大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

奈良盆地一望の絶景を誇る巨大中世山城・龍王山城

皆さんこんにちは。

 

山地が多い奈良県内には高取城信貴山など、全国的にも有名な巨大な山城があります。

この二つの巨城に匹敵する規模を誇るのが、奈良県天理市にある龍王山城です。

ただ、城好き以外の方には、名前を聞いてもぴんと来ないお城かもしれませんね。

龍王山城は一般的な知名度は決して高く無い城ですが、戦国期に造られた中世山城では、奈良県内最大規模を誇る巨大城郭として知る人ぞ知る城跡。

その広大な城域には多くの曲輪や土塁、石垣といった遺構が残って見どころが多い史跡であるだけでなく、その眺望が奈良県でも指折りの絶景として知られるスポットなんです。

 

龍王山城とは

さて、龍王山城は奈良県天理市の東部にそびえる、標高586mの龍王山に築かれた山城です。

奈良盆地側からの比高は485mあり、これは奈良県で最も標高の高い場所にある高取城(比高350m)を上回る高さ

なので、山麓からの登山道で城跡を目指す場合、奈良県では最も高くまで登る必要がある山城と、いうことになります。

城域には屋敷地もあったとされるので、昔の人ってつくづく健脚だなと思いますよね。

高所にある他、龍王山城のもう一つの大きな特徴は、南北1.2Kmという広大な領域に二つの曲輪群が分かれて築城されていること。

国土地理院HPから作成

一般に二つの曲輪群は北城、南城と通称されており、戦国末期まで両城ともに改修され続けた痕跡がありますが、南城が北城より古いと見られます。

 

龍王山城の正確な築城年代は不明ですが、『大乗院寺社雑事記』『多聞院日記』といった史料の記述から15世紀後半から16世紀初頭までには、既に龍王山に城砦があったとされています。

応仁の乱に際して、南北朝時代から大和国十市郡(現橿原市北部、桜井市西部、田原本町南部)を本拠とした有力国人・十市十市遠清が、その勢力圏を東山中を含む山辺郡にまで広げた時、十市氏の本拠・十市城と東山中を結ぶ連絡拠点になっていたと見られます。

 

龍王山城が大規模化するきっかけとなったのは、1528(享禄元)年に始まる木沢長政の大和侵攻でした。

長政は元畠山氏被官で、後に管領細川晴元に仕えて畿内の有力者となり、筒井順昭(順慶の父)と組んで事実上、大和の支配者となった人物です。

木沢長政と組んだ筒井氏に対して、時の十市氏当主・十市遠忠は、それまでの筒井氏との友好関係を解消。

反木沢長政の姿勢を鮮明にして、木沢・筒井連合軍と激しい戦いを繰り広げるようになります。

長政が1536(天文5)年に信貴山を築城して大和国への攻勢を強めると、遠忠は龍王山城の大改修を行い、ついには本拠を十市城から龍王山城へ移しました。

十市城については下記の記事でご紹介していますので、ぜひご一読ください。

本拠を移転した理由は、戦闘が激化したため平地の館城であった十市城の防衛力に不安を覚えたこともあったでしょうし、遠忠の代は十市氏の最盛期で、その勢力圏が東山中から伊賀国にまで及んだため、本貫の十市郡と東山中、伊賀国とのアクセスに便利な龍王山城の立地が、より本拠にふさわしいと考えたのでしょう。

この遠忠による平地の館城から険峻な山城への本拠地移転は、戦国の騒乱が激化していく15世紀末~16世紀前半、全国的にもみられる現象でした。

同じ大和国では南部の越智氏が、紛争の激化とともにそれまでの越智館から貝吹山城、高取城といった山城を本拠とし、全国的には出雲・尼子氏の月山富田城、越後・長尾氏の春日山城、近江・浅井氏の小谷城能登・畠山氏の七尾城といった著名な山城が戦国大名の本拠として姿を現したのもほぼ同時期です。

それまでの山城といえば戦時に臨時で利用される城でしたが、この時期に領主の居館、政庁としての役割を果たす山城が姿を現しており、この龍王山城もそうした戦国期拠点城郭の一つになります。

 

さて、遠忠の死後、十市氏は1559(永禄2)年に始まる松永久秀筒井順慶の大和の覇権争いに翻弄されることになります。

十市家中が親筒井派と親松永派に分裂して衰退する中、嫡流が断絶すると、1575(天正3)年に最後の当主・遠勝の娘おなへ松永久秀の嫡男・久通に嫁ぎ、龍王山城には久通が城主として入城しました。

松永久秀は1571(元亀元)年の辰市城の戦いで順慶に大敗して以来、大和国では劣勢を強いられており、十市氏の親松永派との関係をより強固にしたいという久秀の思惑と、順慶の傀儡であった遠勝の婿養子・藤政家督相続を阻止したい、おなへ達、親松永派の思惑が一致した婚姻だったと考えられます。

こうして松永氏の城となった龍王山城ですが、1577(天正5)年に松永久秀・久通父子が織田信長に反旗を翻して敗亡すると、翌1578(天正6)年に信長の命により廃城となって破却されました。

古代氏族・十市県主の流れを組むともされる大和の名門・十市氏。

龍王山城は、その栄枯盛衰の舞台となった城郭なのです。

北城

それでは、いよいよ城跡に足を踏み入れましょう。

まずは、北城です。

南城より広く、本丸を中心として環状に複雑な構造の曲輪群が広がる北城は、龍王山城の本城であったと見られます。

城域が広大であるだけでなく、城跡として未整備な箇所が多いこともあって、今回は比較的歩きやすい下記のルートで城跡を散策しました。

天理ダム方面から林道を上ってくると、休憩所と駐車スペースがあります。

休憩所に駐車して林道を上ってすぐの場所に、「龍王山城跡」の碑と、南虎口に向かう山道があります。

①南虎口

山道に入ってすぐの場所に、土塁が見えてきました。

南虎口を囲む土塁になります。

南虎口は円形の土塁に囲まれた「枡形」状の出入り口。

複雑な構造の出入り口で、戦国後期に改修されたものではないかと思います。

樹木が伸び放題で、少々わかりづらいのが難点。。。

 

南虎口から本丸方面へと山道を進むと、本丸と辰巳の櫓の間にある堀切まで進んできました。


辰巳の櫓側の斜面に石垣が見えます。
中世城郭における石垣は、近世城郭にみられる高石垣のような敵の侵入を防ぐ防御施設ではなく、主に曲輪の斜面が崩れるのを防ぐために施されたものとされ、龍王山城に散在する石垣も背の低い石積みとなっています。

②辰巳の櫓

北城本丸南東の曲輪である、辰巳の櫓に上がってきました。

平坦地ですが、木々と藪が生い茂っています。

下を見るとかなりの急崖。

高い切岸が、容易な曲輪への侵入を許しません。

③北城本丸

続いて北城本丸に入ります。

北城の他の曲輪と違って一部樹木が伐採されており、ベンチが設置されるなど若干の整備の跡がうかがえます。

広々とした空間で、広さは東西約100m、南北約60m。

龍王山城では最大の規模を誇る曲輪です。

曲輪北側(写真左側)には、うっすらと土塁跡も残っていました。

現在は残念ながら、曲輪西側に木が生い茂っていて、奈良盆地の眺望はありません。

 

本丸北側の切岸の下に小さな曲輪が見えます。

階段状に下へ降りる通路?があったので、慎重に下っていきます。

落ち葉だらけで足場が悪く、転落して動けなくなったら一人で来てるので間違いなく遭難。。。かなり怖いです。

④本丸下(北側)の曲輪

本丸からやっとの思いで下ってきました。

せめてロープをかけておいてほしい場所でした(汗)。

本丸に比べるとかなり小さな平場でしたが、本丸を取り巻く各曲輪群へ通じる通路と接続しています。



⑤石積み~時ノ丸

本丸北下の曲輪を取り囲むように土塁があり、その中に石塁と思しき石積みが残されていました。

本丸の周囲を逆時計回りに通路を進んで、畝状竪堀群を目指します。

途中、巨大な石が立っていました。

櫓台として活用していたのかもしれないですね。

本丸の西側下を巡る帯曲輪上の通路は、北側や南側斜面に比べてかなり歩きやすいです。

⑥畝状竪堀群

林道からの入り口のほど近くにある、畝状竪堀群。

通路のすぐわきにあるので、表面観察がしやすい北城の見どころの一つで、通路からは3本ほど、連続して畝状に掘られた竪堀を見ることができます。

この竪堀は柳本町側斜面から侵入してきた敵の進軍ルートを、身を隠す場所がない堀底伝いに登らせるように制限して、城側から容易に攻撃できるようにする防備の仕組みです。

下の方からもみてみたいんですが、安全に下りられるルートを見つけられず、断念。。。

しばらく進むと、南城(竜王山山頂)へ続く林道が見えてきました。

冬場に訪れたこともあり、草はそれほど茂っていませんでしたが、城跡内は特に縄張り全体を示す案内板などもなく、斜面も急で一人で城跡を回るのは転落や道に迷うなど身の危険も感じたこともあり、今回は本丸北西に広がる広大な曲輪群の見学は断念しました。

隅々まで城跡を回る場合は、万一の事故に備えて、二人以上で見学されることをお勧めします。
残された曲輪や堀切、切岸、石積みなどの遺構が見事なだけに、一人でも安全に見学できるように整備が望まれます。

⑦馬池

南虎口への入り口から、山頂方面へ少し上ると畝状竪堀群から時ノ丸方面へ向かう通路の入り口があります。

北城の詳しい縄張り図もあり、こちらから城跡に入られるのも良いかと思います。

畝状竪堀群へ向かう通路入り口から少し林道を山頂方面へ進むと、馬池があります。

今はちょっとした窪みですが、もとは渇水期でも水が枯れない池で、今も窪地の脇から水が沸いているとのこと。

急坂を上ってきた馬を冷やすために使っていたと伝わるため、馬池と名付けられていますが、北城の大事な水源でした。

山城を築くうえで重要なのが水源の確保で、どんな強固な守りの城を築いても水の手を切られたら、数日で落城してしまいます。

龍王山は水源が豊かで、水の確保が容易なことから、城郭の建設地に選ばれたのでしょう。

北城の辰巳の櫓、本丸、石積み、畝状竪堀群など、今回廻った見所を簡単に動画でまとめましたので、ぜひこちらもご覧ください。

 

北城~南城まで

北城から南城へは直線で200mほどの距離があります。

林道を進むと途中でトイレがありました。

さらに進むと藤井・田龍王が鎮座しています。

雨乞い信仰の名残で、布留川水系水源地の守護神として龍王社が祀られたことが、「龍王山」の名前の由来となっています。

南城

さて、しばらく林道をあるくと、龍王山山頂の展望台に向かうハイキングコースとの分岐に差し掛かります。

南城本丸龍王山山頂になりますので、ここから山頂を目指します。

尾根伝いにまっすぐ進みます。

本丸直下の平場(二の丸)へ向かう石段は、1997(平成9)年に龍王山城で初めて発掘調査が実施されたときに発見されました。

築城当時の貴重な遺構です。

本丸直下の二の丸には礎石が列をなして完存しています。

こちらに残る礎石も、1997年の発掘調査で発見されたもので、瓦葺の建物が建っていたとのこと。

また、建物の南側には不自然な石組み遺構が検出されており、現在のところ他に発見例のない山城の庭園跡である可能性が指摘されています。

このあたりの情報、案内板など設置してほしいところです。

最後の石段を上ると、いよいよ龍王山南城本丸、山頂の展望台です。

本丸は広い平場になっており、休憩用のベンチも設置されています。

謎の遊具。北城本丸にもあったのですが、ここまできて遊具で遊ぶ人がいるんだろうか。。。

本丸にも建物の礎石が整然と残っています。

南城は本丸の南側にも曲輪が続くのですが、こちらも南側への散策路が整備されていないこともあり、見学は断念しました。

 

南城本丸は北城本丸より標高が60mほど高い位置にあり、本城である北城の詰城として利用されたと推定されています。

展望台からの奈良盆地の眺望は絶景です。

北は生駒山から信貴山二上山葛城山金剛山吉野山地まで、奈良盆地を一望できます。

ここに城を置けば、奈良盆地一帯に目を光らせることができたことでしょう。

それにしても良い眺めで、麓から山登りしてきた方には最高のご褒美ですね。

 

この日は天気が良く、遠く明石海峡大橋もうっすら見ることができました。

山頂案内板の写真では、夕方来ると、下掲のようにもっとはっきり見えるようです。

南城の方も、二の丸の礎石群や本丸からの眺望を動画にしていますので、こちらも是非ご視聴ください。

 

アクセス

■電車・徒歩

・最寄り駅:JR柳本駅万葉まほろば線

天理市トレイルセンターから、長岳寺の北側にある登山道から約1時間。

※駅からおよそ1時間30分ほど

 

■自動車

国道25号線で天理ダムの手前の交差点で、県道247号線を藤井町方面へ直進します。

建設発生土受入場の方に入る分岐を西に入ります。

さらに分岐を右側に進むと山頂付近まで林道が続きます。

かなり狭い道で対向車が来た場合、場所によっては結構長い距離をバックで戻る必要もあります。

また、カーナビによっては、藤井町から龍王山山頂へ入るルートが案内される場合があるようですが、藤井町方面からは山頂まで自動車では抜けられませんのでご注意ください。

 

麓のなら歴史芸術文化村まで戻ってきました。

龍王山城といえば、「じゃんじゃん火」の伝承でも有名ですね。

じゃんじゃん火は、夏の夕方に龍王城跡に向かって「ほいほい」と呼びかけると、「じゃんじゃん」という音ともに現れる怪火で、見た人は必ず病気になるか焼き殺されるという、奈良県下で屈指の恐ろしい妖怪です。

正体は「龍王山城で滅ぼされた十市遠忠の怨霊」とも伝わりますが、十市遠忠は戦死しておらず、子の遠勝の時代に松永久秀に降伏しているものの、戦死はしていません。

実は文献史料上、龍王山城は戦場になっておらず、不戦のまま廃城となったとみられるので、城にまつわる怨霊話は後世の創作だと思います。

ただ、全盛を極めた遠忠の代から、わずか一代で悲惨な内部抗争の末に滅亡してしまった十市氏の無念が、「じゃんじゃん火」の伝承に込められているのかもしれませんね。

 

まとめ

北城、南城ともに、中世最大規模御の壮大な曲輪群と堀切や切岸、石積みなどが残り、城跡として見どころの多いスポットですが、ハイキングコース以外の整備がほとんど進んでいません。

見学する際は、登山に適した靴を履いていくようにしましょう。

※特に北城はサンダルでは絶対に無理だと思います。

曲輪に進入するため、ほぼ切岸を直接上り下りする必要がある場所も多く、転落の危険もあるため、見学時の安全面と、城跡を保全する意味合いからも、適切な見学ルートの整備を強く希望したいです。

城跡として整備できれば、史跡そのものの価値や、城跡にまつわるストーリーからも、大きな観光資源になる可能性を秘めた城跡と感じました。

まあ、現状の龍王山城は、要害感を満喫できると城跡という一面もあるんですけどね(苦笑)