皆さんこんにちは。
奈良県平群町は生駒山地と矢田丘陵に挟まれた谷間の町ですが、中世以来の城跡が多く残されている町です。
町内で最も有名な城跡は、松永久秀が大和侵攻の拠点とした信貴山城ですが、その他の城跡は文献資料に乏しく、城郭遺構が残されているものの、城主ばかりか城の名前も定かでない城跡がほとんどです。
町内南東部にある椿井城も、そういった城跡の一つになります。
椿井城とは
椿井城の場所はこちら。
矢田丘陵の南西に突き出した尾根の上に築かれた山城です。
四条畷(大阪府四条畷市)から竜田(奈良県斑鳩町)を結んだ清滝街道(現国道168号線とほぼ並走)と、平等寺で清滝街道から西に分かれ東の松尾寺・大和郡山方面へ抜ける街道を見下ろす位置に、南北二つの曲輪群が約250mにわたって築かれました。
地図で見ると清滝街道と矢田丘陵を横切って東に抜ける街道を共に抑える要所に築かれていたことが分かります。
また、生駒山地を十三峠で越えて河内と大和を結んだ十三街道(業平道)も椿井付近で清滝街道と合流するため、いわゆる交通の要衝に築かれた山城でした。
こちらは城跡南副郭の説明版に掲示された縄張図。
北曲輪群の方が南曲輪群に比べて規模も大きく、構造も複雑ですが、それが築城年代や築城者の違いによるものなのかは、現在わかっていません。
椿井城は文献資料から特定されていない城跡で、誰の城だったか、同時代に呼称されていた名すら現在不明の城郭で、城跡の所在する大字からその名がとられています。
築城年代については、近年の発掘成果で南曲輪から15世紀の遺物と16世紀の建物礎石が発掘されていることから、15世紀に築城が始まり、16世紀中ごろから後半にかけて南曲輪及び北曲輪に大規模造成が行われたものと考えられています。
城主については中世初期に当地を治めた椿井氏が築城したとも、戦国期に筒井順慶、石田三成に仕えた島左近の居城だったとも伝わりますが、同時代史料での裏付けがありません。
城の構造については竪堀が東側斜面に設けられており、本城は信貴山城のある西側ではなく、東側からの迎撃を意識した造りになっていることが明らかで、「島左近が信貴山城の松永久秀と対峙するため城だった」とする説は、近年否定されてきているようです。
むしろ東側を防御正面としている構造から、筒井方による矢田丘陵越えでの平群谷侵攻に対する備えとして、松永方が北曲輪を中心に改修を加えたとする説も有力になってきています。
立地や築城年代を考えると、椿井氏、島(嶋)氏といった現地勢力だけでなく、畠山氏や木沢長政らによる関与も考えられ、非常にミステリアスな城郭と言えるでしょう。
山麓~登城口
山麓から椿井城を目指します。
椿井城の麓を南北に通る清滝街道沿いには、地蔵尊や古い道標など、古街道ならではの情景が随所に見られます。


旧清滝街道の椿井城周辺や竜田川駅からは、椿井城への誘導看板がいくつも設けられています。
なので、全く土地勘のない方でも安心して入城口まで進むことができるかと思います。
椿井集落の西入口にある椿井線刻石仏。
お参りした人々が撫でたため、摩耗が激しく元々の像容、とくに東部周辺が非常にわかりにくくなっていますが、地元では「弥勒」と呼んで信仰されているとのこと。
こちらの石仏のある場所から城跡を目指して坂を上っていきます。
入城口の手前に椿井の名の由来となった井戸があります。
聖徳太子の物部守屋討伐に従軍した将軍・平群神手が、領地であったこの地に戦勝を祈願して椿の杖を突いたところ水が沸きだし、守屋討伐に苦戦する中、瑞祥として太子とともにこの井戸の水を飲んで、軍の士気を鼓舞したと伝わる井戸。
現在もこんこんと水が湧き出していました。
椿井井戸から坂を上ってすぐの場所に登城口があります。
平群町のマスコットキャラ「左近くん」がお出迎え。
こちらへは最寄り駅である近鉄生駒線の竜田川駅から、おおよそ15分くらいで到着できる距離になります。
椿井春日神社境内
椿井井戸の入城口から北に向かって春日神社境内に入りました。
神社境内の北側に椿井城に通じる道があり、こちらがもとの大手口だったとされています。
上ると、ちょうど北曲輪群と南曲輪群の間の尾根筋に到達します。
境内北西には宮山塚古墳が隣接します。
築造年代は5世紀後半と推定され、近畿地方では導入段階とされる複雑な構造の横穴式石室を持ち、これが完存している点で貴重な古墳とされます。
この古墳は椿井城の施設として取り込まれ、墳丘の頂部が平坦にされたうえで墳丘全体が方形に加工されており、墳丘北東には土塁が築かれました。
大手口を守るための楼台として使われていたのかもしれないですね。
城内
椿井井戸の入り口から登山道を上り始めてすぐに宮裏山古墳があります。
6世紀後半から7世紀初頭に築造された横穴式石室の古墳です。
平群谷は城跡だけでなく、多くの古墳が残されていることでも知られますが、椿井城は城域に二つの古墳が存在しています。
城跡への登山道はおおよそ整備されていますが、倒木などが一部あります。


入り口から30分ほど歩くと視界が開け、尾根道に到達しました。
ここまでくればもう城跡は目の前です。
土橋
尾根道を進むと、南副郭の手前で堀切と土橋が姿を現しました。
土橋の上から西側を覗くと、深い堀切の先に平群町清掃センターから白石畑集落へ通じる道路が見えます。
土橋は尾根筋からやや斜めに傾いて設けられており、副郭側から横矢を掛ける工夫が見られます。
土橋は幅が狭く、歩けるスペースは1mないかと思います。
濡れてると非常に滑りやすそうですね。
南副郭
椿井城跡の幟旗がたなびく南副郭。
南曲輪群の主郭から堀切で遮断された郭です。
一方、東側は木々が生い茂り視界が開けていませんが、切岸により急峻な崖となっています。
堀を挟んで北側に南曲輪群の主郭が見えます。
かつては木橋で接続されていたと見られます。
堀切
南曲輪群の主郭と副郭は巨大な堀切で遮断されています。
落ち葉で足が滑りそうになりながら、恐る恐るロープを伝って堀底に下りていきます。
堀の下までは3~4mはあるでしょうか。
堀底に入るとその巨大さが改めてわかる堀切です。
南主郭
巨大な堀切をよじ登り、南主郭に入ります。
南曲輪群で最も高い場所にあり、見晴らし抜群!
主郭、副郭ともに30~40m四方ほどの広さで、領主が屋敷地とするにはやや狭いかなという印象です。
麓の椿井集落に城垣内という小字が清滝街道沿いにあるのですが、字名から領主の平時の館はその周辺にあり、戦時の詰城として築造された蓋然性は、15世紀ごろの山城の性質を考えると十分にありうる話です。
堀切越しに南にある副郭が見えますが、上から見ると結構高い感じがしますね。
南端の土塁跡。
南副郭からの侵入を意識して築かれたものでしょう。
こちらは主郭東側の石垣。
この時期の石垣は近世城郭の高石垣とは違い、土塁などの盛土が崩れるのを防ぐために用いられていたと見られますので、この市に土塁もしくは石塁が築かれていたのかもしれないですね。
現在の椿井城跡からは、竪堀や土塁の位置が、城跡の南側、東側に集中しているので、西側の信貴山城よりも、東側、斑鳩町、大和郡山方面からの攻撃に備えた造りになっています。
城郭は15世紀から順次拡張・改修が進められたと考えますが、城跡の現況を見る限り、戦国末期16世紀後半の大規模な拡張・改修は、やはり筒井方の侵攻を防ぐために松永方により行われたのではないかと考えてしまいますね。
ちなみに、島氏は実は松永方であったという説もあります。
『二条宴乗記』という興福寺の記録で1569(永禄12)年正月から2月の条で、島氏が松永久秀の配下であることを示唆する記述があり、もしこの時点で島氏が松永方であったなら、平群谷を支配した島氏が松永久秀の指示の下、対筒井の拠点として椿井城を拡張・改修したという旧来のイメージを覆すようなことも考えられます。
南主郭の北端切岸をくぐって北曲輪群に向かうと、途中で通行止めになっていました。
2023年2月現在、北曲輪は今後の発掘調査と城跡整備のため遺跡保存の観点から当面の間立ち入り禁止になっています。
その全貌がまだまだ明らかになっていない城跡ですので、調査の進行と城跡整備が待たれますね。
何より、調査が進まないと、規模も大きく、複雑な構造で見どころ満載の北曲輪群への立ち入りができませんので、筆者としては一刻も早く進めてほしい!と願ってます。
戦国末期の筒井順慶と松永久秀による抗争の最前線にあった城郭だけに、どんな新たな発見があるか楽しみの尽きない城跡です。
周辺情報
■道の駅・大和路へぐり
椿井城の直下にある道の駅です。
名物はなんといっても平群名産のいちご・古都華でしょう。
1~4月ごろが古都華のシーズンになりますが、この時期限定でレストラン内で提供される古都華パフェが人気です。
椿井城や平群町周辺の城跡めぐりをした後の休憩にもピッタリの場所です。
■信貴山城
木沢長政が築城し、松永久秀が拡張した大和侵攻の拠点城郭。
広大な曲輪群と巨大な切岸が見どころのお城です。
■平群中央公園
平群谷を治めた島氏との関連が示唆される下垣内城、西宮城という二つの城郭遺構が残されている公園です。
両城は椿井城と並んで『大乗院寺社雑事記』などに登場する島氏の拠点城郭「嶋城」の可能性がある城ですが、こちらも文献資料に乏しく、謎に包まれた城跡。
参考文献
『日本城郭全集 第9 (大阪・和歌山・奈良編)』
リンク
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