皆さんこんにちは。
前回は筒井順慶の生い立ちを中心にお話しました。
今回は順慶の生涯のほとんどを費やしたといってよい松永久秀との闘争の始まりを中心にご紹介したいと思います。
戦国屈指の出世を果たした名将
まずは松永久秀とは何者か。
戦国の大和、というより畿内の歴史を語るのに避けて通れない重要人物です。
松永久秀については、彼を中心にいつか詳しい記事も書こうと思っていますが、この記事は順慶に主眼を置くのでここでは簡単にご紹介しておこうと思います。
上は江戸時代の浮世絵です。
久秀は肖像も残っておらずその実像は不明ですが、江戸時代に書かれた「常山紀談」など信憑性に乏しい逸話集などでさんざんに悪逆非道のレッテルを貼られているためか、わかりやすい悪人顔で描かれていますね。
松永久秀は戦国時代に畿内の覇者となった三好長慶の重臣でした。
生国については阿波、山城、摂津といろいろ説はありますがはっきりしません。
出自もいろいろ説はありますが、いずれにせよ現在のところ高い出自ではないとされています。
ただ、長慶に祐筆(今でいえば秘書ですね)として最初仕えたことから、文書を書くことができ、茶の湯連歌の素養もあったことから、それなりの教育を受けられた層の出身であることは間違いないと思います。
特に当時文書を書く、それもちゃんとした体裁の文書を書くというのは大変な技能です。
なので、それなりの豪族出身で、小さい頃からお寺でお勉強、もしくは出家のうえ寺に入れられたりして学識を高めていたのかもしれませんね。
かつて北条早雲(伊勢宗瑞)が徒手空拳の浪人から成りあがったと巷間通説とされていたのが、最近では室町幕府執事である伊勢氏の一族という名族の出自であったことが研究からわかってきてる、なんてこともあるので、「実は松永久秀も・・・」という発見もあるかも知れないなと思ってます。
久秀は外様でありながら実力で三好長慶随一の家臣にまで出世した稀有な人物です。
最初は祐筆、後には茶の湯や連歌の素養もあったことから、幕府や朝廷との折衝に活躍し、一軍を率いさせたら戦上手と、まさに知勇兼備の傑物でした。
今なら実力本位は当たり前ですが、久秀の生きた時代は血縁、地縁が重要視、というよりほぼ絶対視された時代でいかに能力があろうとこの出世は珍しく、久秀の才能もさることながら取り立てた三好長慶の先進性も注目に値しますね。
松永久秀、大和に現る。筒井城陥落
そんな久秀が大和に現れるのは1559年8月、主君三好長慶の命を受けて大和に侵入を開始しました。
同年、長慶は河内国の守護畠山高政と対立していた畠山家臣の安見宗房を打ち破り、宗房を大和に駆逐したのですが、筒井氏は順慶の叔父、順政を通じて宗房と近しい関係でもあり、長慶から討伐の対象とされてしまったのです。
この頃、順慶はまだ11歳。今なら小学生。
筒井方は劣勢で、筒井城は1日で陥落してしまいました。
久秀はこのとき筒井城攻略で鉄砲を使用したらしく、その時のものとみられる銃弾が後に筒井城址の発掘で発見されています。
多くの拠点を奪われた順慶は東山中(奈良市、天理市東部に広がる山岳地帯)の椿尾上(つばおかみ)城に移り、しばらくこの地を根拠として、粘り強く久秀と攻防を続けていくことになります。
このとき、久秀の組下武将として、キリシタン大名として名高い高山右近の父友照も参戦しており、1560年には宇陀の沢城を落としてその城主となっています。
ちなみに高山友照が後に息子の右近とともにキリスト教の洗礼を受けるのは、沢城主時代です。
また順慶配下の寝返りもあり、のちの柳生石舟斎こと柳生宗厳もこの頃筒井氏を離れ、久秀の配下となっています。
宗厳は以後、久秀の配下として筒井方と激しい戦いを繰り返すことになります。
1560年の11月には久秀は摂津滝山城(現在の神戸市中央区。新神戸駅の裏山)から本拠を大和河内国境の信貴山城(奈良県生駒郡平群町)に移すとともに、大和の北部をほぼ支配下におさめて三好家中の有力武将として台頭します。
1561年、この年大和で目立った合戦はありません。
というのも久秀は京都の中央政局に忙殺され、腰を据えて大和攻略に臨めなかったのだと思います。
この年まで、三好長慶の政権は摂津を中心に山城、丹波、和泉、阿波、讃岐、淡路、播磨と大和北部も勢力圏に収め、管領家の細川、畠山両氏も屈服させ、権勢の絶頂にありました。
そんな中、長慶を支えていた弟の十河一存が急死し、三好政権に動揺が走ります。
その間隙を狙ってか、近江の六角義賢が河内の畠山高政と呼応して管領細川晴元を幽閉していた三好長慶を挟撃する動きに出ました。
旧勢力の反撃です。
六角義賢がまず京に攻め込み、久秀は長慶の嫡男義興とともにこれを迎え撃ちますが、奮戦するも敗走して六角氏に京を奪われます。
六角義賢、人気歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」の武力では考えられない武辺を発揮しています。
翌1562年3月には畠山高政が久米田(現在の岸和田市付近)の戦いで三好軍を打ち破り、長慶の弟で政権の屋台骨を支えていた三好実休が激戦のなか戦死すると、反三好勢の気勢はいよいよ高まります。
決戦、教興寺の戦い
この年までやられっぱなしの筒井氏もこの勢いに乗り遅れまいと思ったか(きっと思ったに違いないでしょう)、畠山高政の求めに応じ、兵を河内に送ります。
順慶の名代である叔父の順政率いる大和国衆その数8000(かなり誇張のある数とは思いますがそれなりの大軍は率いていたと思われます)。その中にはのちの名将嶋左近 の姿もありました。
一説には左近が筒井氏臣下となったのはこの時、筒井氏の組下で働いたことがきっかけではないかという説もあります。
筒井氏を含めた畠山勢は、弱り目の三好氏を一気に葬ろうと総力をあげて河内へ進撃します。
その数40000。
畠山勢は当時長慶の本城となっていた飯盛山城に攻め寄せる一方で、六角勢にも山城から三好勢を挟撃するよう督促しますが、なぜか六角義賢はこのとき動きません。
そうこうしているうちに三好義興、久秀らが一族や配下の国衆を結集し、50000の大軍を率いて飯盛山城の救援に向かいます。
援軍の背後を衝いてほしい畠山高政の督促にも六角勢は結局動かず。
やむなく畠山勢は城の囲みを解いて、援軍を迎え撃つため高野街道を南下しました。
長慶の軍と義興の援軍が合流し、その数60000となった三好勢も、義興を大将、久秀を副将として、畠山勢を追い南下します。
5月17日、河内国、教興寺畷付近(大阪府八尾市)で両軍はにらみ合いとなりました。
いよいよ両軍合わせて10万余という戦国時代、畿内最大規模の会戦となる「教興寺の戦い」がこの地で始まるのです。
大河ドラマで三好長慶か松永久秀をやったら(たぶんやらないでしょうが)、間違いなくハイライトの合戦となるでしょう。
ですが、ほぼ「知名度0」の合戦。
知名度0ですが、当時の中央政局に与えた影響は甚大でした。
同時代行われていた「川中島の戦い」はあってもなくても日本史の大勢に影響はありませんが、この教興寺の戦いがなければ、戦国末期の室町幕府の様相はずいぶん変わっていたと思います。
功績や周囲に与えた影響のわりに異常なくらい過小評価されている点で、信長・秀吉・家康中心戦国史観の最大の被害者は三好長慶を筆頭とした畿内の武将たちだとつくづく思います。
数の上では三好勢が優勢。
しかしながら畠山勢には切り札の部隊がありました。
われらが筒井勢・・・と言いたいところですが残念ながら違います。
戦国最強の鉄砲集団、雑賀・根来の鉄砲部隊4000が三好勢には脅威でした。
久米田の戦いで三好の重鎮である三好実休を死に追いやったのも大量の鉄砲を集中運用する彼らだったからです。
後に石山合戦で猛威を振るう雑賀の鉄砲隊はこのころから、敵方にとって恐怖の的だったんですね。
雑賀・根来衆の鉄砲を無力化することが、三好勢の大きな課題となっていました。
そのため、三好勢は雨が降るのを待ちます。
そして5月19日に雨が降るや、先手を打って早朝から一気呵成に攻めかかります。
切り札の雑賀・根来衆の鉄砲隊を無力化された結果、昼過ぎには畠山勢は総崩れとなって、三好勢が大勝するのです。
この戦いで筒井勢も多くの兵を失い敗走しますが、敗戦の影響は大和国内にも広がり、余勢を駆った三好勢が大和に乱入して大和北部の畠山方についた諸部落を焼き討ちにします。
また、この戦いの結果、三好長慶は畿内の覇権を完全に握ったため、久秀の大和支配の動きも再び活発になります。
同年にはかねてより奈良の町の北の入り口である奈良坂と東大寺、興福寺といった南都の中枢を抑える要地に築城していた多聞山城に本拠を移し、いよいよ本格的な大和の支配に乗り出します。
久秀の手は緩むことなく教興寺の敗戦から立ち直れない筒井勢に襲い掛かり、筒井氏の重要な盟友であった十市遠勝がこの年人質を多聞山城に入れて降伏してしまいます。
さらには1564年、順慶を後見していた叔父の順政が亡くなります。領地を追われた末、逃亡先の堺での無念の死でした。
ここまで久秀に押されっぱなしの順慶・・・というかこの頃まだ順慶はいまでいうと小学校高学年から中学生。
とても矢面には立てなかったのですが、後見の順政もいなくなりいよいよ歴史の表舞台に否応なく躍り出ることになります。
今回は順慶というよりほぼ久秀の回となりましたが、次回は順慶と久秀の本格化する抗争をご紹介していきます。
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