大和徒然草子

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将軍暗殺と三好家分裂。松永久秀(5)

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皆さんこんにちは。

 

前回は教興寺の戦いを中心にご紹介しました。

 

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今回は、長慶死後の活躍を中心にご紹介します。

 

 

将軍暗殺

 

1564(永禄7)年7月、一代の英雄三好長慶がこの世を去りました。

長慶が没すると、養子の義継が新たな当主となり、三好長逸ら一族の重鎮や、松永久通岩成友通重臣たちが支える体制になります。

具体的にどんな体制下というと、様々な決裁文書を義継が発給する際、重臣たちが連署する形をとり、義継の権威を後見するというものでした。

このような文書の形式は長慶時代には当然見られず、義継の権威がやはり低かったと見ざるを得ません。

義継は前年に、長慶の嫡男義興の死を受けて、急遽跡継ぎとして擁立されたばかりということもあって、三好家当主としての権威の確立がまだまだできていなかったのでしょう。

このような状況を好機と見たのが、時の将軍、足利義輝です。

長慶とも激しく権力闘争を繰り広げた義輝は、すかさず将軍権力の拡大を図る動きを見せました。

こうして、永禄7年の改元問題以降、悪化していた将軍家と三好家の関係は、修復不能な状況にまで進んでいきます。

 

ついに1565(永禄8)年5月、三好義継は、三好長逸、松永久通らとともに、将軍義輝の館に攻め入り、義輝やその近臣、生母から側室などを殺害しました。

永禄の変です。

この将軍殺しは、久秀を首謀とする説も巷間広まっていますね。

しかし、当時久秀は奈良にあって事件が起こった時に現場にはいませんでした。

また、すでに家督を久通に譲っており、義継の近臣として、その決定に影響力があったのは久通であり、久秀が裏で糸を引いていたというのは考えづらい状況でもありました。

また、この事件では京都にいた義輝の実弟周暠が久通によって殺害されているのに対し、久秀は奈良興福寺一乗院門跡となっていた、これまた義輝実弟覚慶(のちの足利義昭)を助命し保護するなど、久通との足並みが必ずしもそろっておらず、久秀の将軍殺しは、やはり構成軍記物の創作とみるべきでしょう。

 

義継による義輝暗殺の理由については、元々殺害するつもりまではなかったのではないかという説もありますが、義継による幕府転覆、足利氏排除の動きであったとも考えられます。

若い義継、久通らの行き過ぎた行動だったとも思われ、久秀の覚慶助命は、周囲からの反発を予見した、老獪な久秀による深謀遠慮だったのかもしれません。

 

嘉吉の乱以来となる現役の将軍暗殺。この余波はさぞかし大きかったかというと、意外にも京都では冷静に受け止められ、三好家は公家たちから全く反発を受けることがありませんでした。

そればかりか、幕府奉公衆たちからの反発さえなかったのです。

義輝は改元の執奏を行わないなど、度重なる朝廷軽視の姿勢をとったため、朝廷からはすっかり白眼視されており、長慶との和睦を何度も破って幕政を混乱させ続けたことで、幕臣たちの心も義輝から離れていたのです。

全く世間の支持を失っていた将軍であったと言ってよいでしょう。

 

同年7月には正親町天皇が義継と久秀に対して、禁裏の修理を命じ、これを三好家も受けることで、新たな天下の支配者たる姿勢を見せます。

また、10月には義輝から朝廷に預けられていた将軍家の家宝である「御小袖の唐櫃」を義継に引き渡しました。

この御小袖は、北朝天皇を守護する将軍の象徴として神聖視されたものであり、これを三好家に引き渡すということは、朝廷が新たな天下人としての権威を三好家に認めた証左ともいえるでしょう。

 

三好家の分裂

将軍義輝暗殺により、着々と中央での権力構築を進めていた三好家でしたが、この将軍暗殺という「悪名」が新たな戦乱の火種となります。

教興寺の戦いに敗北した畠山家を中心として、将軍家再興をスローガンに越後の上杉謙信尾張織田信長、越前の朝倉義景、若狭の武田義統らに三好家打倒の呼びかけがなされるのです。

 

とはいえ、当時の上杉謙信は関東の北条氏康、甲斐の武田信玄と対峙しているうえ、本願寺とも敵対関係にあって、すぐさま上洛の軍を出せる状況にはありませんでした。

また、美濃の斎藤氏は三好家と同盟関係にあった関係で、信長も上洛の兵を出すことができません。

近江から常に三好家を脅かした六角氏も、この当時はお家騒動で外征することはできず、朝倉、武田も三好領の丹波に攻め込むほどの実力はありません。

この時期、軍事的に三好家を脅かす勢力は畿内近辺にはないという状況でした。

 

しかし、1565(永禄8)年7月に大きく状況を動かす事態が発生しました。

久秀の監視下に置かれていた足利義昭が、朝倉義景の手引きで奈良を脱出し、近江に逃れるという事件が起こるのです。

さらに8月には、丹波を治めていた久秀の実弟、内藤宗勝が、反三好勢の赤井直正と戦って敗死し、丹波が反三好勢の手に落ちます。

これは三好家にとって初めての領国失陥となりました。

10月には波多野氏、赤井氏を中心とする丹波衆が京に攻め入る姿勢を見せ、これに呼応するように大和でも宇陀の秋山氏などが多武峰と結んで反三好方に寝返り、松永氏が治める丹波と大和が騒然となったのでした。

 

とくに、足利義昭を取り逃がしたことは三好家にとっては痛恨事となります。

義昭は反三好方に幕府再興の大義名分を与えることとなっただけでなく、本人も甲斐の武田や上杉氏、肥後の相良氏や薩摩の島津氏に支援を呼びかけるなど、反三好包囲網を主導していきます。

後の信長包囲網でも義昭は多くの戦国大名に支援を呼びかけていますが、この時代から同じようなことをしてるんですよね。

 

久秀が助命した義昭が、反三好勢の旗頭となってしまったわけで、主家を窮地に追い込んでしまったということもあってか、久秀は三好家中での立場を失っていきます。

とくに、久秀に代わって三好宗家の側近となっていた岩成友通が、三好家中における久秀の発言力低下にともない、久秀の組下であった大和国人たちにも、直接軍事的な督促を行うなど、露骨な久秀外しの動きを見せます。

 

そしてついに11月には、三好長逸三好宗渭岩成友通の三将が軍勢を率いて主君義継の居城飯盛山城に押し入り、久秀の追放を強引に求めるクーデターを起こすのです。

このクーデターで、義継は近臣を殺害された上に、高屋城へ移され、以後三好政権は長逸、宗渭、友通のいわゆる三好三人衆が主導する体制が確立されます。

 

こうして久秀は三好家中から追放され、三好家中は三人衆方と久秀方への分裂状態となり一触即発の状態となりました。

 

そして戦いの火は、まず大和からあがります。

12月中頃、東山中に逼塞していた筒井順慶井戸城奈良県天理市)に入ったとの報を受け、久秀は傘下の古市播磨守にこれを討つよう命じます。

しかし、これを察した井戸良弘が先手を打って古市郷(現奈良市)を焼き払います。

これを受け、久秀は井戸氏からとっていた人質の女子供を、串刺しにして処刑しました。

戦国期の処刑方法って、なんとも残酷ですね。

12月末には三好三人衆が大和に派兵しますが、久秀はこれを撃退しました。

こうして三好家中は泥沼の内戦状態に突入したのです。

 

久秀失踪

 

三好家中から追放された久秀に、それまで従っていた大和国人達は次々離反していきました。

これで息を吹き返したのが順慶です。

順慶は三好三人衆と結んで、本拠であった筒井城の奪回に動きます。

対して久秀は、足利義昭を擁立する、三好家の仇敵、畠山氏と結びます。

この時、畠山家の当主は高政の弟、秋高となっていました。 

 

筒井も畠山もそもそも三好家と対立していたわけですが、三好家中の分裂を期に、それぞれがかつての敵将と結んだわけです。

とくに足利義昭を擁する畠山氏と久秀が同盟したという事実は注目に値しますね。

久秀は義昭にとって永禄の変での命の恩人でもあり、問題なく同盟が成立したようです。

また、義輝暗殺を久秀が主導していないことの証左のようにも思えます。

 

さて、摂津、山城における久秀方と三人衆方の戦いは一進一退でしたが、1566(永禄9)年2月、久秀と畠山秋高が、堺近郊で行われた上野芝の戦いで三好義継、順慶に敗れた頃から、三人衆優位に進んでいきます。

摂津、丹波の久秀方の諸城が次々に攻略される中、4月には再び三好三人衆が大和に進軍し、この時は筒井順慶も呼応して、美濃庄城(大和郡山市)などを攻略されます。

 

久秀は戦局を打開しようと多聞山城を発って河内に進軍し、畠山勢や摂津に残存していた傘下の武将たちと合流し、再び堺で義継や三好三人衆と戦いますが、これに大敗を喫します。

この戦いののち、久秀は忽然と姿を消して行方不明となりました。

文字通りの失踪で、再び姿を現すときまでどこで何をしていたか全くの謎です。

居城の多聞山城は嫡男久通が何とか守っていましたが、6月ついに筒井城が順慶によって奪回されます。

また、7月から8月にかけて摂津に残った久秀方の諸城はすべて三好三人衆方に降伏開城し、ついに畠山氏も音信不通の久秀を見限り、三好三人衆と和睦してしまいます。

 

このような状況の中、足利義昭は粘り強く伊賀や大和、山城の国人達に支援の要請を行い続けるのですが、このとき自身の援軍として、「尾張織田信長が出陣する予定」と伝えています。

実際の信長上洛は2年後の1568(永禄11)年ですが、すでに永禄9年時点で、信長の上洛計画があったというのは驚きです。

しかし、この計画も三好三人衆筒井順慶の連合軍によって久秀が失踪するにいたって完全に頓挫しました。

 

失意の足利義昭は9月に敦賀に逃れ、越前の朝倉義景の庇護を受けることになりました。

 

この永禄8~9年の久秀と足利義昭の動向を知ると、信長上洛時の久秀と義昭、信長がすんなりと結びつくことができたことも、不自然なく理解できると思われます。

頓挫したものの、久秀と義昭、信長の関係性の萌芽は、三好家中分裂の戦いの中にあったといえるでしょう。

<参考文献>


 

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