奈良県内には古代からの街道沿いに発展した宿場町が数多くあります。
今回紹介する宇陀市中心街の萩原宿もそういった町のひとつです。
場所はこちら。
大和高原南部に位置し、宇陀市の中心市街となっている場所です。
大阪と伊勢を結んだ伊勢本街道沿いには、往時を偲ばせる町並みが今も残り、散歩にぴったりの町でした。
街道の交差点・萩原
さて、萩原宿は町村合併で宇陀市となった旧榛原町の中心市街でした。
榛原という地名がこの地に名付けられたのは明治になってからで、1889(明治22)年に町村制が施行されたとき、萩原村、福地村など12村が合併して村名を榛原村(はいばらむら)としたことが始まりです。
「榛原」の名は、『日本書紀』に記された神武天皇が天地の神霊を祭ったとされる上小野榛原(かみつおのはりはら)の場所が、萩原村北西部の鳥見山にあると比定されていたことに因んで採用されました。
その後、1893(明治26)年に榛原町となり、2006(平成18)年に宇陀郡の榛原町、大宇陀町、菟田野町、室生村の4町村が合併して宇陀市が誕生すると榛原町は消滅したものの、旧榛原町域の大字表示は「榛原〇〇(大字)」となって榛原の地名は残されました。
下図は現在の榛原駅周辺の航空写真に江戸時代までの街道を記入したものです。
私も含め、非地元民は駅名から駅周辺を「榛原」と呼びがちですが、大字の萩原(現在の住居表示は榛原萩原)が中心市街となっています。
上掲写真の通り、萩原は東西に伊勢本街道が走り、町内の札の辻であを越え道(伊勢表街道)と分岐、さらに熊野や南伊勢街道と通じる松山街道とも分岐します。
また、あを越え道を東に進み、大字・福地の庚申堂の辻でさらに大和高原北部の吐山へ至る山(吐山)道に分岐し、現在の榛原駅周辺は古くから東西南北に街道が交わる交通の要衝でした。
中世以降、伊勢参詣が盛んになったことで、街道が交差する萩原は宿駅となる一方、多くの参詣客や商人が行き交うことから萩原関が置かれ、在地勢力の大きな収入源となります。
江戸時代に入り伊勢参詣がますます盛んになると、往路に御杖から伊勢奥津方面へ抜ける伊勢本街道を利用し、復路を青山、名張を抜けて萩原に至るあを越え道を利用する参詣客が多くなり、両街道の分岐点で往路も復路も通過することになる萩原は、宿駅として栄えました。
札の辻を中心に、北の長谷寺方面には上町が、南の伊勢本街道筋には新町が、東のあを越え道沿いには東町が隣村である福地まで続き、丁字型の街村を形成。この町が近代榛原中心街の直接のルーツとなります。
江戸時代に榛原の中心街一帯は、1695(元禄8)年まで宇陀松山の織田氏が支配していましたが、お家騒動で織田氏が丹波柏原へ転封されると、以後萩原は明治まで幕府天領となり奈良奉行により統治されました。
萩原の東に隣接する福地は、松山織田氏の2代当主・高長の三男・長政が、1660(万治3)年に兄で3代当主の長頼から3千石を分与されて旗本となり、その領地となって陣屋が置かれました。
福地の織田家は交代寄合、すなわち参勤交代を行う大身旗本で、次代の信明の代からは高家旗本の格式を与えられて明治まで続きます。
明治を迎え陸上交通の中心が鉄道に転換すると、大阪~伊勢間の交通は関西本線~参宮線のルートが主流となり、伊勢本街道の人流は消えて宿場町・萩原は急速に衰退しました。
しかし、1930(昭和5)年に参宮急行電鉄(現近鉄)の大阪線が延伸して榛原駅が開業すると、萩原は再び宇陀郡の玄関口としての地位を取り戻し、宇陀郡のみならず奈良県東部山間地域の中心都市として発展することになったのです。
新町界隈
それでは、早速旧街道沿いの町並みを散策しに行きましょう。
榛原駅南口からスタートです。
駅前の商店街を東に200mほど進むと、旧伊勢本街道に突き当たります。
札の辻から南へ伊勢本街道沿いに延びるのが新町。
萩原の中心市街として、近代にかけて最も早くから発展した場所でした。
こちらは登録古民家・池田家住宅。
1874(明治7)年の建築ですが、つし二階の虫籠窓に江戸時代の面影を色濃く残す町屋になっています。
街道沿いは、昭和初め頃までの住宅がまだ多く残っています。
伊勢本街道を南下すると恵比須神社の鳥居が見えてきました。
「榛原えびす」の通称で親しまれるこちらのお社は、創建年不詳ですが、1715(正徳5)年に火災で焼失していったん廃絶し、1899(明治32)年に再建されました。
現在は宇陀川対岸に鎮座する墨坂神社の境外末社となっています。
毎年2月10日に「榛原初えびす」が開催され、露店も出て大いに賑わうようです。
2020年の榛原初えびすの様子を収めた動画を見つけたのでリンクしました。
墨坂神社
伊勢本街道を南に進むと、宇陀川対岸に墨坂神社が見えてきました。
墨坂神社の正確な創建年代は不詳で、社伝よれば崇神天皇9年に疫病が国内に蔓延する中、天皇が夢に神が現れ、墨坂神を祀れとの夢告に従って創建されたとされます。
当社を創建後に疫病がおさまったとされるので、「日本最古の健康の神」と墨坂神社のHPでは紹介されていました。
最初は現在の桜井市との境にあたる西峠に祀られていましたが、1449(文安6)年に現在の位置に遷座されました。
祭神は天御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 、高皇産霊神(タカムスビノカミ) 、神皇産霊神(カンムスビノカミ) 、伊邪那岐神(イザナギノカミ) 、伊邪那美神(イザナミノカミ)、大物主神(オオモノヌシノカミ)の六柱で、総称して墨坂大神(スミサカオオカミ)と呼ばれます。
明治の初めまでは、遍照山薬王院天野寺が神宮寺を務める神仏習合の社で、六社権現と呼ばれていましたが、1871(明治)年に墨坂神社と改称されました。
2021(令和3)年に本殿の修復と新たな社殿の造営が完了したそうで、真新しく美しいお社です。
拝殿奥の本殿は、元々1844(天保15)年に建立された春日大社の本社本殿。
文久造替時に下賜されて、1864(元治元)年に当地に移築されました。
春日大社の本社、若宮の本殿は、江戸時代まで20年に一度の式年造替で旧社殿が近隣の神社に移築され、この風習を「春日移し」と言い、現在の墨坂神社本殿も春日移しで移築された社殿になります。
ちなみに明治以降、春日大社本殿は国宝指定されたために建て替えされることが無くなり、本殿の春日移しは廃れてしまいました。
ただし末社、摂社は建て替え可能なので、2016年の第60次造替で建て替えられた摂社本宮神社社殿が、京都府の笠置寺に再建された春日明神社の本殿として移築され、伝統的な風習は今も続いています。
現在の春日大社の国宝本殿は文久造替で建立されたものなので、墨坂神社の本殿は現春日大社本殿の一代前になりますが、こちらは特に文化財指定されていません。
江戸時代に建立された春日大社の移築本殿は、数が多いせいか文化財指定されてないケースが目立ちますね。
国宝の現本殿より歴史があり、春日移しの風習を伝える社殿として文化財としての価値も高いと思うんですが(苦笑)。
本殿の南東奥に龍王宮があり、水の女神として知られる罔象女神(みつはのめのかみ)が祀られています。
こんこんと御神水が湧き出しています。
説明板の内容はなんともスピリチュアル…^^;というか怪しげな通販の謳い文句のようです。(個人的には、こういうの嫌いじゃありません(笑))
「効能 当社 5万パワー(水道水の100倍)」???
「波動カードを用いて体の毒素を出し」???
など、いくつか意味がよくわからない説明が(笑)
お賽銭してから、波動水を一杯戴いてみました。
なめらかな舌触りの天然水でした。
こちらのお水は奈良県が指定する名水・やまとの水にも選定されており、古くから地元の人に親しまれてきた湧き水であることは間違いないようです。
墨坂神社から宇陀川沿いに東へ500mほどの場所にも、名水として知られる弘法大師の岩清水もあり、当社の鎮座地は豊富な伏流水が流れている場所なんでしょうね。
榛原空襲戦跡
伊勢本街道を北へ向かって引き返し、近鉄大阪線のガード下までやってきました。
ここは1945(昭和20)年7月24日、死者11名、負傷者27名と奈良県下で最大級の犠牲者を出した榛原空襲の戦跡です。
午前9時頃、通勤客で混雑する大阪方面行の電車が機銃掃射を受け、その時の弾痕が生々しくコンクリートの壁面に残されていました。
伊勢本街道の東に並走する国道369号線沿いには、1975(昭和50)年に建立された供養塔があります。
奈良県下では数少ない太平洋戦争の戦跡で、日常が一転して惨劇の舞台と化す戦争の恐ろしさを実感できる場所になっています。
付近を訪れる機会があれば是非ともお立ち寄り下さい。
榛原空襲については下記記事でも詳しくご紹介しています。
札の辻
榛原空襲の戦跡から大通りを挟んで北側に、伊勢に通じる街道にはお馴染みである大神宮の常夜灯があります。
常夜灯のすぐ北側にある三叉路が、伊勢本街道とあを越え道が分岐する札の辻です。
「札の辻」の名が示すように、江戸時代はこの場所に高札場がありました。
道標には、
右 いせ本か以(い)道
左 あをこ江(え)みち
とあります。
札の辻に建つあぶらやは、現在当地に残る唯一の江戸時代の旅籠建築です。
江戸後期から末期の建築で、明治の末頃まで旅館営業していました。
現在は宇陀市歴史文化館となっていて、内部も無料で見学可能です。
ただ訪問した日は休館日で内部見学ならず。
火曜なら開いてるだろうと高をくくってきたのが間違いでした(泣)これは再訪せねば。
■基本情報
・開館時間 10:00~16:00
・休館日 毎週月、火(祝日の場合は開館し、翌日休館)、12月15日~1月15日
・駐車場なし
上町~墨坂伝承地
札の辻から北は上町で、初瀬へ続く街道が伸びています。
伊勢本街道の大きな看板。
2つ目の大きな看板の北側で道が分岐しますが、伊勢本街道はここで西に折れます。
分岐する辻に建つ民家の中に「墨坂伝承地道」の道標がありました。
塀で隠れてて、ちょっと見えないかも。。。
下記ルートで墨坂伝承地を目指します。
10分足らずで墨坂伝承地の碑にやってきました。
現在石碑以外、往時の痕跡を示すものは何もありませんが、墨坂神社が最初に創建されたのがこの辺りと推定されています。
さて、墨坂の名の由来は、神武東征の故事に因みます。
大和へ侵攻した即位前の神武天皇は、生駒山で長髄彦の抵抗に遭って撃退されると、転進して熊野から宇陀に入り、東から奈良盆地を目指します。
この時、長髄彦の軍は墨坂に展開し、山を焼いて防戦しましたが、神武天皇は宇陀川(菟田野川)の水で鎮火して、敵の不意を衝き勝利を収めました。
長髄彦軍の山を焼く戦術を「いこり炭」といい、そこから墨坂と名付けられたと伝えられます。
墨坂での激戦を制した神武天皇は、西峠を越えて桜井へ進軍し、大和を支配していた饒速日(ニギハヤヒ)を降し、橿原の地で即位しました。
また、墨坂は壬申の乱でもその名が現れます。
大海人皇子方として飛鳥で挙兵した大伴吹負は乃楽山(平城山・現奈良市)で近江朝・大友皇子方の軍に大敗しますが、再起を図って撤退し、不破関(関ヶ原)から派遣された援軍と合流したのが墨坂です。
墨坂から反転攻勢に出た吹負は、当麻の戦い、箸墓の戦いで近江朝軍を撃破し、大和は大海人皇子方によって制圧され、壬申の乱における大海人皇子方の優勢がほぼ確定しました。
この二つの戦いからも、榛原駅を中心とするエリアが軍事上の要衝であったことが分かります。
江戸時代、宇陀松山の織田氏が丹波柏原へ転封された後、幕府が直轄化したのも納得ですね。
東町~金平稲荷神社
札の辻から東へあを越え道(伊勢表街道)を進みます。
あを越え道は、名張に向かう道で、現在の近鉄大阪線は榛原からはこの旧街道に沿って設置されました。
現在の中心市街から少し離れているためか、伊勢本街道沿いよりこちらの方が古い町屋が多く、旧街道沿いの雰囲気が色濃く残されている印象です。
煙出しのある立派な町屋です。
登録古民家・奥田家住宅が見えてきました。
明治の初め頃の建築。二階の大きな窓が明治以降の建築の特徴です。
旅籠を除いて江戸時代の街道に面する町屋の二階は、武士の頭上を見下ろすことが無いよう、階下を覗けるような大きな窓の設置が原則禁じられていました。
そのため、窓があっても虫籠窓のように下を覗けない構造になっていたのですが、明治以降は四民平等の世となって規制がなくなり、二階にも広い窓が設けられるようになります。
東町の東端、ちょうど福地集落との境界付近に鎮座する金平稲荷神社。
朱塗りの鳥居が鮮やかですね。
創建は約250年前とのことで江戸時代の18世紀と、比較的新しいお社です。
神社前の掲示板によると、諸国を漫遊していた武士が当地に宿泊した際に霊感に打たれ、土地の者に神社を創建するよう勧めて建立されたとのこと。
街道に面した小山の中腹に境内があります。
こちらがご本殿。
本殿の他、不動明王堂、庚申堂、地蔵堂など仏教の堂もあり、神仏習合の旧態を遺す神社です。
境内からの見晴らしは抜群で、かつての宿場町を一望できます。
椋下神社~庚申堂の辻
あを越え道を東に進むと、福地の集落の入り口に椋下神社(むくもとじんじゃ)の鳥居が見えてきました。
ご祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)。
高倉下は、熊野上陸時に毒気に当たって気を失った神武天皇に横剣を献上してその危機を救った人物とされています。
神社の創建年は不詳ですが、705(慶雲2)年に文武天皇が神武東征における高倉下の功を賞して創建されたと伝えられています。
ちなみに社名の「椋下」については、「くらげ」「むくした」など諸説あり、先に記載した「むくもと」は現在神社前に建つ掲示板の読みです。
もとは現社地から1キロほど東、宇陀川左岸の福地岳山中に鎮座していたとされ、近世以前に現社地へ遷座されたとのことで、天保六(1835)年、嘉永六(1853)年の棟札が残されていることから、江戸末期には現在の社地に鎮座していたと考えてよいでしょう。
こちらの神社も、墨坂神社と同様に神武東征に所縁のある神社となっています。
本殿は切り立った崖の上にあります。
社殿は伊勢神宮と同じ神明造。
こちらは境内の地蔵堂。
江戸時代までは桜嶋寺という神宮寺があり、文政(1818~1831年)の終わり頃に廃寺となりましたが、本尊であった地蔵菩薩像がこちらの地蔵堂に安置されています。
椋下神社から再び街道に戻り、伊勢方面へ向かいます。
緩やかに折れる道筋が絵になる道。
歩いていてカーブで先が見えないところが、わくわく感を高めてくれるポイントです。
あを越え道と山(吐山)道の分岐である庚申堂の辻に到着しました。
この辻を右に折れると名張、伊勢方面、左に進むと大和高原の都祁・吐山(現奈良市)へと通じます。
庚申堂の辻にはお地蔵さんと常夜灯もありました。
庚申堂の辻にある小さな道標。
右 いせ
左 は山道
とありました。
今回初めて榛原駅周辺の旧街道沿いを散策してみましたが、建物の建て替えが進んでおり旧街道の風情を残す場所は、東町から福地に至るエリアのごく一部となって市の、市の資料館となっている「あぶらや」の建物以外は、遠からず姿を消してしまうかもしれません。
すっかり近鉄沿線の「新興住宅地」となってしまい、かつての宿場町の風情は消えつつありますが、伊勢と奈良、京都、大阪をつなぐ伊勢本街道の宿場町だった痕跡が一つでも多く、末永く伝えられていくことを願います。