大和徒然草子

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筒井氏の近世大名化と中世大和の終焉~大和武士の興亡(18)

1559(永禄2)年以来続いた松永久秀筒井順慶の大和を巡る抗争は、1577(天正5)年10月、久秀が信貴山城で滅亡して終結

大和で順慶に従わない有力勢力は、箸尾為綱と吉野の本願寺勢力くらいとなり、順慶は大和で比肩するもののない絶対的な実力者となりました。

織田政権の外様大名となった順慶は、松永氏滅亡後の大和でその支配権を伸ばし、順慶を通じて中世的封建支配は解体され、大和は本格的な近世を迎えることになります。

 

筒井氏の近世大名化

1577(天正5)年10月に信貴山城で松永久秀が滅亡すると、順慶は直ちに松永方国人の掃討に動きます。

信貴山城陥落から2週間後の同年10月24日、順慶は箸尾氏一族の箸尾唐院(現川西町の国人領主)を自害に追い込み、中和の有力勢力だった箸尾為綱への圧迫を強め、翌1578(天正6)年正月に為綱は順慶に屈服しました。

久秀の重臣として活躍した柳生宗厳は、久秀の挙兵には加わらなかったものの順慶にも従わず、信長と親交の深い元関白の近衛前久に仕えることで、柳生の領地を守りました。

松永氏が辰市城の戦いに大敗してから、宗厳の戦国武将としての活動は振るいませんが、この頃の宗厳は、柳生新陰流の開祖としての活動を活発に行っており、弟子への印可状の発行を多数行っています。

 

順慶は同年4月に播磨、6月には丹波と信長配下の大名として遠征が続く中、10月になると中南和から南の反抗勢力討伐に乗り出します。

10月7日に十市(現橿原市)に本陣を置いて、現在の桜井市に勢力をはる戒重氏、大仏供(だいふく)氏を威圧すると、10月9日にはそのまま石山本願寺の拠点となっていた吉野へ進軍しました。

下市御坊・願行寺と飯貝御坊・本善寺

そして10月11日、下市御坊の願行寺(現下市町)と飯貝御坊の本善寺寺内町もろとも焼き払い、吉野の本願寺勢力を一掃。大和で表立って信長や順慶に反抗する勢力はほぼなくなりました。

翌1579(天正7)年になると、順慶は居城・筒井城の大規模な改修を開始します。

筒井城外堀跡

全長2kmに及ぶ外堀と南北400m、東西500mにまで広がる外郭が形成されたと見られ、大和の中心城郭にふさわしい規模に拡張しようと工事は進められました。

 

翌1580(天正8)年1月17日になると信長は播磨を平定し、畿内に残る反抗勢力はいよいよ石山本願寺のみという状況になりました。

石山本願寺への総攻撃を控える同年閏3月に、順慶は鉄砲鋳造の鉄を確保するため大和国中の寺社から釣鐘を徴発しています(『多聞院日記』天正八年閏三月十七日条)。

信長の要求に応えるため、順慶は興福寺衆徒でありながら寺社に対しても斟酌なく、負担を強いることを辞さなかったのです。

織田氏の圧迫に窮した石山本願寺は同年8月ついに開城・降伏。11年にわたった石山合戦終結畿内の反信長勢力は消滅しました。

 

信長は畿内に平穏が訪れたこの機を逃さず、畿内の統制を進めます。

まず、前年までに丹波、丹後を平定した明智光秀畿内における織田氏傘下大名の統轄者に任じ、大和の順慶も光秀の与力となりました。

そして同年8月17日、順慶は郡山城(現大和郡山市)への居城の移転と、郡山城以外の国内城郭を全て破却するよう、信長から命じられます。

さらに信長は、翌9月に寺社を含む大和の全領主に差出検地を命じ、自領の石高を自己申告させました。

信長による「一国一城令」によって、国人衆は領地と切り離されて郡山城の順慶のもとに集結させられることになり、「差出検地」は形骸化しながらも残っていた興福寺と国人衆との関係を完全に断ち切って、石高に応じた各国人の軍役負担を明確にしました。

1580(天正8)年に大和で実施された全城郭の破却により、郡山城以外の城郭は悉く破壊され、筒井城、箸尾城、十市城といった中世以来の城郭は姿を消し、農地や環濠集落と化していきます。

 

同年10月23日に大和国内の検地がほぼ完了すると、順慶は大和の検地を共同で行った明智光秀滝川一益らとともに、戒重氏、大仏供氏ら4人の国人を処刑し、翌月も郡山辰巳父子を自害させるなど、これまで筒井氏に反抗的だった国人領主を次々と粛清しました。

大和国人の生殺与奪の権を握った順慶に、国人たちは震え上がったことでしょう。

その後も順慶は、国内支配を強化するため、かつて筒井氏と激しく対立した越智党の国人たちを中心に粛清を繰り返していくことになります。

 

同年11月7日、信長から「国中一円筒井存知ト」する朱印状を与えられ、正式に大和国内の軍事指揮権と検断権を得た順慶は、同月12日、新たな居城・郡山城に入城しました。

こうして郡山城の順慶を頂点とする一元的支配が大和で始まり、興福寺を頂点とした大和の中世は名実ともに終焉を迎えたのです。

 

本能寺の変

翌1581(天正9)年から、順慶は新たな居城・郡山城の改修・拡張工事に本格的に取り掛かりました。

郡山城

工事は1583(天正11)年まで続き、同年4月に「天主」が竣工。

郡山城は順慶の手によって、天守を備えた大和初の織豊系近世城郭に生まれ変わりました。

ちなみに現在の郡山城は、後年豊臣秀吉の弟・秀長が城主として入った際に拡張改修された後の姿で、順慶時代の郡山城の姿は詳細が不明です。

 

郡山城の改修工事が着工した1581(天正9)年9月3日、信長の伊賀攻め(天正伊賀の乱)に順慶は大和勢を率いて出陣し、10月17日に帰国するまで伊賀国内で国人衆の掃討作戦や陣地構築などに従事しました。

天正伊賀の乱では、信長の命で住民虐殺されたことが知られていますが、順慶も春日山へ逃げた一揆勢を数多く切り捨てたとされます。

 

翌1582(天正10)年正月、順慶は箸尾為綱、越智家秀を伴い安土城へ赴きます。

箸尾氏、越智氏の当主を引き連れて天下人・信長に新年の挨拶をしたことは、筒井氏の勢力圏である北和だけでなく、箸尾氏の抑える中和から越智氏の抑える南和に至るまで、大和国中の国人が信長に服したことと、順慶がその先頭に立つことを内外に示すものでした。

同年3月、順慶は信長らとともに甲斐・武田氏討伐のため信州に出陣。同月、武田氏は信長の嫡男・信忠によって滅ぼされました。

順慶は信長に随行して駿河を回って帰路につき、富士山など見物しながら同年4月21日に帰国します。

武田氏の滅亡で、信長の版図は東は関東の上野から西は中国の備前にまで広がり、天下統一は目前の状態となりました。

しかし、同年6月2日、京都本能寺で信長は明智光秀によってあっけなく討たれ(本能寺の変)、再び畿内の情勢は混沌とします。

順慶と光秀は筒井氏の織田氏帰順の際に光秀が取り次ぎ役を務めて以来、公私ともに親密な関係にありました。

光秀の謀叛に多くの畿内周辺勢力が様子見を続ける中、順慶は麾下の宇治槙島城主・井戸良弘と越智氏を中心とする南方衆を近江に派遣して、当初明智方に合味方する動きを見せます。

しかし、順慶自身は居城・郡山城から動かず、他の畿内の武将たちと同様に旗幟を鮮明にしませんでした。

※本能寺前後の順慶の動向については下記の記事で詳しくご紹介しています。

しかし、備中高松城で毛利勢と対峙していた羽柴秀吉の軍がいわゆる中国大返し畿内に接近すると、それを察知した順慶は秀吉に加勢することを決断。6月10日に山城から南方衆を撤退させ、郡山城に兵糧を入れさせ籠城戦の構えを見せます。

そして翌6月11日には順慶傘下の大和国人衆を郡山城に集め、「血判起請」で一致団結して行動することを決めたうえで秀吉に味方する旨の誓紙を送り、ついに旗幟を鮮明にしました。

そして6月13日夕刻、山崎の戦いで秀吉は光秀を打ち破ります。

一般的に順慶は、その優柔不断の故に軍勢を整えるのにもたつき山崎の戦いに間に合わなかったとされます。

しかし、山崎の戦い当日である13日付で羽柴秀吉織田信孝から順慶に宛てられた書状では、翌14日に西岡(現長岡京市向日市付近)方面に進出するから、順慶は上山城口(八幡市か)まで出陣するよう指示されています。

電話など即時性の高い連絡手段がない戦国時代、13日付の命令に従って当日中に大和の順慶が秀吉と合流して合戦に参加するなど不可能ですから、山崎の戦いは秀吉にとっても想定外の時間に始まり、そしてあっけなく片付いてしまったのでしょう。

6月15日、順慶は6~7千の兵を率いて醍醐に着陣し、ようやく秀吉に謁見しました。

この会見で、順慶は秀吉から「遅参」について激しい叱責を受けますが、先述の通り山崎の合戦に順慶が参加するのは不可能だったので、直前まで旗幟を鮮明にしなかったことに対して秀吉は憤ったのでしょう。

 

順慶の死

清須会議羽柴秀吉は山城、河内、但馬、播磨、を領国化し、さらに養子の秀勝(信長四男)が光秀旧領の丹波を領国化したことで、一躍畿内の巨大勢力となりました。

そして順慶も引き続き大和一円の支配を認められました。

清須会議後、織田家中の主導権争いが続く中、同年7月11日に順慶は養子としていた甥の小泉四郎(後の筒井定次)を人質として秀吉に差し出します。

四郎は筒井順昭の弟、慈明寺順国を父にもち、母は順昭の娘(順慶の姉)と、順慶にとっては従弟であり甥でもある関係で、1578(天正6)年には信長の娘を妻としており、実子のいなかった順慶の後継者と目されていました。

順慶は後継者を人質に送ったことで、いち早く畿内の一大勢力となった秀吉に従属することを示したのです。

同年10月、織田家中の主導権を巡って秀吉と柴田勝家織田信孝の対立が決定的になると、順慶は同年12月に秀吉に従って近江に出陣。柴田勝豊長浜城の包囲に参加し、勝豊降伏後は信孝の岐阜城攻略に参加して美濃へ進軍しました。

翌1583(天正11)年も秀吉と勝家の争いは続き、4月に勝家の居城・北ノ庄城(現福井市)が陥落して柴田氏が滅亡するまで、順慶は近江、伊勢、伊賀と転戦して柴田方と戦います。

なお、織田信孝に呼応して蜂起した伊賀牢人衆を討伐するため、同年5月に伊賀に出兵した順慶は夜襲を受けて多くの死傷者を出しましたが、その負傷者の中に松蔵弥八郎松倉右近重信と推定されている)と嶋左近の名が見えます(『多聞院日記』天正十一年五月十日条)。

この記録は、後に石田三成の腹心となる嶋左近の史料上の初見であり、順慶存命中に松倉右近と嶋左近が一緒に出征した唯一の記録です。

後世の軍記物では父・順昭の代から筒井氏の家老として幼主・順慶を支えたとされる松倉右近と嶋左近ですが、松蔵氏が代々筒井氏の有力な内衆(近臣)だった一方、嶋氏は筒井氏を盟主とする戌亥脇党の一員ながら、独立性の強い平群谷の国人領主だったようです。

しかし、本能寺の変後は『多聞院日記』などの史料にもその名が見え始め、順慶の晩年には重用されるようになっていたと見られます。

 

さて、1583年の前半を外征に費やした順慶でしたが、8月に越智家秀を高取で謀殺。

翌9月にはその子・又太郎を追放して、ついに南和の雄・越智氏を滅亡に追いやりました。

越智家秀は筒井氏と所縁の深い布施氏の出身で、筒井氏とは表面上良好な関係にありましたが、南和の直轄化を企図した順慶により排除されたのでしょう。

同年12月には順慶の内衆たちが大幅な加増を受け、直臣の筆頭格である松蔵弥八郎には旧越智領が与えられました。

翌1584(天正12)年2月には破却されていた高取城も復興。

高取城跡(二ノ門跡)

越智氏ら南方衆の粛清とその闕所に直臣を送り込むことで、筒井氏による南和の掌握は本格的に進み、その支配は宇陀を除く大和のほぼ全域に及ぶようになりました。

 

同年3月、前年から関係が悪化していた秀吉と織田信雄が武力衝突を始めると、順慶も大和国衆を率いて伊勢を転戦。長久手の戦い徳川家康三河侵攻を狙った羽柴勢別動隊を壊滅させてから2日後の4月11日には、羽柴秀長と共に尾張の前線へ着陣しています。

秀吉の参加の有力大名として東奔西走していた順慶でしたが、同年7月病に倒れます。

そして懸命の治療や祈祷の甲斐もなく、8月11日に世を去りました。享年36。

ただちに養子の小泉四郎が家督を継ぎ、筒井定次を名乗ります。

筒井定次像(『義烈百人一首』より・国文学研究資料館所蔵)

定次は歴代の筒井氏棟梁の慣例を破り、興福寺官符衆徒として得度することなく、世俗の近世大名として大和に君臨しました。

筒井氏の近世大名化は、順慶から定次への代替わりで完成したのです。

 

参考文献

[rakuten:book:19476979:detail]

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