大和徒然草子

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大和侵攻と異例の出世。松永久秀(3)

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皆さんこんにちは。

 

前回は、三好長慶と将軍足利義輝の抗争の中、一城の主となるまでの松永久秀についてご紹介しました。

 

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今回は、いよいよ、大和での久秀の活動についてご紹介したいと思います。

 

久秀の大和侵攻

 

1558(永禄元)年、三好長慶と将軍足利義輝の和睦が成立。

表向き幕閣となり、細川京兆家を傀儡化することに成功した長慶は畿内で圧倒的な勢威を得ることになりました。

近江の六角氏とは和睦、河内、和泉、紀伊に勢力を持つ畠山氏とは同盟関係にあり、ようやく畿内に平穏が訪れるかと思われました。

しかし、義輝との和睦から時を置かず、次の火の手は河内国から起こります。

河内では、遊佐長教が将軍、足利義輝に暗殺された後、替わって守護代になった安見宗房の力が増大し、やがて守護で三好長慶と同盟関係にあった畠山高政と対立するようになっていました。

同年11月、ついに両者の対立がピークに達し、守護の高政は居城の高屋城を追われ、紀伊に追放されるという事件が発生します。

 

これを受けて長慶は、1559(永禄2)年5月、同盟者であった高政を支援すべく、久秀に和泉国への出兵を命じました。

和泉に出兵した久秀を待ち受けていたのは、安見宗房の援軍として現れた、紀伊根来衆です。

雑賀衆と並んで、当時としては画期的な鉄砲の集中運用で知られる根来衆の前に、久秀は敗北して摂津に撤退を余儀なくされました。

以後もたびたび久秀は、合戦で紀伊の鉄砲集団に頭を悩まされることになります。

 

久秀の撤退を受けて、長慶も戦いに出馬し、6月、久秀と合流して2万の大軍で河内に進出。

8月には、高屋城、飯盛山城を陥落させて、宗房を大和国に追放、高政を河内復帰させることに成功しました。

この余勢をかって、長慶は久秀に宗房の追討と、その協力勢力の掃討を命じ、久秀は同年8月、大和への侵攻をついに開始します。

 

久秀は安見宗房と友好関係にあり、大和の有力国人であった筒井順慶の居城筒井城を攻略。順慶を東山中に追い落とします。

取って返して平群谷を焼いた後、現大和高田市の万歳城を攻め、十市氏を打ち破るなど、安見方の国人たちを次々と撃破しました。

これが、生涯にわたり大和の支配権を争う順慶との抗争の始まりとなりました。

このとき大和国人は、以前に赤沢朝経や木沢長政が侵攻してきたときのように、一揆を結んで抵抗するようなことはなく、福住氏や古市氏、越智氏といった有力国人は久秀に味方します。

これは、当時の大和国内で安見宗房の事実上の後見により、勢力を伸張した筒井氏への反発が強まっていたためと考えられます。

従来、久秀の大和侵攻は、久秀の個人的野心とみる向きが支配的でしたが、あくまで長慶の命により、安見宗房とその与党の討伐の一環として開始されたとみるべきでしょう。

北和地域をほぼ支配下に置いた久秀は同年10月、官符衆徒である中坊氏を従え、春日社に社参。

安見氏、筒井氏に代わる新たな大和の支配者として、勢威を示したのです。

 

翌1560(永禄3)年、長慶の支援で河内に復帰した畠山高政が、独断で安見宗房と和睦して、長慶と対決姿勢を見せます。

これに対し、長慶は高政と義絶。

畿内に残る最後の旧勢力であった畠山氏と新興勢力の三好氏の対立は、丹波、近江、そして大和の諸勢力を巻き込んで大規模化します。

 

河内で長慶が畠山勢の諸城を攻略する中、久秀は大和で敵対勢力の攻略を続けました。

久秀は8月には井戸城(奈良県天理市)を開城させ、10月に河内で畠山高政、安見宗房が長慶により居城を追われると、11月には宇陀郡の沢城、檜牧城を交渉で開城させます。

こうして長慶は、河内全域と大和は奈良盆地から宇陀郡にまで、勢力を拡張することに成功したのです。

 

そして、大和攻略に多大な貢献を果たした久秀は同年11月に、居城を滝山城から、大和河内国境の信貴山奈良県平群町)に移して大和支配の拠点としました。

信貴山城は、木沢長政が大和侵攻の際に築いて用いたのが史料上の初見となる城ですが、この城を大規模化したのは久秀でした。

同年、本丸に4階櫓を建設し、これは伊丹城に次いで、日本で2番目に古い天守閣の例とされています。

かの織田信長安土城天主の参考としたともいわれる、豪壮な建築であったようです。

この城を拠点に、一時大和を支配した木沢長政の例に倣い、新たな大和の支配者として威勢を誇る政治的アピールも含んでの拠点移動だったと考えられます。

 

久秀は長慶から大和の統治を一任され、信貴山城を拠点として、大和の領国化を進めていくのです。

 

異例の出世

翌1561(永禄4)年、久秀は従四位下に昇叙され、将軍義輝から桐紋と塗輿の使用を許可されました。

これは位階上も待遇も、主君長慶やその子義興と同等の扱いであり、戦国時代の主従関係においては極めて異例の扱いであったといえるでしょう。

いくら信頼厚い家臣といっても、信長や秀吉、家康らが寵臣を外部的に自分と同じ地位まで引き上げるなど、考えられないことです。

久秀が型破りというよりは、そのようなに取り立てた長慶が、かなりの型破りであったといえるでしょう。

また、将軍の御供衆にも任じられ、義興とともに義輝側近としても活動するなど、ほぼ主君の嫡男と同列の扱いを受けていたと考えられます。

 

三好家中にあっては、久秀の弟、長頼や岩成友通のように外様から一軍の将にまで取り立てられたものや、三好長逸のように一族から高位に取り立てられたものもいますが、長慶の被官でここまでの扱いを受けたものは久秀だけでした。

 

理由としては、長慶が、朝廷や幕府、京の権門、寺社との関係を、やはり重視しており、取次としての久秀の活躍を大きく評価し、久秀がより大きな成果をだすため、「環境整備」をした結果だったのだろうと思います。

いろいろな交渉事において、外見上、主君の嫡男と同格であるということは、久秀としても発言に説得力も出るため、非常に仕事がやりやすかったことでしょう。

長慶としては部下の能力を最大限引き出すため、今でいうところの大幅な権限移譲をおこなったと思うのですが、このあまりにも異例の大抜擢が、後世に卑賤の出から上り詰め、幕政を壟断したかのような悪評につながっていったとも考えられます。

しかし実際のところ、最終決裁権はあくまで長慶が握っており、久秀は長慶随一の重臣として、長慶のもとで存分に力を発揮しており、長慶を乗り越えようなどという動きは一切見せていません。

そしてこの状況は長慶が死去するまで変わりませんでした。

君臣としては、これ以上ないくらい、理想的な関係だったんじゃないでしょうか。

 

また、この年、久秀は奈良支配を確固たるものにするべく、本格的に奈良の町に進出します。

京から奈良への入り口である奈良坂を東に、東大寺を南東、興福寺を南に見下ろす眉間寺山に目を付けた久秀は、この地に新たな拠点、多聞山城を築き始めます。

前年にほぼ大和北部を支配下におさめ、反抗した国人の領地だけでなく、興福寺の領地まで蚕食していた久秀は、自らが興福寺に代わる新たな大和の支配者であることを、奈良の人々にわかりやすく見せつけたといえるでしょう。

かつて大和に乱入した赤沢朝経、木沢長政や、後の関白秀吉の弟、豊臣秀長ですら、興福寺への遠慮もあって奈良の町に居城を置くことはしませんでしたが、久秀はそれをやってしまったのです。

旧勢力との戦い

 1561(永禄4)年3月、三好政権の支柱の一人で「鬼十河」の異名で周囲から恐れられた長慶の実弟十河一存が、落馬が原因で急死します。

泉州ににらみを利かせていた一存の死は、三好政権にとって大きなダメージとなり、紀伊に逼塞していた畠山高政が、失地挽回の動きを見せ始めます。

 

同年5月、長らく対立関係にあった細川晴元と長慶でしたが、将軍義輝の仲介で和睦する運びとなり、晴元は8年ぶりに入京します。

しかし、度重なる違約で、すっかり晴元への信用を無くしていた長慶は、晴元と長男昭元を幽閉し、その監視下に置きます。

これに激怒したのが、それまで晴元を庇護してきた近江の六角義賢

長慶と義賢に一触即発の緊張関係が生まれました。

 

この状況をチャンスと見た畠山高政は、六角義賢と呼応して同年7月、反三好の兵を挙げました。

畠山高政が、安見宗房、根来衆ら1万の兵を率いて、三好方の岸和田城を包囲すると、それに呼応して義賢は永原重隆を大将とする2万の兵を将軍地蔵山城京都市左京区)に布陣させ、自身は神楽岡に布陣して京を狙う姿勢を見せます。

それに対し長慶は、嫡男、義興と久秀ら1万7千を六角氏への抑えとして布陣させ、岸和田城への救援には実弟三好実休の河内衆を主力とする7千の兵を向かわせます。

 

京では六角方と三好方の小競り合いとにらみ合いが続きましたが、11月、久秀は義興とともに行動を開始。大和衆1万をひきいて将軍地蔵山の永原重隆を撃破、戦死させ、神楽岡の義賢本陣に突撃します。

しかし、ここで義賢は弓隊で久秀を迎撃し、久秀の軍に大打撃を与えることに成功。

久秀は退却を余儀なくされ、再び戦線は膠着します。

 

一方の和泉戦線も膠着しており、やや畠山方優勢で進んでいる状況でした。

この緊張状態は長期化し、ついに年を越して1562(永禄5)年3月、情勢が大きく動き出します。

和泉国、久米田寺付近に布陣していた三好実休に畠山軍が突撃。久米田の戦いが始まります。

この戦いで総大将の三好実休は、手薄となった本陣を根来衆の鉄砲で急襲されて討死し、三好方は総崩れとなって大敗したのです。

この結果、三好方は岸和田城を開城、河内の高屋城も放棄せざるを得なくなり、高政は和泉と南河内の奪回に成功しました。

 

この大敗戦に長慶は、嫡男義興の進言を受け入れて京の放棄を決断。

将軍義輝を石清水八幡宮に移動させたうえで、義興、久秀を山崎城京都府大山崎町)にまで撤退させます。

空白地となった京に、六角義賢は進軍して、これを占拠しました。

 

ここに長慶は、北に六角義賢、南に畠山高政に挟撃される形となり、最大の危機を迎えることになったのです。

<参考文献>


 

次回はこちらです。

 

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