大和徒然草子

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筒井順慶(1)2020年大河ドラマで注目の男となるか!?洞ヶ峠の順慶その生い立ち


皆さんこんにちは。

筒井順慶」という戦国武将をご存じでしょうか。

最大でおおよそ20万石(与力も含めれば45万石規模)の太守であり、この規模は江戸時代でいうと土佐の山内氏に匹敵する大身大名といえます。

ですが知名度は低く、戦国時代が好きな方でも「洞ヶ峠」の日和見大名というイメージしかない人も多いんじゃないかと思います。

 

ブログ管理人の地元、最大の英雄・・・なのですが何とかこの低い知名度と「洞ヶ峠」のマイナスイメージを払しょくしたい!と常々思っていました。

※そもそも「洞ヶ峠」のエピソードは史実ではない!

 

2020年の大河ドラマ麒麟がくる」は明智光秀が主人公。

おそらくドラマの最大の見せ場となる「本能寺の変」ではきっと順慶も注目されるはずだ!されるに違いない!頼むから注目してよー(お願い!)

まあそんな思いからこの機会に筒井順慶の波乱と逆転に満ちた生涯を数回に分けてご紹介して、彼の知名度と好感度を上げる一助になればと思う次第です。

 

それでは、戦国時代でも屈指の逆転人生を歩んだ筒井順慶の人生を見ていきましょう。

 

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筒井順慶像(伝香寺蔵)

筒井氏とは

 

上は奈良市内の寺院に伝わる順慶の肖像画です。
一目でお分かりと思いますがお坊さんですね。


室町時代、全国に守護がおかれていましたが、大和は摂関家と結び付いた興福寺の力が強かったので、幕府もこの地に守護は置けず、興福寺が事実上の守護となっていました。
筒井氏は大和の有力な国人領主であると同時に、興福寺の「衆徒」でした。
この場合の衆徒とは、お寺の実務を中心に担う堂衆というお坊さんです。

特に筒井氏は衆徒の中でも最上位に位置して興福寺の警察権を担う「官符衆徒(かんぷ(の)しゅと)」に代々つき、寺中兵力の中心となってきた家柄でした。

そういう家でもあったので、筒井氏の当主は元服すると原則得度、剃髪してお坊さんになったのです。

なので得度した順慶もお坊さんの恰好をしています。

 

興福寺の武力の一翼を担う筒井氏は南北朝の動乱以降、大和の騒乱の中心として活躍する氏族の一つになります。

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筒井順昭像 (圓證寺蔵)

とくに順慶の父筒井順昭は若くして武略に優れた人物でした。

当時畿内で権勢をふるった木沢長政と最初は同盟関係を結びますが、長政が戦死没落すると、その残存勢力を攻め取り、大和をほぼ勢力下におさめたのです。

筒井氏を戦国大名化させたのは順昭と言って差し支えないかと思います。
しかも順昭はまだ20代前半。
若いのになかなかの人物です。


父の順興が、一時衰退していた筒井氏の勢力を復活させていたとはいえ、南北朝以来、室町時代を通して国人同士が相争い、絶え間なく他国からの干渉や侵攻にさらされてきた当時の大和一国をほぼ支配下におくのは大変なことでした。

ちなみに旧木沢方勢力の制圧戦の中では、1544年、後に徳川将軍家剣術指南役となる柳生氏が拠る柳生城も陥落しています。
このとき、後に柳生新陰流開祖となる柳生石舟斎は17歳。
おそらくこの一戦にも参戦していますが、こののちしばらく柳生氏は筒井氏に屈服して従うことになります。
おそらく大和の在地領主で最も知名度が高いと思われる柳生氏ですが、戦国時代はほぼ「反筒井」でしたので、柳生氏の飛躍は筒井氏没落後ということになります。

 

筒井順慶誕生

 

筒井順慶はそんな絶頂期にある筒井氏待望の嫡男として1549年に生を受けます。
父は大和を支配下におさめた若き戦国大名で、まさに前途洋々・・・のはずでした。

しかし順慶最初の暗転は早くも生まれた次の年、1550年に起こります。
この年父親である筒井順昭が急死してしまうのです。

時に順慶2歳・・・と書籍などにはありますが、これは数え年なので今でいうと1歳3か月ほど。

ちょうど、よちよち歩きを始める頃でしょうか。

そんな幼子に大名家の家督は務まるはずもないため、順昭は死に際して自分の死は順慶の成長まで当分隠すよう遺言し、「木阿弥(黙阿弥ともいう)」という順昭に声が似ていた奈良の盲目の僧が、いわゆる影武者にたてられました。

この木阿弥は影武者としてよい暮らしをしていましたが、順慶をささえる体制が数年で固まると、順昭の喪が公表されて奈良に戻されてしまいます。

これが「元の木阿弥」の語源ともいわれています。※最近知ったのですが別にも語源の説があるらしいです。

筒井氏関連の故事成語で「洞ヶ峠」とならぶ有名エピソードですが、これまたいささか最後が「冴えない」落ちとなる話なので、筒井氏のイメージアップにつながらないお話となっております。

残念・・・。

当時の畿内三好長慶足利将軍家管領細川氏などの室町幕府方と激しく争っていて、生き残るのには難しいかじ取りが必要な時期でした。

このような状況で筒井氏は当主が若年ながらも、親族や有力家臣たちの支えもあり、勢力を維持します。

※当主がとにかく幼いので親族同士の主導権争いも激しかったようですが年とか生き残ります。

まあ、この頃の苦難は順慶の苦難というよりは筒井家中の苦難といったほうがいいかもしれないですね。

また、この頃の筒井氏を盛り立てた家臣として、後に石田三成重臣となる嶋左近や、松倉右近の名も挙がることも多いですが両方とも信頼性の高い史料ではこの頃の筒井氏重臣としてその名が見えません。

特に嶋左近が筒井家臣として確かな資料に出てくるのはずっと時代が下ったあとで、この当時筒井の屋台骨を実際に支えたのは叔父の筒井順政や一族の福住宗職でしょう。

三好氏と室町幕府の相克は、順慶の名前からも見て取れます。
この頃、順慶は幼年で得度しておらず、「藤勝」と名乗っていますが、「藤」の字は、当時三好氏と争っていた13代将軍足利義輝(当時は足利義藤と名乗ってました)の偏諱を賜ったものです。
ほかに藤の字をもらった有名武将としては細川藤孝(幽斎)がいますが、このことから当時の筒井氏は幕府方からの取り込みを受けていたと推察できると思います。

三好氏と幕府をはじめとした畿内諸勢力の争いが大和国に飛び火するのは、1559年三好長慶河内国内の混乱に乗じて河内に出兵したことに始まります。

三好氏の河内制圧後、敵勢力の残党狩りを口実に一人の三好氏重臣が大和侵攻を開始します。

この三好氏重臣こそ順慶の生涯最大の敵となる「松永久秀」です。

次回は、松永久秀との1577年まで続く闘争を中心にご紹介したいと思います。 

 

最後に筒井順慶を描いた小説を一冊ご紹介します。

すでに書籍のほうは絶版で古書でしか手に入らないのですが、最近はよい時代で電子書籍化されています。

順慶を主人公にした小説はこれと筒井康隆が書いたものしか知らないのですが、こちらの本は史実を概ねなぞっていて、彼の人生を概観するのによい一冊になっています。

興味のある方はご一読ください。

 

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