歴史好きの大和徒然草子

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下層身分から城持ち大名まで駆け上る。松永久秀(2)

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皆さんこんにちは。

 

前回は、松永久秀の出生地候補や、三好長慶の臣下として名を現しはじめたころまでを紹介しました。

 

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今回は長慶の重臣として、京都をめぐる争乱に身を置く久秀の姿を中心にご紹介したいと思います。

 

将軍義輝との抗争

1549(天文18)年、京都から主君であった管領細川晴元を前将軍、足利義晴とその子で将軍の義輝父子ともども追放した三好長慶

新たな京の支配者となった三好家は、寺社や公家から各種訴訟や諸事の相談事を受け付ける立場となりました。

そのときの折衝役として、三好一族の重鎮である三好長逸と並んで抜擢されたのが久秀でした。

 

久秀自身、異例の抜擢とも言えますが、実は同時期に久秀の実弟松永長頼も長慶により抜擢されています。

長頼は1549年の長慶上洛のときには、一軍を預かって京の防衛を担うなど、その出世は兄の久秀より早く、久秀の出世は弟長頼の活躍によって引き上げられたものと見る向きがあるほどです。

長頼は長慶配下として、このあと主に丹波方面での三好家勢力拡大に大きく貢献していくことになります。

兄弟そろって優秀だったんですね。

 

1549年7月に長慶は上洛を果たしますが、晴元に替わって新たに主君に担いだ細川氏綱を京に残し、自身は摂津を平定すべく、摂津へ引き上げます。

そして長慶は1550(天文19)年3月には、摂津を平定し、山城、摂津から細川晴元の勢力を一掃に成功して、名実ともに畿内の覇権を握りました。

 

近江に逼塞を余儀なくされた、義晴らは京の奪回を目指し、京都東山、慈照寺銀閣寺)の裏山に中尾城を築いて京をうかがうものの、同年5月に義晴は死去。

その子義輝が中尾城に入って、長慶へ徹底抗戦する姿勢を示します。

 

ちなみにこの中尾城、本格的に防備に鉄砲対策を施した城砦でした。

同年7月にこの城で行われた戦闘では三好勢に鉄砲による死者が出たと「言継卿記」にあり、これは史料で確認できる最初期の鉄砲による戦死者で、すでに鉄砲の実戦使用が本格化していたことを示しています。

 

このような情勢の中、久秀は弟長頼をはじめとした他の三好家部将たちとともに京都防衛や、周辺地域の制圧の任にあたるなど、軍事面での活動が盛んになっていきました。

こつこつと能吏として実績を上げてきた久秀が、いよいよ軍事面でもその才を発揮することになってきたのです。

 

将軍、足利義輝との攻防は長慶がやや優勢という形で進み、義輝は中尾城を放棄して堅田滋賀県大津市)に退去しますが、1551(天文20)年、久秀、長頼兄弟が近江に攻め込んだものの、瀬田山で敗戦。戦線は膠着します。

この状況を打破しようと、将軍の義輝は、なんと長慶の暗殺を企てます。

酒宴の席で、長慶を焼き殺そうと放火を行ったり、刺客を送り込んで殺害しようとしましたが、放火は未遂に終わり、刺客によって長慶は負傷するものの、命はとりとめました。

しかし、5月には長慶を支持する河内守護代遊佐長教が義輝により暗殺され、三好方に動揺が走ります。

 

足利義輝というと、塚原卜全から剣技を教わるなど、剛毅なイメージをお持ちの方も多いかと思いますが、長慶や久秀の側からみると、ずいぶんと策謀好きで非常に陰湿で姑息な手段を多用してくる人物に見えますね。

 

同年7月には細川晴元の家臣、三好政勝、香西元成が丹波衆を率いて京都の相国寺に陣取ります。

これに対し長慶は迎撃する方針を取り、久秀、長頼兄弟は4万の大軍を動員して、相国寺を包囲し、政勝、元成を丹波へ敗走させました。

4万というのは多分に誇張のある数字と思いますが、この戦いは久秀にとって大規模兵力を指揮した初めての戦いで、その指揮能力を主君長慶に認めさせた戦いとなりました。

 

この相国寺の戦いで武力による京帰還が困難となった義輝は、六角氏の仲介で1552(天文21)年1月、長慶と和睦を結んで帰京を果たします。

和睦の条件は、細川京兆家家督を晴元から細川氏綱に移すこと。氏綱の次は、晴元の子である信良が細川京兆家家督を継がせることでした。

長慶にすれば、とにかく晴元を幕政から外すことが要求事項で、自分を暗殺しようとした義輝については、その地位を保証するなど、非常に寛大な和睦条件といえます。

 

一方、義輝は保身のために自分を支えていた晴元を切ったといえるでしょう。

この和睦に当然反対した晴元は若狭に落ち、以後も長慶と軍事的対立を続けます。

 

三好政権の成立と一城の主へ

 

ともあれ、将軍義輝は帰京。

細川京兆家を後見する立場となった長慶は将軍の奉公衆、次いで御供衆に任ぜられ、細川氏の家臣から将軍の直臣に立場を変えることになりました。

この頃には久秀は三好長逸とともに長慶の重臣として幕政にも関与していくようになります。

 

幕府の秩序がようやく取り戻されたかと思いきや、義輝はやはり長慶が気に入らないのか、近臣の上野信孝や、細川晴元らと図って、長慶排除の陰謀を巡らせます。

1553(天文22)年閏正月には、和睦の維持をあくまで願う長慶に対し、義輝がまたもや暗殺を企てているとの噂が広まり、再び緊張が高まります。

この義輝の動きには伊勢貞孝ら幕臣らも、長慶の側について、信孝ら義輝側近たちを非難しますが、義輝はあくまで和睦の破綻を企図して長慶の排除に動きます。

 

ついに同年3月、義輝が霊山城京都市東山区)に籠城して、晴元が挙兵するに及び和睦は破綻。

長慶は8月には霊山城を陥落させ、義輝を近江朽木谷に逼塞させました。

 

再び将軍を今日から追放した長慶は、将軍を追放したまま、三好家による独自の支配を畿内を中心に行います。

1553年8月、長慶は居城を越水城から、芥川山城(大阪府高槻市)に移転。

長慶は京都には滞在せず、久秀や他の近臣たちも芥川山城に集住したため、京の権門、寺社も、なにかあれば芥川山城を訪ねてくるようになります。

この芥川山城で、長慶は京都周辺の訴訟の裁許ばかりでなく、京から離れた遠国の訴訟にまで関与、影響力を持つなど、まさに将軍が京に不在の間、三好家は中央政権の様相をとることになるのです。

この三好政権にあって、久秀は長慶の重臣として時の天皇にまで名を知られ、禁裏の修理を長慶とともに命じられるまで、その名を高めていました。

 

また、この頃、久秀は自身と家族は芥川山城に居住しつつ、滝山城神戸市中央区)と摂津下郡の広域的な支配権を与えられており、一城の主ともなっていました。

久秀は長慶のもと、ついに大名となったのです。

ただし、まだこの頃は重要な裁許は長慶に伺いを立てており、後に大和支配で見られたような大きな決裁権までは与えられていなかったようです。

 

1555年、24年続いた天文に替わり、新たな元号弘治」となります。

室町時代改元は将軍の執奏により執り行われることが慣例となっており、先代義晴が近江に逼塞しているときでさえ、天文への改元を朝廷へ執奏し、「お祝い」を治めるのが、義満以来、将軍権力の象徴的儀礼として続けられてきました。

しかし、弘治への改元では義輝から改元の執奏が行われた形跡はなく、朽木谷に落ち延びた義輝は無視される形で改元が行われたようです。

三好政権下における「将軍抜き」の政治体制の象徴的出来事と言えますね。

 

三好政権の将軍無視は徹底され、この頃六角氏と外交交渉を行っていた久秀は、六角氏重臣にあてた書状の中で、長慶が世の中の静謐を願っていることを強調し、義輝が近江に逼塞させられているのは、晴元と結託して長慶との約束を何度も破ったことによる「天罰」と、将軍義輝を厳しく糾弾しています。

こんなひどい将軍は相手にするなと、六角氏に訴えたかったのでしょう。

 

改元における義輝無視は、1558年の「永禄改元でも見られ、近江の義輝に改元の報が伝わったのは、改元から三か月後のことでした。

この永禄改元では、朝廷もいよいよ義輝を見限った感があり、自身の権威失墜に危機感を持ったのか、同年5月、義輝は六角義賢の支援を受けて晴元とともに近江坂本に進軍。

京都奪回の動きを見せます。

 

これに長慶も反応し、久秀は京都南部の吉祥院に布陣し、他の三好家部将たちとともに洛中で示威行軍を行って、義輝、晴元を牽制します。

両軍にらみ合いの中、戦線は膠着し、途中北白川で小規模な戦闘はあったものの両軍決め手を欠きました。

8月を過ぎ、四国から三好の援軍が上陸し始めると、不利を悟った六角義賢は長慶との和睦をすすめ、義賢の仲介により義輝は長慶と和睦し、和睦に反対した晴元は逐電して、なおも長慶への反抗を続けます。

この和睦によって、将軍義輝は5年ぶりに京へ戻ることができたのでした。

 

将軍義輝との抗争にようやく一区切りつけることができた長慶は、以後、幕府の関係修復に努め、畿内各所へ勢力拡大を進めていくことになります。

 

そして、この流れの中、久秀は大和と運命的にかかわっていくことになるのです。

<参考文献>


 

次回はこちらです。

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