を開始しています。
さて、三好氏と畠山・六角連合軍の抗争はまもなく膠着状態になりましたが、翌1562(永禄5)年3月に和泉国久米田(現岸和田市)で行われた久米田の戦いを機に大きく動きだしました。
この戦いで大将の三好実休は畠山軍・根来衆鉄砲隊の銃撃で壮絶な最期を遂げ、三好軍は大敗を喫します。
畠山高政は本拠・高屋城を奪回すると和泉と河内南部を勢力下に置き、さらに三好長慶の籠る飯盛山城を包囲しました。
この絶体絶命の危機に三好長慶は京都の放棄を決断。
早くも久米田の戦いの翌日、将軍・足利義輝を石清水八幡宮に移動させると、三好義興と松永久秀を摂津まで後退させました。
三好軍が摂津まで撤退した翌日、京都には六角義賢が進駐。しかし六角軍の進軍はここでぴたりと止まってしまいます。
この時、畠山軍と南北から挟撃して三好軍を葬り去るには絶好の機会でしたが、度々京都で松永久秀の反撃で手痛い敗北を味わっていた六角義賢は、追撃に慎重になっていたのか、ついに動くことはありませんでした。
再び戦況が膠着して5月に入ると、阿波から三好勢の援軍が到着して三好長慶の反撃が始まります。
阿波の援軍と摂津に退いた三好軍が合流すると、畠山高政は城の内と外から挟撃されることを恐れて、飯盛山城の包囲を解き後退しました。
長慶はこの機を逃さず、三好義興を総大将、松永久秀を副将に据えて南河内へ向け進軍を開始。畠山軍も体制を整え、5月20日、両軍は教興寺(現八尾市)周辺で会敵決戦となります。
久米田の戦いから、畠山勢の中には久秀に敗れて牢人となった大和国人も参陣しており、この教興寺の戦いにも十市遠勝、筒井順政、そして順政麾下には若き日の島左近(清興)の姿がありました。
戦いは三好軍の大勝に終わり、畠山高政は紀伊へ逃亡。安見宗房は大坂石山本願寺へ逃げ込み、筒井順政も大和へ帰還できず堺へ亡命しました。
教興寺の戦いの後、久秀は速やかに大和へ入り、1561(永禄4)年7月以降、久秀が京都周辺の戦いに忙殺される中で勢力を挽回していた筒井氏ら、反抗勢力の掃討を行います。
久秀は戦いの翌日から5月24日までに、筒井郷、十市郷、片岡郷といった筒井党の主要な郷村を焼き払い、翌25日には矢田寺や東明寺、松尾寺、そして平群谷、生駒谷の諸郷を焼き打ちにしました。
さらに5月28日には十市氏と争う宇陀の秋山氏を助けるため釜口(現天理市)へ出兵し、このとき筒井党の主要国人だった井戸氏も久秀に寝返って人質を差し出します。
7月には箸尾為綱が筒井氏与党が拠る伴堂城(現三宅町)、金剛寺城(現田原本町)を破却し、筒井順昭によって破壊された本拠・箸尾城の再建を行いました。
久秀の圧迫に耐えかねたのか、十市遠勝も同年中に久秀に屈服。
こうして教興寺の戦いを契機に、大和では国中の筒井党はほぼ一掃され久秀による大和の制圧が進むことになったのです。
柳生宗厳の活躍
柳生氏は1559(永禄2)年に始まる松永久秀の大和侵攻以来、久秀に味方した大和国人でした。
当時の当主は家厳で、その嫡男・宗厳は後に柳生新陰流を創始した剣豪・柳生石舟斎として知られます。
当時30代中頃の宗厳は当主である父・家厳に替わって前線で働き、筒井氏に属していた時代も武功を讃えられて順慶から感状を受ける活躍を見せていました。
1562(永禄5)年の久米田の戦いで三好方が大敗すると、大和国内で三好方が大きく動揺する中、宗厳は築城中の多聞山城に入って城を守り抜き、久秀から大きな信頼を得ます。
やがて、久秀の三好家中や他国との書状の取次を任せられるなど、久秀の近習として取り立てられ、宗厳は大和国人の中でも格別の信頼を得る存在となりました。
翌1563(永禄6)年、久秀が多武峰妙楽寺に侵攻するとこれに従軍。
戦いは多武峰川の勝利に終わりましたが、宗厳は敗勢の中、東口での合戦で数名の敵を討ち取って久秀から感状を受け取っています。
なおこの年、宗厳は奈良を訪れた剣豪・上泉信綱に師事して新陰流を学び始め、剣豪への道を歩み始めることになりました。
剣術修行をすすめながら久秀の近習としても働けたのは、国人領主の仕事を当主である父・家厳が現役で勤めてくれたからでしょう。
この後、松永氏が天正年間に滅亡するまで、多くの大和国人が戦況によって松永、筒井の何れに付くか変転しましたが、柳生氏は松永氏の滅亡の直前まで久秀に仕え続けました。
後に柳生氏は徳川家康に召し出されますが、最後まで松永氏から容易に筒井氏へ転向しなかった宗厳の律義さも、家康に高く評価されたのかもしれませんね。
1562年の教興寺の戦いに勝利した三好長慶は、河内、大和にまでその支配を広げ、三好氏の最大版図を築きました。
しかし、この三好氏の栄華もまもなく陰りを見せ、畿内は再び混迷していくことになっていくのです。
参考文献
[rakuten:book:19476979:detail]
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