歴史好きの大和徒然草子

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大仏炎上と信長の上洛。松永久秀(6)

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皆さんこんにちは。

 

三好家を追放され、筒井順慶三好三人衆三好長逸三好宗渭岩成友通の攻勢についに行方不明となってしまった松永久秀

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主君三好長慶の死後、順風満帆に出世街道から一転、窮地に追い込まれた久秀ですが、この後、どのように挽回していくのでしょうか。

 

大仏炎上

1566(永禄9)年5月末、久秀は三好三人衆に大敗を喫して行方知れずとなります。

6月には、足利義昭と将軍後継を争う、足利義栄を擁する阿波三好家が三好三人衆に加勢。

阿波から2万余の軍勢が渡海し、摂津に点在していた松永方の諸城を次々と攻略します。

また、同月には、三好義継長逸が2年間秘匿していた長慶の死を公表し、盛大な葬儀を挙行します。

事実上の勝利宣言でした。

9月には、足利義昭朝倉義景を頼って北陸に逃亡し、入れ替わるように足利義栄が摂津へ渡海します。

 

次々と味方の諸城が陥落する中、奈良、多聞山城は筒井順慶の攻撃を受けながらも、久秀の嫡男松永久通が抵抗を続けていました。

9月、本拠地を筒井城を松永方から奪回した筒井順慶は成身院で得度し、名を藤政から陽舜坊順慶と改めます。

多聞山城攻城戦の中、戦地から目と鼻の先の場所で行ったセレモニーは、戦局の圧倒的優位を裏打ちするものといえるでしょう。

 

大将が行方知れずで意気が上がらない松永方は圧倒的に不利な状況が続きますが、翌1567(永禄10)年2月、事態が急変します。

こともあろうか、三好本宗家の当主である義継が、突如出奔してしまったのです。

 

義継は三好家当主とはいえ、実権は三好三人衆に握られていたうえ、足利義栄が摂津に上陸すると、三人衆をはじめとする重臣たちは14代将軍を目指す義栄を尊重し、露骨に義継を軽んじるようになります。

もともと権力基盤が弱かった義継のことを考えれば、この扱いはさもありなんというところですが、義継にはこれが耐えられなかったようです。

高屋城を脱出した義継が頼ったのは、なんと久秀でした。

久秀と義継は、何度か戦場で相まみえていますが、三好三人衆のクーデターによる行きがかり上のもので、個人的な遺恨はなかったものと思われます。

出奔した義継は山城南部や大和の国人たちに、三好三人衆の非道を非難し、久秀の三好家に対する忠義をたたえる書状を送り、久秀に加担するよう誘う工作を進めました。

 

行方知れずになってから早9か月がたとうとしていた久秀と、どのように連絡を取ったのか、知る由もありませんが、当主の出奔という事態に三好家中は大きく動揺します。

 

一方、三好本宗家の当主を迎えることで、軍事行動の大義を得た久秀は、4月に長い沈黙を破って姿を現し、堺から信貴山城に移ります。

次いで多聞山城に入り、ほぼ一年ぶりに戦線へ復帰したのです。

 

奈良に戻った久秀を追って、三好三人衆も奈良に出兵しました。

筒井順慶とも合流した三好三人衆は、5月には東大寺の念仏堂、二月堂、大仏殿の回廊に陣取ったのに対して、久秀は転害門、戒壇院に陣取ります。

ちょうど大仏殿より東側に三好三人衆、西側に久秀が陣取る形ですね。

まさに東大寺が戦闘の最前線となったのです。

 

両軍、にらみ合いを続ける中、戒壇院の受戒堂や千手堂などが焼きはらわれ、近辺の堂宇に大きな被害が出たほか、南大門付近で銃撃戦が行われるなど、戦場と化した東大寺の有様を、時の興福寺の僧英俊は、「大天魔の所為と見たり」と嘆きました。

両軍、決め手を欠く中、小競り合いが5か月も続きます。

この膠着状態の中、久秀を支援する動きが、遠く尾張の地で出てきます。

8月、織田信長が美濃から斎藤竜興を追放。次いで伊勢にも侵攻し、上洛への展望が大きく開けたのです。

8月21日には、久秀旗下の柳生宗厳に信長から書状が送られており、久秀とはかねてから連絡を取り合っており、久秀の義昭への忠節を褒めています。

また、28日には信長重臣佐久間信盛から宗厳に宛て、上洛が南近江の六角氏の動向が定まらないために遅れていることと、準備が整い次第、奈良に向かうことが伝えられています。

 

最大の援軍となる信長の上洛計画が具体的になってきたことは、久秀にも大きな勇気を与えたことでしょう。

そして迎えた10月10日、久秀は膠着する戦局を打開するため、東大寺三好三人衆の本陣に夜襲をしかけました。

この奇襲に三好三人衆の軍勢は大混乱に陥り、戦闘中の失火によって回廊、大仏殿をはじめとした多くの堂宇が焼失。

鎌倉時代に再建された大仏も頭部が溶け落ち、無残な姿となりました。

失火の原因は、正直なところは不明です。

しかしながら、当時の記録の多くは三好三人衆方の失火とする記載が多く、久秀による大仏殿放火というのも、後の梟雄像と結びつき、久秀の悪行の一つに加えられたとする見方が、近年多く見られます。

 

この大仏殿の戦いで、三好三人衆の軍勢は、文字通り潰走し、山城、河内へ去っていきました。

筒井順慶については、大乗院山(現奈良ホテル付近)に陣取り、東大寺からはやや離れた場所にいたことから、戦闘に巻き込まれることなく、三好三人衆が敗走すると軍を筒井城に引き上げたとみられます。

 

こうして東大寺を焼け野原とした東大寺大仏殿の戦いは、久秀方の圧倒的勝利で終わりました。

しかし、この戦いにおける東大寺の被害は甚大で、翌1568(永禄11)年から山田道安の手により補修が行われましたが、戦乱で充分な資金が集まらず、頭部は銅板で仮補修されたままの状態となり、大仏殿の再建もなりませんでした。

東大寺の復興は江戸時代中期、徳川綱吉が将軍であった1684(貞享元)年に公慶よって再建計画が立案され、1709(宝永6)年の落慶法要まで、実に140年あまりの年月を必要としたのです。

 

また、この1567年から大和での争乱が激化したため、1575(天正3)年まで、奈良を代表する大祭である春日若宮おん祭が中止されます。

戦乱で度々中断されることはあったものの、10年近く中止が続いたのはこの時だけで、奈良にとっていかに異常な時代であったか、うかがえますね。

 

信長の上洛

 

東大寺大仏殿の戦いで劇的な勝利を得た久秀ですが、この戦勝一つで劣勢を挽回するところまではいきませんでした。

1568(永禄11)年2月、かねてより将軍職を求めていた足利義栄に朝廷から将軍宣下が下ります。

義栄は入京できず、摂津在国のまま14代将軍に任官したことになります。

東大寺では一敗地にまみれたものの、三好三人衆の勢威もまだまだ衰えていないことがわかりますね。

5月になると再び三好三人衆は大和侵攻を再開し、西の京に布陣。

春日社に社参するなどの示威行動を起こし、久秀を威嚇します。

三好三人衆の軍勢は薬師寺に駐屯していましたが、筒井順慶は三人衆に薬師寺での陣取りを控えるよう申し入れています。

前年、戦場と化した東大寺が灰燼に帰したこともあり、薬師寺側が戦災を恐れ、三人衆と盟友関係にある順慶に依頼したものと思われます。

このとき薬師寺が戦乱に巻き込まれていたら、現存している東塔もどうなっていたかわかりませんね。

 

また、信貴山城がこの頃、三好三人衆により包囲されており、6月には本願寺顕如の仲介でついに開城しました。

大和における重要拠点である信貴山城の失陥は、久秀には大きなダメージとなりましたが、久秀はじっと反撃の機会を伺い続けます。

そんな中、7月、足利義昭が上洛に及び腰の朝倉義景のもとを去り、織田信長を頼って美濃に移ったことが、事態を大きく動かし始めました。

ちなみにこの時、義昭と信長の間で交渉役となったのが、2020年大河ドラマ麒麟がくる」の主人公、明智光秀です。

 

8月に入ると信長は六角氏との交渉決裂を受けて、近日中に出陣する旨、三好義継に伝え、上洛時の参陣を促します。

いよいよ信長の上洛が間近という状況になってきました。

9月、三好康長が筒井順慶とともに東大寺付近に展開する久秀の軍に攻撃を仕掛けましたが、この頃、ついに岐阜の信長が上洛の兵をあげ、9月13日には六角氏の居城、観音寺城を攻略します。

この動きに久秀との連動を警戒した三好三人衆は、木津に軍勢を進めて久秀を牽制します。

信長上洛と前後して、久秀は、遠く瀬戸内の能島を本拠にする海賊、村上武吉や安芸の毛利元就と連携し、四国の三好領を攻撃させることに成功していました。

つまり、東の美濃から信長、西の備後から、毛利、村上水軍、南の大和、紀伊からは久秀、畠山勢が三好領を包囲する形勢を、築くことに成功していたのです。

そのため、三好三人衆は、迫る信長に対抗するため、京に兵力を集中させることができませんでした。

 

信長の前に、兵力の整わない三好三人衆は形勢不利を悟って阿波へ撤兵。

無人の野を行く信長と義昭は9月26日には京の東寺に進出、そのまま京には入らず摂津に攻め入り、10月2日には芥川山城に入りました。

信長の上洛は従来のイメージでは、信長の猛勢によって三好三人衆がコテンパンに打ち破られて、畿内が瞬く間に制圧されたというイメージがあります。

しかし実際に、信長による短期間での畿内制圧には、久秀や義昭が構築した、対三好三人衆包囲網というべき周辺状況が、大きく作用したとみるべきでしょう。

 

9月30日には病床にあった14代将軍義栄が世を去るなど、三好三人衆側に好材料はなく、阿波への撤退はこの時点では、最善の選択であったかもしれません。

 

信長上洛で、大和の久秀も息を吹き返します。

三好三人衆が阿波に退いたことにより、支援者を失った筒井順慶は守勢に回らざるを得なくなり、三人衆方であった十市氏の支配する十市郷が焼かれ、竜王山城が占領されるなど、久秀方の攻勢が強まります。

10月に入ると久秀は芥川山城を訪れ、信長と義昭に謁見しました。

このとき、茶の湯の大名物である唐物茶入「九十九茄子」を信長に献上。

また、信長と義昭から大和一国の支配権を認められます。

同時期、筒井方の井戸氏や豊田氏が義昭に降伏しようとしましたが、信長は筒井氏も含めて彼らの降伏を認めませんでした。

三好三人衆の主力との対峙を大和で引き受け続け、毛利氏と連携して最後まで三人衆の兵力集中を許さなかった久秀の活躍を、信長としても高く評価していたからこそ、久秀と敵対する大和国人衆については、その降伏を許さず、久秀の切り取り次第としたのです。

10月8日、大和に残っていた久通が、順慶のこもる筒井城を攻撃してこれを陥落させ、順慶は東山中へ逃走を余儀なくされました。

あと一歩まで久秀を追い詰めながら、順慶は再び居城を奪われ、東山中の福住中定城(天理市)への逼塞を余儀なくされます。

さらに10月10日には、信長が派遣した2万の援軍が大和に到着し、井戸、柳本、十市、布施、万歳といった奈良盆地各地の筒井方諸城が次々に陥落。

信貴山城も奪回して、久秀は再び大和全域にその支配権を及ぼすことに成功しました。

 

10月18日、義昭はついに15代将軍となり、久秀は大和を領する大名として、義昭の幕臣となりました。

 

信長、義昭の上洛における久秀の貢献は、従来あまり知られていなかったんじゃないでしょうか。

しかし、この活躍があったればこそ、久秀は信長に重用され、その才を愛されるようになったと、納得できますね。

 

<参考文献>


 

 

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