大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

安産祈願の帯解地蔵と貴重な和算の算額・帯解界隈を歩く~上街道散歩(10)

飛鳥時代に設けられた奈良と桜井を結ぶ古代官道をルーツに持ち、中世から近世にかけて大和国の南北を結ぶ主要幹線だった上街道

その周辺には、古代からの長い歴史の中で生まれた数多くの旧跡があります。

上街道沿いには旧跡が集まるスポットがいくつかありますが、JR帯解駅周辺もその一つで、前回は中世城郭の今市城を紹介しました。

今回は上街道と五ヶ谷街道の交差点付近を中心に、安産祈願のお地蔵様で有名な帯解寺、龍伝説とこちらも安産祈願のお地蔵様で信仰を集める龍象寺、そして江戸時代の貴重な算額が奉納されている円満寺を巡ります。

帯解周辺図(国土地理院HPより作成)

JR帯解駅

帯解の散策で玄関口となるのがJR帯解駅

実は早くもこの駅自体が、帯解地域の見所の一つとなります。

 

帯解駅は1898(明治31)年、奈良鉄道(現在のJR奈良線、万葉まほろば(桜井)線の奈良~桜井間を敷設した私鉄)が、京終~桜井間を開通させたときに開業しました。

現在の駅舎は開業当時の建物で、明治時代建造の貴重な現存私鉄駅舎であることが評価され、2022(令和4)年6月に国の有形登録文化財に指定されています。

万葉まほろば線は、当駅以外にも京終駅柳本駅、三輪駅といった駅前の町並みと共にノスタルジーに浸れるレトロ駅舎が残る路線ですね。

 

駅舎内はJR西日本無人駅仕様になってますが、窓口や改札跡に旧国鉄の香りを感じます。

万葉まほろば線は今市台地を350mほど掘り崩して線路が敷設されているのですが、ホームから奈良側方面(北側)を見ると、その様子がよくわかります。

帯解駅も敷地の半分以上は堀切の底にありますが、重機のない19世紀末に台地を350mも掘り崩すというのは、かなりの難工事だったことでしょうね。

 

上街道・五ヶ谷街道交差点

駅から北東方向にある上街道と五ヶ谷街道の交差点にやってきました。

交差点は東西に延びる今市台地の上にあり、写真奥(北)側が台地の縁で、2mほど急激に低くなっています。

五ヶ谷街道は名張街道とも呼ばれ、五ヶ谷から福住を越え、最終的に笠間峠を経て伊賀の赤目・名張へと通じていました。

奈良から名張への最短ルートでもあり、もしかすると名張・赤目の極楽寺で作られる東大寺修二会のお松明は、徒歩で運ばれていたころはこちらのルートを利用して運ばれていたのかもしれないな、などとしばし妄想します。

今では近隣住民の生活道路となっている五ヶ谷街道ですが、中世から近世にかけては重要な街道として機能していました。

戦国時代、五ヶ谷には椿尾上城、高樋城といった筒井氏の五ヶ谷城砦群が構築され、国外勢力が大和へ侵攻した際には、筒井氏は防衛力の低い本拠筒井城を捨て、椿尾上城やさらに東奥の福住に拠点を移して抵抗することを常套手段としていました。

その際に東山中から奈良盆地や南都・奈良へ反転攻勢をかける橋頭保となったのが、帯解近辺の今市城、窪之庄城といった五ヶ谷街道沿いの城郭で、筒井氏にとってこの街道は戦略上重要な街道だったのです。

近世に入ってからも、上街道沿いの奈良盆地東部には伊勢・藤堂家の広大な領土・城和領が広がっており、大和・山城の藤堂家領を統括する代官所が置かれた古市や、櫟本、丹波市、桜井といった奈良盆地東部の宿駅と伊勢・伊賀との人や物の往来が盛んで、五ヶ谷街道は大和と伊賀、伊勢を結ぶ主要幹線の一つとして機能していたのです。

 

現在の上街道、五ヶ谷街道は地域の生活道路や、混雑する国道からの抜け道として意外と自動車の往来も多い道路となっています。

上街道・五ケ谷街道沿いの町並み

かつての街村の町並みを思わせる古い町屋が散見されます。

 

帯解寺

五ヶ谷街道との交差点から上街道を北に向かうとすぐに、安産祈願で有名な華厳宗寺院・帯解寺が見えてきます。

ご本尊は地蔵菩薩であることから、帯解地蔵、地蔵院とも呼ばれた帯解寺は、元は大安寺別当空海の師ともされる勤操大徳が開いた霊松庵という寺院がルーツとされ、寺伝によると文徳天皇の皇后が当寺の地蔵尊に祈願したところ子宝に恵まれたことから、858(天安2)年に文徳天皇がこれを賞して伽藍を整備し、「帯解寺」の寺号を授けたのが始まりとされます。

正確な創建年は不明ながら、本尊の木造地蔵菩薩半跏像(国指定重要文化財)が鎌倉時代の作であり、1482(文明14)年の刻印がある書院の瓦が伝えられ、『大乗院寺社雑事記』などに「帯解」の地名が散見されるなど、中世までは確実に遡れる歴史ある寺院です。

寺伝では1180(治承4)年の平重衡による南都焼討や1567(永禄10)年の東大寺大仏殿の戦いで焼き討ちにされたとも伝えられますが、平家の南都焼討で焼亡したエリアは元興寺の手前付近とされており、松永久秀三好三人衆筒井順慶との戦いで大仏殿が焼けた際も、東大寺興福寺近辺の寺院以外が焼かれた記録はないため、史実としての信憑性には疑問符がつきます。

しかし、戦国期に帯解寺のある今市は幾度も戦場となっているため、戦災で荒廃していた可能性は十分にあり、『多聞院日記』には1570(元亀元)年5月5日に、帯解の地蔵が修理されたとの記述(「オヒトキノ地蔵幷被修理了」)が残されています。

帯解寺が本格的に興隆するのは江戸時代の初め、徳川秀忠の正妻・江が帯解地蔵に祈願して3代将軍・家光を授かり、次代の家綱も当寺に祈願して誕生したことから家光から仏像仏具の寄進を受け、家綱からも手水鉢の寄進を受けるなど、安産祈願の地蔵尊として広く知られるようになりました。

 

下図は1791(寛政3)年出版の『大和名所図会』に描かれた帯解寺の様子です。

『大日本名所図会 第1輯 第3編 大和名所図会巻二 帯解地蔵』(国立国会図書館蔵)

ほぼ現在の伽藍どおりですが、江戸時代には境内に池があったようです。

また、門前の上街道沿いには商家が建ち並び、街道を行き交う人々の多さから往時の賑わいがうかがえます。

境内右(北)側に流れる地蔵院川は、現在同様に帯解寺の前で大きく蛇行しています。

地蔵院川の「地蔵院」はたぶん帯解寺のことなんでしょう。帯解近辺では町の北側を流れるので北川とも呼ばれているようです。

 

その後、明治の廃仏毀釈の荒波を乗り越えた帯解寺は、戦後、美智子上皇后に始まり、雅子皇后の他、紀子秋篠宮妃ら皇室関係の安産祈願が相次いで行われたことで、安産祈願の寺として一躍有名となりました。

 

こちらは現在の惣門。

江戸時代中期の棟門とされます。

こちらは本堂。

1854(嘉永7/安政元)年7月の伊賀上野地震で、江戸時代まで本堂が倒壊し、現在の本堂は1858(安政5)年に再建されたものです。

境内は見学自由ですが、本堂を拝観する場合は受付で拝観料を収めると、堂内に案内してもらえます。

ただし、戌の日など安産祈願の繁忙日は堂内拝観できない場合もありますので、注意が必要ですね。

※堂内は撮影不可ですが、ご本尊の地蔵菩薩半跏像など、帯解寺についてまとめた動画がありましたので、リンクしておきます。

なかなか味わい深いお地蔵さんなので、関心のある方は是非一度ご覧ください。

 

境内南側の不動堂

波切不動尊がお祀りされています。

 

鐘楼と本堂前のお地蔵さん。

鐘楼の鐘は、戦中に供出で一度失われ、戦後新たに鋳造されたものです。

 

境内の十三重石塔水子地蔵、稲荷社は近代以降に造立されたものです。

境内の建物は江戸時代から近代にかけて建立されたものが中心ですが、庫裏の書院は室町時代の建築が一部残っているとのこと。

訪れたのは特に行事のない平日の朝で、私以外参拝している方は見かけませんでしたが、毎月の戌の日や毎年3月と11月に開催される秘仏開帳期間は安産祈願で多くの参拝者で賑わいます。

 

龍象寺

帯解寺から上街道を200mほど南下すると、高野山真言宗寺院の龍象寺があります。

寺伝によると当寺は旧広大寺(廃寺)の奥の院で、聖武天皇の勅願により730(天平2)年行基によって開創されたと伝わります。

ちなみに広大寺は飛鳥時代聖徳太子により開かれたとする伝承のみが残る謎の古代寺院で、その実像は全く分かっていません。

その後の寺歴は定かではありませんが、享保年間(1716~1736年)に臨済宗の画僧としても名高い百拙元養により再興されました。

江戸時代は新規に寺院を立ち上げることは基本的に許可されなかったので、おそらく百拙が事実上の開山と考えてよいでしょう。

百拙が入寺してからは長らく臨済宗寺院でしたが、近年は住職の交代で高野山真言宗の寺院になっています。

 

ご本尊は帯解寺と同じ木造地蔵菩薩半跏像で、寄木造であることや作風から平安時代の作と見られています。

そして当寺の本尊もまた帯解子安地蔵尊として知られ、近世以前から安産祈願のお地蔵様として信仰を集めてきました。

帯解寺の方は「日本最古の安産祈願所」と打ち出していますが、龍象寺も「日本第一帯解子安地蔵尊」を前面に押し出し、五ヶ谷街道を挟んで静かながらも「我こそは帯解地蔵の元祖」といったバチバチの対抗心を感じます(苦笑)

ちなみに当寺のホームページには「安産・子授けの最古の霊刹」とあり、昭和の初め頃までの地図には、龍象寺の位置に「帯解地蔵」と書かれているとアピールされていました。

実際に1920年代の国土地理院地形図を確認すると、たしかに現在の龍象寺の位置に「帯解地蔵」と書かれています。

1920年代の帯解周辺地形図(国土地理院地形図より)

現在では帯解の子安地蔵といえば帯解寺の知名度が高くなっていますが、昭和の初め頃までは龍象寺の地蔵尊も帯解地蔵として広く認知されていた証左と言えるでしょう。

 

ところで、龍象寺門前の坂の名前が「正木坂」となっているのに帰宅後気付きました。

正木坂って柳生・芳徳寺門前の坂の名前じゃないの?と訝しく思って調べてみると、現在の龍象寺の北側民有地内(旧境内)に柳生十兵衛の墓と伝わる五輪塔が残っていると、『大和の伝説』に載っておりました。

かつて当地は柳生領で、柳生十兵衛は龍象寺で病死して当地に葬られたと伝わるとのこと。

柳生十兵衛は1650(慶安3)年に44歳で急死しますが、死因不明の不審死で『徳川実紀』や柳生藩の正史『玉栄拾遺』では南山城村、『寛政重修諸家譜』では柳生で死んだと亡くなった場所についても史書の記述にぶれがあり、その最期に謎が多い人物です。

柳生氏は十兵衛の時代に父・宗矩の領地を弟・宗冬と分割相続して1万石を割り込んで旗本となっていました。

宗矩の死後僅か4年で急死し、その後宗冬がいったん領地返上の上、柳生氏の旧領をすべて相続したことを考えると、表の歴史には残せない陰謀の匂いが漂わないこともありません。

十兵衛の墓と伝わる五輪塔は現在民家内にあるらしいのですが、動かすと祟りがあるとも伝わっており、何らかの無念を残して亡くなったと人々に認識されていたことが考えられます。

その疑惑の残る死の記憶を伝えている、もしくは後世の人が疑惑を感じてそのような伝承が残ったのかもしれませんね。

 

さて、こちらは表門です。

こちらの門は元々伊勢・藤堂家の城和領を統括した古市代官所の陣屋門で、明治に帯解小学校の校門として移築されていましたが、1955(昭和30)年に再度当寺の表門として移築されました。

江戸時代の陣屋門遺構として貴重な建築です。

 

こちらが本堂。

永禄年間の松永久秀による大和侵攻で兵火にあい、伽藍の大半は焼失しましたが本堂と開山堂だけが焼け残ったとされます。

建築年代は不明ですが、柱や屋根の装飾、構造から古くても安土桃山から江戸初期あたりの建物かなという印象です。

本堂の天井には狩野春甫(江村春甫)による帯解龍王の図が描かれています。

狩野春甫は京狩野の流れを組む絵師で、1790(寛政2)年の禁裏造営で障壁画制作に参加したことで知られ、龍象寺天井画の龍も狩野派らしいダイナミックな筆致で描かれています。

帯解龍王は、伝承によると龍象寺の境内西側に広がる広大寺池の主で、時々池から出ては近在の村人を襲って食べていました。

ついに村人たちは龍退治に乗り出しますが龍が姿を現しません。

困った村人たちの前に旅の武士が現れて合力すると池の中央に矢を射ました。

すると池の中から龍が現れ天に向かって逃れようとしたので、武士は刀を抜いて龍に組み付くと、龍と一緒に天に昇っていきました。

しばらくすると大きな雷鳴と共に赤い血の雨が降り、バラバラになった龍の死骸が落下してきて、旅の武士はそのまま姿を消しました。

旅の武士は春日明神の化身で、困った村人たちのために龍を退治したのだとされ、落下してきた龍の死骸を埋葬して、その地に建立されたのが龍象寺であるというのが、龍象寺の建立伝承になります。

また、春甫の龍図にも広大寺池に水を飲みにいくため、夜な夜な絵から抜け出していたという伝承も残されています。

 

本堂前に掲げられた扁額は、中興開山・百拙の書で、もともと表門に掲げられていたようです。

今回初めて帯解周辺を歩いてみましたが、由緒も寺歴も全く異なる安産祈願の子安地蔵が本尊の寺院が二つもあるというのは新たな発見でした。

 

八坂神社・円満寺

さて、上街道から五ヶ谷街道沿いに東へ進むと、1939(昭和14)年に建立された八坂神社の石鳥居が見えてきます。

鳥居の先に川はありませんが石橋があります。

もともと石鳥居の前に流れていたイタチ川に架けられていた旧萬歳橋になります。

 

境内はかなり広く、隣接する円満寺とほぼ一体化していますね。

こちらがご本殿。

祭神は素戔嗚命になります。

江戸時代までは祇園社と呼ばれ、牛頭天王が祀られていました。

「牛頭天皇」と刻まれた石灯籠に、神仏習合の面影が残されています。

 

八坂神社社殿と相対しているのが、真言宗寺院・円満寺の庚申堂です。

正確な創建年は不詳ですが、寺伝によれば奈良時代の千眼上人の開基とのことですが、千眼なる僧について調べましたが分かりませんでした。

本尊は木造の青面金剛立像で、庫裏の庭には室町時代から江戸初期の五輪塔が集められており、寺宝にも桃山時代の金剛盤や五鈷杵があるそうなので、中世末から近世には祇園社の神宮寺として存在していた思われます。

 

こちらのお堂で見所なのが、なんといっても軒下に掛けられている和算算額です。

日本における数学は中世まで中国から伝わった算道を家業とする公家の秘伝となって、広く世に知られることがありませんでしたが、江戸時代になると徐々に民間に広がりを見せ、17世紀後半に活躍した関孝和代数による高次方程式の計算方法を独自に発明して公開したことから、日本独自の数学・和算は飛躍的に発展しました。

18世紀になると和算は一般大衆の娯楽としても盛んになり、和算の問題や答えを記した算額を神社仏閣に奉納する風習が広がります。

円満寺算額は1844(天保15)年に「当村(旧山村か?)源治郎」もより奉納されました。

算額は全国に残されていますが、東日本に多く、奈良県内には現在5つしか残されていないので、こちらの算額はそのうちの貴重な一つになります。

 

円満寺算額には3つの幾何学の問題が書かれていますが、算数が苦手な私は、右側の問題しか解法が分かりませんでした(苦笑)。

一辺6尺の正三角形の中に図のように正六角形があるとき、正六角形の一辺は何尺になるかを問われた問題で答えは2尺。

どうして2尺になるかぜひ考えてみてください。

ちょっとした頭の体操に、たまに算数の問題するのもいいものだなあと思いました(笑)

 

八坂神社のすぐ東側に街道の分岐がありました。

左 山村御殿

右 五ヶ谷道

とあります。

山村御殿とは圓照寺のことで、歴代の住持を皇女が務めたため山村御所とも呼ばれました。(ちなみに圓照寺は境内拝観は不可のため、参道から山門の前までしか入ることができません。)

 

右の五ヶ谷街道を進むと、中世城郭の窪之庄城と環濠集落に至ります。

次回は窪之庄城と窪之庄環濠集落をご紹介します。

 

参考文献

『帯解町郷土誌 第2版』広瀬広仲 編集

『奈良市史 社寺編』

『史迹と美術 33(10)(340)』史迹美術同攷会

『大和の伝説 増補版』高田十郎 等編