大和徒然草子

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大和の覇権を決めた、辰市城の戦い。松永久秀(8)

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皆さんこんにちは。

 

三好三人衆との和睦で、再びかつての三好家として結集していく動きの中、久秀は足利義昭の幕府とは決別していくことになります。

 

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この久秀の選択は、はたして彼にとって吉と出たのでしょうか。

 

 

辰市城の戦い

1571(元亀2)年、筒井順慶が将軍足利義昭の養女を娶ったことで、それまで久秀に付き従っていた国人たちは次々と順慶へ寝返っていきました。

この勢いを逃すまいと、8月、順慶は久秀の居城多聞山城を攻略すべく、配下の井戸良弘に命じて多聞山城と筒井城の中間にあたる辰市に城砦を築きます。

辰市城は、信貴山城、筒井城、多聞山城とつながる久秀の城砦ネットワークに楔を打ち込むものでした。

久秀は即座にこの小さな城砦を陥落させようと、居城信貴山城を出立します。

辰市城の北方にあたる大安寺で、若江城から援軍としてやってきた三好義継、多聞山城から出陣した松永久通の軍と合流すると、およそ1万の大軍で8月4日、辰市城への攻撃を開始します。

 

これが戦国時代、大和国最大の合戦となった辰市城の戦いです。

辰市城は急ごしらえの小さな城砦で、籠る兵士もそれほど多くはなかったと考えられます。

松永方は一気に辰市城を陥落させようと、鉄砲を撃ちかけ激しく攻め立てますが、筒井方の城兵も鉄砲で応戦し、防戦に努め、後詰の援軍を待ちます。

当初、数に勝る松永方が優勢に戦いを進めましたが、椿尾上城や郡山城から筒井方の援軍が参戦すると大乱戦となりました。

そして、さらに福住中定城から筒井方の福住順弘らが来援すると、松永方は崩れ、久秀は多聞山城へ退却を余儀なくされます。

この合戦で久秀は多くの重臣が失い、久秀が頼りとした大和国人、柳生宗厳の長子、厳勝ら多数の負傷者をだしました。

久秀のこれまでの人生で、最大の敗戦となったこの戦いの結果、筒井城を再び順慶に奪回され、久秀の大和支配は大きく後退することになります。

 

この一戦は、久秀と順慶の長年にわたる抗争の中で、戦局の分水嶺となる一戦になりました。

この戦いの後も久秀は、奈良の町で銭の徴収を行ったり、興福寺からはなお大和国内における武家の棟梁格としての扱いを受け続けたものの、以後、順慶に対して劣勢を強いられることとなります。

 

10月、久秀は大和から転進して、山城南部の攻略、11月には三好義継とともに畠山秋高の居城である高屋城を攻略するなど、義昭幕府からの離脱の姿勢を鮮明にします。

 

信長との対立

松永久秀、三好義継が相次いで義昭の幕府から離脱する中、義昭の方も負けじと三好方への調略を仕掛けます。

義昭は畿内で、筒井順慶以外に大きな味方を失っていましたが、三好方と行動を共にしていた細川晴元の子、信良を味方に引き入れ、偏諱をあたえて「昭元」とし、細川京兆家当主の官位である右京太夫に任じます。

また、翌1572(元亀3)年1月には、久秀が三好家中に復帰することでその立場を失っていた三好三人衆の一人、岩成友通を寝返らせることに成功。

信長に命じて、山城国内に知行を与えています。

 

三好義継は4月には義昭方であった伊丹忠親らを調略して摂津を平定すると、河内の交野城を久秀とともに包囲します。

これを受けて、ついに信長が畿内に援軍を差し向け、久秀を含めた三好家と信長の対立はついに表面化することになりました。

 

従来巷間に伝わってる話では、このとき、久秀は武田信玄の上洛に呼応して信長に「謀反」したとされてきました。

しかしながら、当時久秀の主君はあくまで、義昭や三好義継であり、信長と君臣関係はなく、この時の信長との対立は謀反には当たらないといえるでしょう。

 

さて、信長がようやく畿内の混乱に介入してきたとはいえ、義昭の幕府は三好、本願寺、浅井、朝倉の圧迫を受け続け苦しい状況に変わりはありませんでした。

このような状況を打開しようと、義昭は同年8月、武田信玄本願寺と信長の和睦を斡旋するよう命じます。

しかし、本願寺と縁戚関係にある武田信玄の和睦仲介は信長には受け入れがたいものでした。

そして12月、信玄が三方ヶ原で織田、徳川連合軍を撃破することで、織田と武田の関係は決定的に破綻してしまうのです。

翌1573(元亀4)年2月、久秀は京近辺の義昭派の領主たちを次々に調略したほか、西岡でも一揆を扇動し、京周辺の街道を封鎖して義昭を追い詰めます。

義昭は前年、独断で筒井や武田などと誼を通じたことなどを信長から激しく非難され、信長との関係も悪化していたこともあり、一転してついに義継、久秀との和睦に踏み切りました。

そればかりか、はっきりと反信長の旗幟を鮮明にするのです。

従来ひろく義昭が信長包囲網を主導して来たと伝えられてきましたが、周囲を三好勢をはじめとした勢力に囲まれた状況で、義昭が進んで味方の信長を切り捨てるような真似はできなかったと思われます。

どちらかといえば、義継、久秀らの圧力により、信長を切り捨てざるを得ない状況に追い込まれたとも考えられます。

 

四方を敵に囲まれた信長は義昭との和睦を図りますが、義昭はこれを拒絶します。

やむをえず信長は3月末に岐阜を出立して京に軍を進めました。

信長は東から武田の圧迫を受けている中、早急に京の義昭を抑え込もうとしたのです。

義昭傘下の勝竜寺城主、細川藤孝池田城主の荒木村重を寝返らせることに成功した信長は、4月7日には上京を焼き討ちして義昭を恫喝したうえで、勅命による義昭との和睦に成功します。

さらに4月12日、武田信玄が病没して、武田軍の西進が止まり、甲斐に撤退を開始。これは信長にとって大きな僥倖となりました。

6月になると三好家中に亀裂が生じ、阿波三好家当主の三好長治が信長との和睦を結びます。

東の武田、西の三好の圧迫が消えた信長は、7月に再び挙兵した足利義昭を打ち破ると、ついに京から追放しました。

義昭追放後の7月28日には、信長は朝廷の要望がありながら義昭が懈怠していた改元を実施し、元号が「天正」に改まります。

 

8月には信長はさらに軍を西に進め、三好家に帰参した岩成友通の拠る淀城を攻撃。

淀城の戦いは三好と織田の一大決戦となりましたが、織田方の勝利に終わり、友通はついに討ち死にします。

さらに8月末には朝倉を、9月には浅井を相次いで滅亡させ、信長は包囲網を完全に瓦解させました。

信長は11月、三好義継の拠る若江城を攻撃。

内通者が相次いで若江城は落城し、義継は割腹して果てて、ここに三好本宗家は滅亡しました。

大和で筒井順慶と対峙していた久秀でしたが、12月には多聞山城を包囲され、主家の滅亡に戦意も喪失したか、信長に多聞山城の引き渡しを条件に降伏を申し出、赦免されます。

 

辰市城での大敗後も山城南部の調略など盛んに活動した久秀でしたが、信長と義昭、三好家の抗争の中では、ほとんど動きを見せていません。

この辺りの事情は正直不明なのですが、義昭や義継が久秀にとっては不倶戴天というべき岩成友通を用いたことへの不満や、配下の大和国人たちが相次いで離反したため、大きな動きが取れなかったとみる向きもあります。

ともあれ、信長の軍と大規模衝突しなかったこともあり、浅井、朝倉、そして主家の三好が滅ぼされる中、久秀は信長への降伏、帰順を許されました。

 

辰市城での敗戦以降、信長と結んだ筒井順慶に対して、久秀の大和支配は大きな苦境に立たされることになりました。

 

信長に帰順したのちの久秀は、佐久間信盛の与力に組み入れられ、主体的な動きや活躍はぱたりとなくなります。

また、信長による大和国の領国化がすすめられ、1575(天正3)年に原田直政が大和守護に任じられたことで、久秀は名実ともに大和国武家の棟梁という立場も失われました。

 

元亀の末年から天正の初頭は、久秀の人生が大きく暗転した時期となりました。

 

<参考文献>


 

次回はこちら。

 

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