歴史好きの大和徒然草子

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戦国の梟雄はいかにして世に出たか。松永久秀(1)

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皆さんこんにちは。

 

当ブログでは、筒井順慶柳生宗厳と、奈良に所縁のある歴史上の人物のご紹介をしてきました。

www.yamatotsurezure.com

 

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今回から、戦国きっての梟雄として知られる松永久秀についてご紹介したいと思います。

さて、久秀のイメージといえば、出自不明の武将で、戦国畿内の覇者、三好長慶に見いだされて成り上がり、信長に服属してからも謀反を繰り返した、下克上の代表的な人物というのが一般的でしょうか。

また、主家の要人を暗殺し、将軍を暗殺、あげくに大仏殿を焼き払うという、とてつもない「悪事」を3つも行った、といわれていることでも知られています。

 

しかし、最近の研究では、必ずしもそういった人物像は、当時の一次史料などからは見えず、後年の軍記物などで形作られていったものともいわれています。

 

久秀は、奈良はもちろん、畿内戦国史を語るうえでは避けられない人物ですが、信長が家康に久秀を紹介したとき言ったといわれる、前掲の3悪事の逸話以外、知られていないことも多いのではと思います。

久秀を通して、信長、秀吉、家康を中心とした史観では無視されがちな、戦国時代の奈良や畿内の様子などご紹介できればと思います。

 

 

出自

 

とかく出自に謎の多い久秀ですが、興福寺の僧が残した、奈良を中心とした戦国時代の一級史料として知られる「多聞院日記」の1568(永禄11)年の記事に、「当年六十一歳」と記されていることから、生年は1508(永正5)年とされます。

生国とされるのは、山城、阿波、摂津と諸説あります。

 

山城説で有名なのは、もともと西岡出身の商人で、かの斎藤道三と同郷であったというものです。

しかし、この説は、最近の研究で斎藤道三の美濃の国盗りが、父子二代によって行われたことが明らかになってきており、つじつまが合わなくなってきてるようです。

戦国を代表する下克上の英傑二人が、もともと同郷の顔見知りというのはいかにも劇的な説ではありますが、往々にしてリアルではそのような「面白い」話は事実として生まれないということでしょう。

 

次に、阿波の出身という説は、久秀が仕えた三好氏の本拠地ということもあり、ありそうな話ともいえます。

しかし、久秀の主君となる三好長慶の父、元長吉野川流域の武士たちを率いて堺に渡航して戦った際の史料などに松永氏の名は見えず、阿波の武士たちは長慶の弟であり、四国を支配した三好実休の家臣となっているものがほとんどのため、可能性は低いとみる向きもあります。

 

三つ目の摂津の出身という説は、摂津国五百住(よすみ)の百姓、土豪だったという説で、こちらは各種軍記物で久秀の出生地とされるなど傍証が非常に多いようですね。

江戸時代の五百住の絵図には「松永屋敷跡田畑」などの記載が残されているなど、当時悪名高く、わざわざそのような人物の由緒を創作する必要はないので、信憑性が高いとする研究者もいます。

 

しかし、いずれにせよ久秀は当初、長慶の祐筆として仕官して頭角を現していますので、その職務を十分にこなせる教養を身に着けられる階層の出身であったことは間違いないでしょう。

 

畿内の新星、三好長慶の配下となる

 

さて、ここで少し久秀の主君となる三好長慶についてご紹介しておきましょう。

長慶は、当時管領細川高国細川京兆家(細川氏の本家筋)の家督管領の座を激しく争っていた細川晴元重臣三好元長の子として1522(大永2)年に阿波で生まれました。

長慶の父、元長は細川高国を滅ぼすなど、主君晴元の権力奪取に大いに貢献した名将でした。

しかし、山城南部にも支配地域を広げるなど元長の勢威に、同じ三好一族で晴元の側近であった三好政長や、主君晴元は脅威を感じ、元長の排除を画策しはじめます。

そして晴元や政長の策謀で蜂起した一向一揆によって、1532(享禄5)年に元長は殺害されてしまい、当時11歳で堺にいた長慶は阿波に逼塞することになります。

 

邪魔者を消し去った晴元、政長でしたが、自らけしかけた一向一揆をコントロールできなくなり、享禄、天文の乱が勃発。一揆勢と畿内で泥沼の戦乱状態に陥ります。

室町時代の争乱は、観応の擾乱といい、応仁の乱といい、なかなか収拾がつかず、長期化することが多いですね。

色々な勢力の利害が錯綜するためなのでしょうが、このあたりは現在世界各地で勃発している地域紛争とも通ずるところかと思います。

 

この戦乱の中、まだ少年の長慶は、1534(天文3)年に父の仇敵ともいうべき晴元のもとに帰参して畿内に復帰。

一揆勢との戦いをとおして、摂津に勢力を拡大し、1539(天文8)年には摂津越水城(兵庫県西宮市)を居城として、ついに摂津半国守護代としての地位を獲得します。

 

新たな支配地を広げた長慶ですが、ここで深刻な人材不足に悩むことになります。

というのも、阿波の譜代の家臣のうち、経験豊かな武将の多くが父元長の代の戦乱で命を失い、残された家臣の多くも、本拠の阿波や淡路を治める弟たちに付けていたため、新たな領地を統治するための家臣団を新たに集め、編成する必要に迫られたわけです。

まさにこの頃、松永久秀が、長慶の家臣として資料の中に姿を現すようになっており、おそらく久秀は、新たな領地を統治するため三好氏の外様の家臣として登用されたと思われます。

 

久秀が史料に初めてその名が見られるようになるのは1540(天文9)年で、長慶の奉行として、寺社への寄進に関する文書や、各種安堵状の発給などにその名が見られ、主に行政官として活躍していたようです。

このように、当初能吏として頭角を表した久秀は、一軍の将としても用いられるようになります。

1542(天文11)年には木沢長政が討滅されたあと、その残党として活動を続ける大和国人たちを討伐するため、山城南部に出陣した記録があり、この頃には武将としての活躍を開始していたと考えられます。

とはいえ、この頃の長慶家臣団の上層部は阿波出身の者たちで固められており、久秀を含め、新参の外様衆は現場の実務担当者でした。

この時期の現場での実績が買われ、久秀が抜擢されるのはもう少し後のことになります。

 

そして中央政界へ

 

さて、久秀の主君、長慶は父の仇ともいうべき細川晴元に仕えながら、着々と勢力を伸長させてきましたが、徐々に晴元と対立するようになっていきます。

そして1548(天文17)年、これまた父の仇である三好政長の討伐を、晴元に受け入れられなかったことをきっかけとして、ついに主君晴元と袂を分かつことになりました。

1549(天文18)年6月には晴元と江口城の戦いで決戦となり、長慶は父の仇である三好政長を討ち取るなど、大勝利をおさめます。

晴元は、将軍足利義晴を連れて近江坂本へ逃亡。

長慶は7月には上洛を果たして細川晴元の政権はここに瓦解し、三好政権がここに樹立されたのです。

 

管領と将軍を京から追い出して、その支配者となった長慶。

そのもとには、寺社や公家から様々な訴訟や陳情が、将軍や管領に替わり、寄せられることになりました。

その折衝役として、久秀が抜擢されます。

輝かしい中央政界デビューであったといえるでしょう。

数年前までは下働きが主であった久秀でしたが、この頃には長慶の側近として活躍を開始します。

同年12月、本願寺から初めて礼物が贈られたとき、主君長慶と同数の礼物を送られており、その数は阿波以来の譜代の臣である塩田氏を上回るものでした。

すでに長慶の配下でも筆頭格の人物と、周囲から見られていた証左となる事例であると思います。

 

当初は阿波以来の譜代家臣団が占めていた長慶家臣団の上層部でしたが、三好政権の樹立前後には、久秀をはじめ、その弟の松永長頼岩成友通ら外様衆が抜擢され、長慶の忠実な側近として政権の中核を担っていきました。 

家格秩序を重んじる室町期の武家社会では非常に特殊な事例であり、必要に迫られたとはいえ、三好長慶の革新性を表す事例であると思います。

このような主君長慶の元、久秀は戦国のひのき舞台に勇躍していくことになります。

 

参考文献


 

 

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