歴史好きの大和徒然草子

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柳生(石舟斎)宗厳(1)剣の道に目覚めた大和国人の若殿

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新陰流兵法目録事(宝山寺蔵)


皆さんこんにちは。

 

さて、中世大和(現在の奈良県)の国人で最も全国的に有名な氏族といえば、大河ドラマをはじめ、多くの時代劇で取り上げられることが多い「柳生氏」ではないでしょうか。

大河ドラマ春の坂道」の主人公、柳生宗矩やその子、十兵衛三厳は小説や時代劇で取り上げられることも多く、知名度は全国的といえるでしょう。

柳生氏は南北朝時代に勃興し、明治まで父祖伝来の地で生き残った数少ない大和国人になります。

そんな柳生氏が江戸時代、将軍家の剣術指南役として名をあげる礎をつくったのが、柳生新陰流を創始した柳生石舟斎こと柳生宗厳です。

剣客石舟斎としての生涯は、多くの時代劇や小説で広く紹介されていますが、ここでは大和国人としての柳生宗厳の生涯にスポットを当ててご紹介していきたいと思います。

 

 

大和国人、柳生氏

 

柳生氏は、柳生庄を治める春日社の荘官であったといわれていますが、史書に柳生氏の名が現れるのは、1331(元弘3)年、後醍醐天皇が討幕の兵を挙げたとき、天皇の檄に応じた播磨守永珍(ながよし)が最初とされています。

永珍は弟の中坊源専とともに後醍醐天皇の籠る笠置山に馳せ参じて幕府軍と戦いますが、この時は衆寡敵せず敗北し、領地を失い一時没落します。

しかし、後醍醐天皇が討幕を成し遂げて建武の新政が開始されると領地を回復。以後、柳生の地に国人領主として割拠することになります。

ちなみに永珍の弟、中坊源専は、筒井氏改易後に吉野に領地を得て代々奈良奉行となる幕府旗本、中坊氏の家祖にあたります。戦国以前からの大和国人であり大和国に明治まで残った柳生、中坊の両家は、同源なんですね。

柳生の里の場所はこちら。

現在の奈良県京都府のちょうど府県境周辺で、奈良の町と伊賀のちょうど中間になります。

 

さて、柳生宗厳は1527(大永7)年、柳生家当主、家厳の嫡男として柳生庄に生まれました。

この当時の大和国は宗厳が生まれる100年前に起きた大和永享の乱以降、全国に先駆けて戦乱の時代に入っており、応仁の乱細川氏被官の赤沢朝経の侵攻など、筒井氏、越智氏の抗争に周辺の外部勢力による介入が加わり、泥沼の戦乱状態でした。

宗厳が生まれたころ、畿内では畠山総州家の内衆であった木沢長政が主家畠山氏を傀儡化して実権を握り、管領細川晴元とも結んで勢力を拡大していた時期でした。

長政は政敵の三好元長三好長慶の父親)と元の主人である畠山義堯を一向宗をけしかけて抹殺するなど知略に優れ、河内半国に加え、山城下5郡も支配し、大和も支配下におさめようと、筒井氏を介して大和への介入を強めます。

このような情勢にあって、家厳は長政に従属します。

大和、山城国境に領地を持ち、長政とは支配地が接する柳生家としては、畿内の一大勢力となった長政につくより他、選択肢はなかったのでしょう。

長政は1536(天文5)年には前年に筒井氏を継いだばかりの筒井順昭と結び、南和の越智氏を圧迫。ほぼ大和を制圧して全盛期を迎えました。

しかし次第に中央政局で孤立し、1542(天文11)年にはかつて葬り去った政敵三好元長の子、長慶に太平寺の戦い(大阪府柏原市)で敗れ、長政はこの戦いで敗死してしまいます。

 

この長政の死後、大和で勢力を伸ばしたのが筒井順昭でした。

順昭は長政に従っていた国人衆を次々と撃破してその勢力を伸ばし、1544(天文13)年には1万の軍勢で柳生へ攻めかかりました。

この年、宗厳18歳。父とともに3日にわたり奮戦しますが柳生城は陥落。

家厳は順昭に降伏して、家名存続のため筒井氏に服従します。

 

筒井氏配下の柳生氏

 

木沢長政の敗死後、筒井氏に服属した柳生氏ですが、一説にはこのとき宗厳は筒井氏の人質となったともいわれています。

若き日の宗厳は剣術修行に明け暮れたのでしょうが、人質として日々の鬱屈をそうやって晴らしていたのかもしれません。

ちなみに今であれば、武士が剣術を学ぶのはごくごく当然のようにも思われますが、当時の戦場で剣術は必ずしも実戦的な技術とは言えなかったと考えられます。

というのも、当時の戦場での主たる武器は、弓矢や鉄砲といった飛び道具が第一であり、白兵戦においては槍や薙刀といった相手と距離が取れる武器が優先的に用いられました。

本気の殺し合いを行う戦場では、少しでも相手と距離をとり、自己の安全をはかるのが当たり前で、相手との距離が取れず、反撃のリスクが大きな刀剣は誰もが好んで戦場で使う武器とは言えなかったのです。

個人的な武芸に優れ出世を果たした戦国武将が誰であったかを考えたとき、明智光秀滝川一益などは鉄砲の名手であり、前田利家本多忠勝などは槍の名人でした。

彼らは鉄砲や槍という実戦的な技術を認められ、大軍を指揮する武将として取り立てられていったとも言えます。

一方、剣客では、大名はおろか、大禄の武将にまでのし上がった人物は戦国時代にはいなかったと思います。(もともと大名で、趣味として剣術にのめりこむものは多かったようですが。)

小領主とはいえ、2千石ほどの領地をもつ柳生家嫡男に生まれた宗厳には、もとより出世の道具として剣術を見てはいなかったのでしょう。

若き日の宗厳はおそらく嗜みとして剣術修行に打ち込む間に、その深遠な世界にのめりこんでいったものと思われます。

土豪の若殿で剣術に明け暮れたということでは、後に同門となる肥後の剣客丸目長恵と非常によく似た経歴ですね。

 

さて、若き日の宗厳は戸田一刀斎に富田流を学んだとされます。

富田流は京都で生まれた中条流をもとに越前朝倉氏家臣の富田勢源が起こした流派で主に北陸方面で広まった流派ですが、宗厳がどこで学んだかはよくわかりません。

人質であれば遠方にまで廻国修行に出向くなど不可能ですから、奈良を訪れた富田流の剣客から手ほどきを受けていたのではと推察されます。

人質でなかったならば、気軽な若殿という身分でもあるので、京や越前に出向いて修業したのかもしれませんね。

この時代の奈良は興福寺を中心として3000~5000人という寺僧がおり、各地の荘園から物と人が集まる全国有数の大都市であり、文化人や武芸者が多数訪れる場でもありました。

なので、奈良にいながら多様な文化や芸能、武術にも触れることができたと考えられます。

また、神取新十郎に新当流も学んでいたという史料もあり、様々な流派に取り組んで剣の腕を上げ、30歳中ごろまでにはひとかどの剣客として五畿内にその名をとどろかせていたといいます。

 

剣術修行に打ち込む一方で、父家厳とともに筒井勢の武将としても活躍し、吐山(奈良市都祁吐山町)における合戦では手傷を追いながら奮戦して、年次は不詳ながら順慶から感状を得たといいます。

この当時、戦場での負傷も手柄ですから、最前線で身体を張る、当時の中、小国人武将としての宗厳の様子がうかがえる話ですね。

さて、1544年に柳生城が落城して以来、筒井氏に従属を余儀なくされた柳生氏。

しかし、1550(天文19)年に名将筒井順昭が急死すると筒井氏による大和支配を快く思わない三好長慶による圧力が強まってきます。

そして1559(永禄2)年8月、長慶の命を受けた松永久秀による大和侵攻が開始されるのです。 

 

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