大和徒然草子

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筒井氏の戦国期拠点城郭・椿尾上城~奈良県下屈指の中世石垣遺構を残す城

皆さんこんにちは。

 

奈良県内で山城といえば、高取城信貴山、あるいは奈良盆地一望の絶景で知られる龍王山城が有名です。

これらの城以外にも、県内には多くの山城が存在しますが、その中でも中世城郭としては県内で最も石垣を多用し、規模も大きな城郭ながら、文化財指定もされず一般にはほとんど知られていない城郭が、今回ご紹介する椿尾上城です。

 

椿尾上城とは

椿尾上城は、中世の大和国内で中心的な活躍を見せた国人・筒井氏の山城です。

場所はこちらで、名阪国道の五ヶ谷ICから北へ2Kmほどの場所になります。

筒井氏が本拠とした奈良盆地筒井城からは、東へ約10kmの東山中にあり、五ヶ谷の北側山稜のピークである城山山頂(528m)付近に築かれました。

 

椿尾上城から南西に直線で1.4kmほどの場所には椿尾下城があります。

椿尾上城と下城(国土地理院HPより作成)

椿尾下城は在地の国人・椿尾氏の居城とされ、元々下市氏に属していましたが、下市氏が没落した後は筒井氏と行動を共にするようになります。

椿尾上城の前衛陣地の役割を果たしていたと考えられ、一般に椿尾城と呼ぶときは、椿尾上城を指します。

 

椿尾上城の史料上の初見は『享禄四年記』正月十七日の条で、筒井順興が「椿尾城」を構えていたという記述があり、これに先立つ1529(享禄2)年に柳本賢治が大和に侵攻した際に順興は東山中へ逃れており、この頃には戦時の臨時的な詰め城として築城されていたのかもしれません。

椿尾上城が大規模化するのは順興の子・順昭の時代で1546(天文16)年に薬師寺へ「山之城普請」のため人夫を出すよう命じた文書が残っており、この頃、大規模な拡張改修が行われたようです。

注目すべきは、大改修に先立つこと6年前の1540(天文10)年に、薬師寺が順昭へ使者を送っているのですが、この行き先が筒井城(「筒井平城」)ではなく、椿尾上城(「山之城」)であった点で、同年、順昭による文書の発給が同じく椿尾上城(「筒井山城」)で行われていたことを示す史料(『享禄天文之記』)が見られることです。

これらの事例は、椿尾上城が戦時の臨時的な軍事施設ではなく、筒井氏の領主居館と政庁、軍事拠点が一体化した「戦国期拠点城郭」として機能していたことを示すものと考えられます。

 

この時期は、1536(天文5)年に始まる木沢長政による大和侵攻によって、大和国内の戦乱が激化した時期で、同時期には十市遠忠が平城の十市から山城の龍王山城へ拠点を移していることから、順昭もそれと同様に元は詰め城だった椿尾上城を拠点城郭化したと考えて差し支えないでしょう。

 

中世、領主の居館・政庁と戦時の要塞は別に設けるのが当たり前でしたが、戦国の争乱が激しくなるにつれ、領主の居館・政庁と軍事拠点が一体化した城郭が全国的に出現しました。

このような城郭は「戦国期拠点城郭」と呼ばれ、中世城郭から安土城を嚆矢とする近世城郭への過渡期を示す城郭で、著名な城郭としては越後長尾(上杉)氏の春日山城、近江浅井氏の小谷城などがあります。

奈良県内では、松永氏の信貴山城、十市氏の龍王山城、越智氏の高取城が該当しますが、椿尾上城も文献史料などから戦国期拠点城郭であった可能性が高く、奈良県の城郭史上、大変重要な位置づけをもつ城郭であると言えるでしょう。

 

さて、椿尾上城は一見すると、本城であった筒井城から遠く離れた山奥で、どうしてこの地を拠点に選んだのかと考える向きもあるかと思います。

実は椿尾上城は筒井城の東を流れる佐保川の支流である菩提仙川の上流に位置しており、川沿いに筒井城からのアクセスが良い他、高樋から南に続く谷間、いわゆる五ヶ谷地域北側山稜の最高部にあって、奈良盆地北部一帯ににらみを利かせる位置にありました。

また、高樋城興隆寺、椿尾下城など一連の五ヶ谷城砦群が西南(奈良盆地)側の谷間を固める要害堅固の地で、筒井氏の東山中の拠点でもあった福住へのアクセスも良く、拠点とするには格好の地だったのです。

1550(天文19)年に順昭が享年28で世を去ると、数え年で2歳の順慶が一族の福住宗職の後見で筒井氏を継ぎますが、この時順慶は筒井城ではなく椿尾上城にいたことが『春日大社文書』の「福住宗職書状」から分かっており、順昭の時代から引き続き当城が筒井氏の拠点城郭として機能していたことが分かります。

 

椿尾上城が歴史の表舞台に大きく姿を現すきっかけは、1559(永禄2)年に始まる松永久秀の大和侵攻でした。

同年、松永久秀に筒井城を奪われた順慶は、椿尾上城を本拠として松永久秀に徹底抗戦します。

三好長慶の死後、1565(永禄8)年に三好家中で三好三人衆松永久秀の間で内戦が始まると、三好三人衆と同盟した順慶は、一時筒井城の奪回に成功するなど久秀を追い詰めますが、1568(永禄11)年に足利義昭を奉じて織田信長が上洛すると状況が一変。

同盟した三好三人衆は四国へ撤退し、いち早く信長と通じて大和一国切り取り次第を許された松永久秀が、その援護を受けて反転攻勢を始めると、義昭・信長への臣従を拒否された順慶は、再び筒井城を奪われて福住中定城まで撤退を余儀なくされました。

1570(元亀元)年3月には、最後まで頑強に抵抗していた井戸城も失陥して、下図の通り、順慶は郡山城を除く北和の拠点を全て失うことになるのです。

1570(元亀元)年3月頃大和国情勢図(国土地理院HPより作成)

しかし、1570(元亀元)年4月に織田信長が義弟・浅井長政の裏切りに遭って越前攻めに失敗すると、大きく畿内の情勢が変化します。

いわゆる「信長包囲網」が形成され、信長は浅井・朝倉連合軍や三好三人衆本願寺への対応に忙殺され、久秀も信長に従って各地を転戦することになり、大和国に一時的に軍事的空白が生じたのです。

これを好機とした順慶は反攻を開始。

同年7月順慶は、前年に当主の十市遠勝が跡継ぎを残さないまま死去し、親筒井派と親松永派の間で路線対立を起こして内紛状態だった十市氏の取り込みに成功して、龍王山城、十市城を奪取しました。

8月には椿尾上城を中心とする五ヶ谷城砦群を整備して、ここを拠点に奈良盆地東部でゲリラ戦を展開し始めます。

奈良の坊官の記録・『二条宴乗記』の同年九月七日の条には、椿尾上城の普請のため農民が駆り出され、年貢の徴収日なのに一向に集まらないという記述があり、この時期に椿尾上城は大規模改修が行われ、現在の姿になったのでしょう。

信長への加勢で思うように動けない松永久秀に対して攻勢を強めた順慶は、翌1571(元亀2)年の5月までに井戸城、窪之庄城の奪回に成功。

同年6月、信長への手伝い戦に辟易としていた松永久秀は、武田信玄の西上に呼応する形でついに信長と決別しますが、この動きに中南和の有力国人であった箸尾氏が筒井氏に寝返り、大和国の情勢は一転して筒井方の優勢に傾きます。

そして順慶は奈良における松永久秀の拠点である多聞山城を攻略すべく、重臣井戸良弘に命じて、奈良の南に辰市城の築城を命じます。

突貫工事で臨時の城砦である辰市城が完成したのが、1571(元亀2)年の8月で、当時の状況は下図のとおり。

1571(元亀2)年8月頃大和国情勢図(国土地理院HPより作成)

辰市城の築城によって多聞山城と筒井城、信貴山城の連絡を絶たれた松永久秀は、全軍を挙げて辰市城の攻略を開始。8月4日に両軍は激突しました。

これが戦国大和の覇権を賭けた、辰市城の戦いです。

久秀は約1万の大軍で井戸良弘が数百の兵で籠る辰市城に攻め寄せましたが、郡山城と椿尾上城から出撃した筒井方の援軍が到着すると壊滅的な損害を出し、多くの将兵を失って潰走しました。

この戦いに大勝した順慶は、番条城、筒井城を奪回。翌日には高田城も陥落させて大和国での優位を確固たるものとします。

そして順慶は、討ち取った松永方の首級240を織田信長に送って再び接近を図ると、一度は久秀との関係から順慶の受け入れを拒絶した信長もその実力を認め、久秀が離反したこともあって、後に順慶を幕下へ迎えることになりました。

 

永禄2年から元亀2年までの12年間は、筒井と松永の抗争において最も両雄が激しい戦闘を繰り広げた時期にあたり、この時期に筒井順慶が主に本拠としたのが椿尾上城でした。

しかし、辰市城の戦い以降、椿尾上城はぱったりと歴史の表舞台から姿を消します。

松永久秀との戦いが一段落したことで、歴史的役割を終えた椿尾上城は、明確な廃城年は不明ながら、信長による大和国内の城割命令がでた1580(天正8)年には、廃城になったものと考えられます。

 

辰市城の戦い以降、筒井城に復帰した順慶は、筒井城に次いで郡山城を自身の拠点とすべく中世城郭から近世城郭へと大改修し、織田家中で近世大名化していくことになるのです。

 

下記が、椿尾上城の縄張りの概略図。

椿尾上城縄張概略図(国土地理院HPより作成)

城山山頂に築かれた東側の主郭周辺と、城郭中央から尾根伝いに西へ伸びる西曲輪群では、明らかに作られた年代の違いを感じる構造になっています。

東側は並列的に広めの曲輪が並び、土止めと思しき石垣もみらます。

一方、西側は直線的で周囲を石垣で固めた曲輪が階段状に配置され、曲輪の北側側面には横堀も築造され、大手と見られる出入り口に外枡形が見られるなど、より複雑な造りとなっています。

元亀元年に順慶が集中的に拡張・改修を加えたのは、西側かと思われます。

城内

それでは現在の城内の様子を紹介していきます。

主郭までの登城ルート(国土地理院HPより作成)

椿尾上城へは名阪国道五ヶ谷ICから北上し、県道187号線の行き止まりから登山道に入るのが大変便利です。

行き止まりになっている187号線の北側(写真右側)に分かれる林道へと入っていきます。

城跡までは600mほどで、10分ほど歩けば到達できます。

林道内は分岐が非常に多いので、スマホなどで地図を確認し、ひとまず城山山頂を目指すのがよいでしょう。

最初の分岐のところに、先達が設置してくれたのか椿尾上城の木製道標がありましたが、案内板などこの先は全くありません。

 

主郭(城山山頂)の南西側に回り込むまでは、分岐は基本左側に進んでいきます。

何度か道に迷いながら進んでいきました。


ようやく、城跡付近に到着し、ここから右側に主郭を目指して上っていきます。

途中、道標がありました。

右(東) 五社みち

左(西) 龍王

と刻まれています。

「五社」は、城山山頂(=椿尾上城主郭)に祀られている五社大明神で、「龍王」は北側斜面を少し下ったところに祀られている龍王を指しているようです。

龍王社近くには池が湧いていて、椿尾上城の水の手の一つだったとのこと。

今回は道がよくわからず、遭難を避けるため登山道から大きく外れるルートには行かなかったので、確認は断念しました。

 

主郭付近

主郭近くに到着。

左(北)が山頂の主郭、右(南)が主郭南西の副郭になります。

 

北側の主郭に繋がる土橋で、主郭の南側には横堀があります。

主郭南側の横堀は東側斜面まで続いていました。

土橋付近に残る主郭斜面の石垣。

横堀に沿っていくつか石垣が見られ、もとは主郭斜面を横堀に沿って全面が石垣に覆われていたのかもしれません。

 

主郭中央に鎮座する五社大明神です。

奥に土塁があります。

 

城山山頂の標。

少し広いので櫓なども建てられていたのかもしれませんね。

木々に覆われ、眺望は残念ながらありません。

 

主郭北側は絶壁になっています。

また、主郭の平場はそれほど広くありませんので、大きな構造物は無かったと思います。

 

主郭南西の副郭側は、広めの平場になっていました。

椿尾上城は前述の通り政庁機能を有していたと見られるので、御殿や城主居館などはこちらに建っていたのかもしれないですね。

ざっと見たところ礎石などは見られませんでしたが、文化財や史跡の指定が行われておらず調査もされてない城跡なので、表面観察だけでなく発掘による調査が望まれます。

こちらにも石垣の痕跡。

廃城時の破却によるものもあるでしょうが、石垣の崩落が各所で大変激しいです。

西曲輪群

主郭周辺から西曲輪群に戻ってきました。

西曲輪群に特徴的なのは、主郭周辺とは違って直線的な曲輪が、尾根伝いに西へ向かって階段状に延びている点です。

 

西曲輪群の最も高い場所に祠があります。

お不動さんと蔵王権現と思しき像が祀られていました。

 

曲輪の北側の横堀と、曲輪斜面の石垣。

見事な石垣で、かつては曲輪斜面全体を覆っていたと思われます。

広い帯状の曲輪。

曲輪の縁は石塁となっており、曲輪斜面にも石垣が多用されています。

奈良県内の中世城郭でここまで石垣が多用されている例は、筆者は見たことがありません。

石垣を多用した西曲輪群は圧巻で、当城の見所の一つと言えるでしょう。

階段状に直線的な曲輪が東西に連なります。

こちらにも石垣が。

木が生えて残念ながら崩落しているものも多く見られます。

 

西曲輪群の南西端に、城内から南→西と折れる外枡形の出入り口がありました。

枡形は戦国後期にならないと見られない出入口なので、やはり西側の曲輪群は元亀元年に拡張・改修されたと考えられる証拠になります。

 

こちらは外枡形を西から臨みます。

東側が斜面に遮られ北側に折れます。

往時は城門があったのかな。

 

西曲輪群から南斜に竪堀が見られました。

帰り際に、通路の下にも石垣が積まれていることに気付きました。

椿尾上城の大きな特徴は石垣の多用で、さらに石垣を屈曲させて横矢掛りや枡形を形成するなど、戦国後期に見られる高度な軍事的構造を持った城郭で、奈良県内でも屈指の貴重な城郭遺構と言えるでしょう。

 

それにしても椿尾上城は、一般の知名度の低さからか、史跡や文化財の指定が全く行われておらず、石垣の崩落なども目立つことから、早急な史跡の保存と発掘調査が望まれます。

 

実のところ恥ずかしながら、筆者も近年までこの城のことは詳しく知りませんでした。

筒井順慶松永久秀に筒井城を追われて東山中に逼塞した際の詰め城くらいの認識しかなかったのですが、実際に足を踏み入れて、政庁機能を持った本格的な城郭であったということを改めて認識できました。

 

筒井順慶を顕彰する大和郡山市は、市内の筒井城や郡山城はPRするのですが、椿尾上城は奈良市の城ということで、当然椿尾上城のことが大和郡山市が広報する順慶の話に登場することはほとんどありません。

また奈良市は、大仏が焼けた東大寺大仏殿の戦いや、戦国大和の覇権を賭けた辰市城の戦いなど、筒井、松永の抗争における中心的な合戦の舞台でありながら、中世史関係の史跡には関心が薄いようで、これだけの城跡に見向きもしないというのは非常に残念です。

戦国時代や城跡巡りはブームになってから久しく、今や一般的に愛好される趣味になりつつあり、古代寺院に次ぐ新たな観光と文化振興の目玉として、この城跡に目を付けない手はないと思います。

 

椿尾上城は、比較的林道が整備されていて、県内の山城としては歩きやすく表面観察もしやすい城跡ですので、是非多くの方に、石垣を備えた曲輪群を見ていただきたいです。

 

参考文献

 

『奈良市史 通史 2』 奈良市史編集審議会 編

 

リンク

奈良県内には当城以外にも多くの魅力的な城郭がありますので、ぜひ下記記事をご参照ください。