大和徒然草子

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大和武士の黄昏。豊臣政権下の大和国衆と筒井氏の伊賀転封~大和武士の興亡(19)

戦国時代末期、松永久秀と熾烈な抗争を続けた筒井順慶は、織田信長羽柴秀吉畿内に君臨する天下人に臣従。

筒井氏は天下人の武力と権威を背景として大和の支配を進めたことで、中世以来の興福寺衆徒から近世大名へと転身しました。

一方、中世に筒井氏と大和の覇を競った越智氏十市古市氏は筒井氏被官として家名の存続を維持するのが精いっぱいという状況に零落し、箸尾氏や宇陀の秋山氏も筒井氏傘下の与力大名とならざるを得ませんでした。

筒井氏に反抗的な国人たちは、服従するか、粛清されるかの二者択一を迫られ、1559(永禄2)年の松永久秀による大和侵攻以来、反筒井の代表的国人であった柳生宗厳は元関白で信長と親しい近衛前久に接近することで、領地を維持していました。

その一方、元々筒井氏の被官であった松倉重信松倉右近)、中坊秀佑や筒井方国人であった島左近らは粛清された南方衆の闕所に新たに封じられ、有力者として台頭します。

そして1584(天正12)年に順慶が死去すると、養子となっていた従兄弟の小泉四郎が筒井定次を名乗って筒井氏家督を継承。

定次は出家して興福寺衆徒になることはなく、秀吉傘下の大名として大和に君臨し、筒井氏の近世大名化が完成したのです。

筒井氏の伊賀転封と大和国人の解体

定次は順慶の遺領18万石(大和16万石、河内2万石)と、自領を含めた大和国衆44万石の兵権を受け継ぐと、秀吉傘下の大名として大和国衆を率いて各地を転戦。1584(天正12)年の小牧長久手の戦いを皮切りに、1585(天正13)年の紀州征伐四国征伐で目覚ましい戦果をあげました。

しかし同年閏8月18日、近江坂本に滞在していた羽柴秀吉に呼び出された定次は、突如として伊賀への転封を命じられます。

前月に長宗我部元親を降伏させた秀吉は、本拠・大坂を中心に大和を含めた畿内近辺の直轄化を企図し、筒井氏に替わって弟の秀長を大和、和泉、紀伊3ヶ国100万石の太守として郡山城に送り込むことにしたのです。

豊臣秀長像(春岳院蔵)

筒井氏の国替えは翌19日に帰国した定次から公表されましたが、同日条の『多聞院日記』には「郡山右往左往也」とあって、突然の国替えに狼狽する筒井家中の混乱ぶりがうかがえます。

筒井家中が混乱するのも無理のないことで、定次が伊賀へ出発したのは国替えを命じられてからわずか6日後、同月24日のことでした。

定次の伊賀国替えについて、『多聞院日記』天正十三年閏八月二十二日条には「和州一國神領之處、数代國衆點役以下申懸一圓横領、毎事悪逆積故一國無残國中ヲ被追払者也、連年ノ悪行之神罰」とあり、今回の国替えは寺社領を長年横領してきた大和国衆の悪行に対する神罰であると、寺領を国衆に横領され続けた興福寺の積年の恨みがにじむ記事となっています。

この筒井氏の伊賀転封に松倉重信や中坊秀佑、森好之といった筒井氏内衆が付き従ったほか、島左近ら筒井氏の与力となっていた有力国人衆の一部も伊賀へと移っていきました。

一方、箸尾為綱片岡春之など大和に残った国人たちはそのまま秀吉の直臣となり、新たに大和の主となった秀長の与力となります。

十市の事情は複雑で、松永氏滅亡後に十市遠勝の娘・おなへを妻として布施氏から養子に入り宗家を継いだ十市新二郎は、筒井氏被官となって伊賀へ同行し、戦国期に筒井派に擁立された十市遠長十市郷に残り、秀長の与力となりました。

しかし遠長は翌1586(天正14)年10月、突如として十市郷を追われ、帰郷することなく逐電先の伊予で1593(文禄2)年9月18日に死亡します。

大和国人としての十市氏は滅亡しましたが、十市氏一族の河合氏今井町の指導者として存続し、江戸時代には今西に改姓して惣年寄筆頭として町政の一翼を担いました。

今井町・今西家住宅

また、中小国衆や有力国人の一族衆の中には現安堵町の中氏等、帰農する国衆も少なからずいました。

中家住宅

筒井氏の伊賀転封と秀長の大和入国により、大和国衆の多くが旧領から切り離された他、筒井氏という棟梁が消えた大和武士の連帯は完全に消滅したのです。

 

豊臣氏の大和支配

筒井氏に替わって大和に入った豊臣秀長は筒井氏の居城であった郡山城を居城とし、大和、和泉、紀伊100万石の中心城郭にふさわしい近世城郭として整備しました。

郡山城

現在城址公園となっている郡山城内郭は、秀長時代に現在の姿に整備されたものです。

 

また、秀長は南和に高取城、東国と畿内の結節点である宇陀に宇陀松山城を整備して、郡山城を中心とした大和支配・防衛の城郭ネットワークを構築しました。

高取城と宇陀松山城

元々高取城は越智氏の中世拠点城郭、宇陀松山城は秋山氏の詰の山城でしたが、ともに大改装が施され、総石垣造の近世城郭に生まれ変わります。

見る者を圧倒する壮麗な巨城に生まれ変わった郡山城高取城、宇陀松山城は、豊臣氏の威光を大和国内に示す象徴的な城郭となりました。

高取城には本多利久、宇陀松山城には伊藤義之(掃部)と秀長の家老や秀吉の代官が城主となり、大和の豊臣氏直轄化の拠点となったのです。

秀長による大和の豊臣氏直轄領化は、北山一揆など激しい住民蜂起が起こった紀伊に比べると、大きな混乱はなく進められました。

筒井氏を通じた織田氏羽柴氏の支配が1577(天正5)年から続いていたことも、大和国衆の大きな反発を招かなかった大きな要因だったと考えられます。

秀長が大和支配で大きく力を注いだのは、寺社勢力の抑え込みでした。

太閤検地による寺社領の確定と縮小化で中世大和の支配者であった興福寺は多くの寺領を失い、秀長が郡山城下町の振興の為、興福寺門前である奈良での商業を禁止したため奈良の町は衰退し、興福寺の経済的打撃に追い打ちをかけました。

また、多くの僧兵を抱えて中世に興福寺と並ぶ勢力を誇った多武峰妙楽寺(現談山神社)については、1585(天正13)年、全国に先駆けて刀狩を実施武装解除したうえで郡山城内に寺の移転を命じ、徹底的な無力化を図ります。

多武峰妙楽寺(現談山神社

1588(天正16)年には本尊であった大職冠尊像も郡山に遷座し、現在も大和郡山市内に大職冠、冠山町の地名を遺すことになりました。

1591(天正19)年に秀長が没し、養子の秀保も1595(文禄4)年に急死すると、大和豊臣家は無嗣断絶となります。

しかし、大和における豊臣氏直轄下の流れは継続され、同年に豊臣政権五奉行の一人、増田長盛が大和、和泉、紀伊の太閤蔵入地(豊臣直轄領)代官に任じられ、20万石で大和郡山に入りました。

また、同年に賤ヶ岳の七本鎗の一人である平野長泰田原本に5千石の領地を与えられるなど、豊臣直臣の領地が大和国内に増加し、大和直轄化の流れは加速することになります。

 

一方、秀長の大和入国以降、故地を追われる国衆もいました。

柳生宗厳は秀長統治下の時代に隠し田が摘発され、領地を没収されてしまいます。

戦国期に小規模ながらも父祖伝来の領地を固守してきた柳生氏はついに没落。宗厳は1593(文禄2)年に剃髪して石舟斎を名乗り、本格的に兵法家の道を歩むことになりました。

柳生氏一党は牢人となりましたが、すでに兵法家として高い名声を得ていた石舟斎は翌1594(文禄3)年、黒田長政の紹介で徳川家康から兵法指南役として出仕の誘いを受けます。

しかし、石舟斎は自身の仕官を謝絶し、替わりに5男の宗矩を推薦して徳川氏に仕官させました。

宗矩が徳川氏に仕えたことが、後に柳生氏の活路を開くことになります。

また、戦国期に宇陀の有力国人として十市氏と抗争した秋山氏の秋山直国は、宇陀郡一帯が太閤蔵入地となったため旧領から退去させられました。

 

伊賀の筒井氏

さて、伊賀に移った筒井定次ですが、その入国は大きな混乱から始まりました。

当時の伊賀は、前任の伊賀守護・脇坂安治が旧来の伊賀国衆をまとめることができず、十分に統治できているとは言い難い状態でした。

安治は戦場での槍働きに優れた武将でしたが、領国運営や物資調達などの内政は不得手だったようで、伊賀在国中に秀吉から材木の調達を命じられましたが、領内での調達に失敗し、「自分はこのような仕事は不得手だから前線で槍働きさせて欲しい」と秀吉に泣きついたところ、「言語道断!命令されたことをおろそかにするな!」と秀吉から叱責されたことを示す史料が近年発見されています。

安治の行政手腕が低かったことを示す史料ともされますが、当時の伊賀が容易に近世武家政権の命に服さない国であったことを示す史料ともいえるでしょう。

 

安治の統治が思うように進まない中、1581(天正9)年の天正伊賀の乱で国外に逃亡していた伊賀国衆も続々と帰国を果たし、1585(天正13)年5月に安治が摂津へ転封されると、伊賀各地で一揆が発生したのです。

定次の伊賀転封は、豊臣氏による大和直轄化により、山深い伊賀へ左遷されたとの理解が巷間広まっているかと思いますが、当時の情勢から古来より東西交通の要衝である伊賀を安定化させるべく、信頼できる武将として定次を送り込んだと見るべきでしょう。

1585年当時は小牧長久手の戦い直後で、徳川家康と秀吉のにらみ合いが続く緊迫した情勢にあり、秀吉には防衛戦略上、一刻も早く伊賀の混乱状態を治める必要がありました

大和国衆は1581(天正9)年の天正伊賀の乱、1582年(天正10)年の本能寺の変後に発生した伊賀の一揆鎮圧にも主力として参加しており、紀州征伐や四国征伐で武功を挙げた定次の力量を秀吉も認め、伊賀の鎮定に最適と考えての抜擢だったと考えられます。

筒井氏の伊賀転封は豊臣氏の大和直轄下により押し出されたという一面も確かにありますが、近世大名となった筒井氏にとっては飛躍のチャンスであり、難事業ながら定次も前向きに受け入れていたかもしれません。

 

脇坂安治の転封後に蜂起した伊賀の一揆勢は、1585(天正13)年8月、大和伊賀国境・名張川西岸にある獺瀬城(おそせじょう・現奈良県山添村遅瀬・名阪国道五月橋IC付近)に立て籠もり、伊賀へ入国しようとする定次を迎撃しました。

定次は速やかに獺瀬城の一揆勢を撃破すると、秀吉の期待に応えて伊賀国内の反抗勢力を平定。大和時代から2万石加増され、20万石の大名として伊賀に君臨します。

 

定次が伊賀入国後、支配の拠点を置いたのが上野でした。

上野は元々、伊賀守護・仁木氏の館と守護所が置かれた場所でしたが、1552年頃に成立した伊賀惣国一揆によって仁木氏が伊賀から追放されると急速に寂れ、伊賀の一寒村となります。

定次は、南山城、大和から伊勢に通ずる街道を一望できる上野に着目し、畿内防衛の前衛拠点として上野城を築城、城下町を開いて現在伊賀地方の中心都市である伊賀市中心街の礎を築きました。

伊賀上野城

上野城は三層の天守を持つ伊賀では最初の近世城郭で、単なる支配と防衛拠点であるだけでなく、自立意識の強い伊賀国衆へ豊臣政権の権威を示すモニュメントでもあったでしょう。

定次は上野を中心として、南伊賀の名張重臣松倉重信を入れた他、伊賀各所に重臣たちを配置して筒井氏による統治を広く伊賀国内にいきわたらせ、織田政権の時代から治まることのなかった伊賀をようやく近世大名の支配下に収めることを成功させました。

定次の入国によって国衆が支配する伊賀の中世は終焉したのです。

 

定次の伊賀支配が順調に進む一方で、相次いで有力家臣たちが筒井家中から去っていきました。

松倉重信名張で死去した後、跡を継いだ嫡男・重政は大和へ退去し、森好之は大和へ帰国して帰農、島左近も1590(天正18)年までには定次の下から離れ、小田原征伐では豊臣氏家臣として活躍しています。

この重臣たちの離脱は、定次の寵臣となっていた中坊秀佑の専横によるものと後世の軍記物で喧伝されましたが、同時代の一次史料では確認できず真相は不明です。

定次の伊賀入国は反秀吉の一揆勢が蜂起する中で行われたため、もともと松倉重信島左近らは定次と協力して伊賀を鎮定すべく秀吉から与力として筒井氏に付けられていたのかもしれません。

そのため、定次による伊賀支配が落ち着いた時点で、本領に復帰して箸尾氏や片岡氏と同様に秀長の与力に復帰した可能性もあるでしょう。

 

筒井氏の伊賀転封と豊臣秀長の大和入国により、多くの大和国人たちが大和を去り、国衆としての連帯は消滅していきました。

そして秀吉死後、関ヶ原の戦い大坂の陣が勃発し、大和国人たちの多くが歴史の表舞台から姿を消していくことになるのです。

 

参考文献

『筒井順慶とその一族』 籔景三 著

『史料柳生新陰流 上巻』 今村嘉雄 編