奈良県内の近世城郭といえば、桜の名所として名高い大和郡山市の郡山城、山麓の巨大石垣群が壮観な高取町の高取城が、城跡としては有名ですが、実はもう一つ大規模な近世城郭が存在しました。
奈良県東部、大和高原地域に位置する宇陀市大宇陀の古城山(しろやま・標高473m)に築かれた宇陀松山城です。
江戸時代の初めに廃城・破却されたこともあり、郡山城、高取城と比べると知名度は低いものの、近年発掘調査と城跡整備も進み、見ごたえ十分の城跡になってきました。
今回は宇陀松山城の概略史と現在の城跡の様子をご紹介します。
宇陀松山城とは
宇陀松山城の場所はこちら。
宇陀松山城は、有名な桜の名木・又兵衛桜のある宇陀市の大宇陀地区にあり、高取城、郡山城とともに国の史跡に指定されている城跡です。
元は宇陀の在地領主だった秋山氏の居城で、戦国時代末期までは秋山城と呼ばれていました。
秋山氏は南北朝時代以降、伊勢国司・北畠氏の影響下で南朝方として活動した国人で、同じ宇陀の国人であった沢氏、芳野氏と並んで宇陀三将と称された有力国人です。
秋山氏時代の秋山城は、山麓に平時の領主住居と政務を行う居館(秋山下城)を置き、山上に戦時の詰城(秋山上城)を築いた典型的な中世城郭でした。
1585(天正13)年に紀州攻めを行って畿内周辺をほぼ掌握した羽柴秀吉は、五畿(山城、大和、摂津、河内、和泉)周辺の直轄領化を図り、秋山氏は追放されてその支配は終焉を迎えます。
大和国は和泉国、紀伊国とともに秀吉の弟・秀長の支配下に入り、秋山城には秀長の与力大名や家老たちが相次いで入城しました。
秀長は本城である郡山城を大規模拡張するだけでなく、南和・吉野の抑えとして高取城を、宇陀郡を中心とする東山中(奈良県東部の高原地帯を指す呼称)の抑えとして秋山城を、それぞれ近世城郭として大規模な拡張・改修を施します。
下図は郡山城、宇陀松山城(秋山城)、高取城の位置と当時の主要な街道を記入した概略図。
秋山城(宇陀松山城)は東西交通の主要幹線だった伊勢本街道と伊勢南街道を結ぶ松山街道沿いにあり、東から大和国そして河内国へと侵攻してくる外敵に対する抑えとして、豊臣政権の東部を固める要衝でした。
また、こうして地図で見ると大和国内の各城郭が、効果的な場所に配置されていたことがよくわかりますね。
1585年以降、秋山城には伊藤義之、加藤光泰(1586~88年)、羽田正親(1588~92年)、多賀秀種(1592~97年)と次々に豊臣家の武将が城主として入り、1594(文禄3)年頃までには、下図のように古城山山上にはほぼ現在の縄張りの原型が完成。
東山中の拠点にふさわしい近世城郭がほぼ完成しました。
上の絵図からは現在重要伝統的建造物群保存地区に選定されている宇陀松山(当時は阿貴町と呼ばれた)の町が、宇陀川と水堀によって囲まれた惣構えの城下町として、すでに文禄の頃に形成され始めていることがよくわかります。
その後、1597(慶長2)年からは豊臣家の蔵入地となっていましたが、1600(慶長5)年に福島高晴が実兄・福島正則とともに関ヶ原の戦いで東軍に付いて軍功を挙げたことから、宇陀郡に3万石を加増されて秋山城に入ると、高晴はさらに城郭と城下町の拡張整備を進めるとともに、城と町の名を「松山」と改めました。
下図は現在の宇陀松山城の縄張図で、福島高晴が城主の時代に東西約270m、南北約150mにわたる、壮麗な総石垣の城郭が完成します。
在りし日の宇陀松山城の姿については、宇陀市の作成したCGが公開されていますので、こちらも是非参照してください。
一度現在の城郭の様子を見た後だと、さらにその壮麗さが印象的なCGになっています。
郡山城、高取城に次ぐ大和国第三の近世城郭として威容を誇った宇陀松山城でしたが、1615(慶長20)年に福島高晴が大坂夏の陣で豊臣方への内通を疑われて改易されるとともに廃城となりました。
同年、元和と改元された後、小堀遠州、奈良奉行の中坊秀政の手で城は破却され、近世城郭・宇陀松山城はおよそ20年ほどの短い期間で、幻の城となってしまったのです。
福島氏改易の同年、織田信長の次男・信雄が宇陀2万8千石を隠居料として宛がわれましたが、松山城は廃城のまま利用されず、宇陀川西岸の長山屋敷(現宇陀市大宇陀地域事務所)に陣屋を構えました。
なお、信雄自身は京都に居住し茶の湯等趣味の世界に没頭していたようで、松山で居住することはなかったようです。
1630(寛永7)年に信雄が死去すると、5男の高長が松山の遺領を相続し、実質的に松山藩を立藩しました。
松山織田家は3万石に満たない小藩ながら従四位下という高い官位を持ち、前田家、島津家、毛利家同様、国主格大名の格式を許された特殊な大名家で、これは信長の家系であることが最大限考慮された結果といえるでしょう。
次代の長頼の時、1671(寛文11)年に陣屋を松山城北西の春日へ移転しますが、1694(元禄7)年、四代信武の代に宇陀崩れと呼ばれるお家騒動が発生。
このお家騒動で信武が自害すると織田家は丹波国柏原2万石へ減封・国替えとなってしまいました。
以後、松山は天領となり、奈良奉行の支配で明治を迎えることになります。
下図は現在の宇陀松山城周辺の航空写真に、当時の主要な街道や城域、城下町の範囲や江戸時代の陣屋等の位置を書き込んだものです。
現在はすっかり木々に覆われて航空写真から城郭の姿は判然としないのですが、国土地理院の傾斜量図で見ると、くっきりと郭の形が浮かび上がってきます。
今回は宇陀秋山城の主要部を巡って現在の様子をご紹介していきます。
まちかどラボ
宇陀松山城を訪れるにあたって、ぜひ立ち寄っていただきたいのが観光案内所のまちかどラボです。
場所は道の駅 宇陀路大宇陀前の交差点を東に向かい、松山街道と国道166号線の交差点にあります。
基本情報
■開館時間:9時~17時
■休館日:年末年始(12月29日~翌年1月4日)
■駐車場:無(道の駅「宇陀路大宇陀」第2駐車場をご利用ください)
■電話:0745-88-9800
こちらが外観で、町屋を改装されたものですね。
中を通り抜け裏口を出ると宇陀松山城の登城口になっています。
元々、まちかどラボ付近は文禄の絵図によれば宇陀松山城の大手門があった場所なので、再び城の玄関口として復活したというところでしょうか。
中では「続日本100名城」のスタンプや御城印、周辺地図やパンフレットが入手できます。
また、宇陀松山城から出土した瓦や紹介パネルの展示もありました。
奥のお座敷にも城跡発掘時の写真パネルや出土瓦が展示されています。
奥の出口を出ると、杖の無料貸し出しがありました。
まちかどラボを東に抜けると、かつて城跡までの谷間に田圃が段々と続いていたエリアが、舗装道路に整備されています。
以前は城跡北西の春日神社の脇から上る登山道が城跡見学の主要ルートだったようですが、今はこちらからの登城が断然おすすめ。
現在、自家用車での登城はできませんが、城跡のすぐそばまで舗装道路が続いているので、将来的には自動車で足が不自由な方でも気軽に城跡を見学できるようになるかと思います。
秋山下城
秋山下城は、中世に付近一帯を支配した秋山氏の居館跡とされます。
宇陀松山城に続く登城道を上り始めて10分足らずで分岐が現れるので、こちらの三叉路を右に折れると、すぐに秋山下城跡に続く道が現れます。
秋山下城は下図のとおり、字「寅ノ尾」にあたる尾根上を長径約130m、短径約40mにわたって削平平坦にした主郭を中心に、主郭のある主尾根南側から西、南、東へと延びる3つの支尾根も削平して郭を造成し、前衛防御線にしたと見られる城郭です。
郭を遮断する堀切は見当たらず、城郭の東西は急崖になっており、各郭は高い切岸で防御する構造になってたようです。
林の中に続く小道を南へ入るとすぐに主郭の上段部に入ります。
主郭部の北側に小さな神社が祀られていました。
やや広めの削平地になっています。
実は秋山下城は城跡の伝承がなく、こちらの城跡は花園大学教授だった考古学者・伊達宗泰さんの研究論文等から居館跡だったと推定されているだけで、発掘調査が行われておらず、城跡と確定しているわけではありません。
なので、現在は城跡碑や案内板などは設置されておらず、当然史跡指定地域外になっています。
しかし、上記伊達さんの指摘では、同時代の宇陀郡有力国人だった沢氏、芳野氏は、ともに平場の居館(下城)と戦時の詰城(上城)を備えており、秋山氏も山上の詰城の他に居館を備えていたであろうとのことで、立地的にも規模的にも、この場所が下城であった蓋然性は高いと思います。
宇陀市としても城跡の整備計画の中で下城地域のゾーンニングも行っていることから城跡の存在を意識しており、宇陀松山城跡全体の調査・保全が進む中で、中世秋山氏の遺構についても今後、発掘調査が進むことを期待したいですね。
城内
それではいよいよ、宇陀松山城の内郭に入っていきましょう。
横堀~南西虎口
城跡に続く舗装道路は、春日門から南西虎口に続く登城道との合流地点まで伸びています。
駐車スペースもあり、将来的には自動車でここまで上ってくることができるようになるかもしれませんね。
まちかどラボから15分もあれば、城跡の入り口まで到着できるので、登城へのハードルが一気に下がった感があります。
駐車スペースから少し上がると昔ながらの山道になります。
雨の降った翌日来たので、少しぬかるんでいましたが、内郭の入り口である雀門まで山道は5分くらい。実に快適です。
西側の曲輪と御加番郭を遮断する巨大な横堀が見えてきました。
横堀の先が雀門の跡です。
櫓台に挟まれた石段の先に城門があり、城門の先は左に折れて枡形となっていました。
近辺から大量の廃棄された瓦が出土しているため瓦葺の多聞櫓や隅櫓が建っていたものと考えられています。
こちらは発掘調査中の雀門の写真。
櫓台上部の石垣は破却により崩されていますが、下の方はきれいに残っています。
付近には所々残された石垣が顔をのぞかせています。
雀門の先は細長い枡形で、東側の帯郭から横矢を掛けられる構造になっていました。
枡形は再び右に折れ、こちらにも城門があったのでしょう。
こちらは正面の虎口郭から横矢を掛けられる造りになっています。
この細長い枡形に侵入した外敵は、南側の御定番郭と東側の帯郭、北側の虎口郭の三方から十字砲火を浴びせ掛けられることになり、宇陀松山城で最も突破が困難な箇所の一つと言えるでしょう。
こちらにもゴロゴロと破却され崩された石垣の石が転がっていました。
破却された城跡遺構というと、個人的には佐賀県の名護屋城跡が規模の大きさや破却跡の生々しさの点で印象的なのですが、宇陀松山城も破却の生々しい痕跡だけでなく、山城としては想像以上の規模の大きさです。
上部の石垣が崩され、破却が徹底的に行われたことが分かります。
破却は造園家としても名高い小堀遠州の差配によるものですが、こういうところも仕事きっちりですね。
上から見ると枡形の折れが、よりくっきり分かります。
本丸
本丸の方に上がっていきますが、周囲の石垣はほぼ完全に崩されていました。
奥に一段高い天守郭が見えます。
本丸は東西50m、南北45mの広さを持つ宇陀松山城最大の郭です。
檜皮もしくは杮葺きの本丸御殿が建てられ、客人との対面や武家儀礼の場として用いられていたと考えられます。
本丸から南に臨みます。
こちらも眺望抜群ですね。
天守郭
本丸の東側に一段高くなっているのが天守郭です。
東西40m、南北12~20mの細長い郭で、天守に相当する多重建築と、城主の私的居住スペースとなる奥向御殿があったと考えられています。
天守郭から見た本丸。
その広さを実感できる眺めです。
こちらは発掘調査時の天守郭と本丸の写真。
ほぼ完全に石垣が崩されていたことが写真からも分かります。
天守郭には幕末から明治にかけ松山の発展に功績のあった松尾四良三郎(鶴斎翁)の顕彰碑と、白髭大明神と刻まれた碑があります。
二の丸、南東虎口方向と北側の帯郭。
現在二の丸は完全に林と化しています。
ちなみに二の丸については史跡指定地域外になっており、現状は城跡整備の対象範囲からは外れているようですね。
天守郭から北を見ると、遠く榛原の町並みまでよく見えます。
榛原は東西を結ぶ伊勢本街道が通る地です。
大坂に本拠を構えた豊臣政権にとっては確実に押さえておきたい主要幹線で、宇陀松山城が東の抑えとして築かれたことを実感できる眺望。
帯郭(南側)・南虎口周辺
本丸を降りて南側の帯郭から南虎口へと向かいます。
南虎口は文禄の阿紀山城図には見られない場所で、発掘調査の結果、出入り口と確認された場所になるでしょうか。
破却で崩された石垣が、多く残る場所になり、城跡整備が進めば見どころの一つになりそうな場所ですね。
天守郭方向を見ると、帯郭の表面がえぐられて石垣がはがされている様子が分かります。
城郭破却の様子が非常によくわかる場所になっています。
南東虎口~大御殿郭
再び帯郭に戻って、南東虎口方面に向かいます。
天守郭東側の大御殿郭。
広々としたスペースでその名の通りこちらにも御殿が建っていたのでしょう。
天守郭が城主居館、本丸が儀礼所とのことなので、こちらの御殿は政庁だったのでしょうか。
大御殿郭の南側にある枡形が大門跡です。
麓の大手道から山上の主郭内部に入る正面玄関ともいえる門。
東西に櫓を備えて横矢を掛けられる造りになっていました。
こちらは発掘当時の写真で、大門の4つの柱を支えた礎石が確認できます。
調査の結果間口5.4m、奥行き3.2mあり、東西櫓間の間口が7.6m。
東西櫓と連結した櫓門だったと考えられています。
櫓台は例によって崩されて背も低くなっていますが、下部の石垣は残されています。
大手道を少し下ったところから大門方向を見上げます。
左折れの枡形になっており、北(写真左)側の櫓から横矢を掛けられてしまいますね。
南(写真右)側は二の丸があり、こちらからも攻め手は側面攻撃を受けます。
城の玄関口にふさわしい堅固な守りを誇る構造。
再び大御殿郭に戻ってきます。
ここからの天守郭、本丸の眺めは壮観の一語。
天守郭を含めた本丸を取り囲むように横堀もめぐらされていました。
大御殿の北東下に御加番郭があります。
今回初めて宇陀松山城を訪れましたが、ここまで大規模に近世城郭の破却跡が良好に残されている例はそれほど多くありません。
また、当城の破却に関して城割を奉行した小堀遠州の書状(長浜城歴史博物館所蔵)が現存しており、当時の城割の実態を示す文献史料と実際の破却遺構が両方現存しているという点でも、史料的価値が非常に高い城跡です。
2023(令和5)年3月に宇陀市と奈良県の連携協定に基づいた基本計画によると2027(令和9)年度中に、石垣の修復保全対策や平坦部の修景・芝張りなどの整備を完了できるよう宇陀市も城跡整備を進めているようですので、今後の城跡整備に期待したいですね。
西口関門~春日門
城下に下ってきました。
こちらは松山の北の玄関口だった西口関門です。
榛原方面から南下してきた松山街道はこの西口関門の前で東に折れ、宇陀川を渡って関門にいたります。
西口関門は江戸初期、福島氏時代に建てられたものと伝わり、旧城時代から残る貴重な建築遺構です。
門の内側は枡形になっていて、江戸時代は制札場になっていました。
枡形から春日門までの道筋はコの字型に大きく折れ、近世初頭から残る歴史的な景観を残す場所として国の史跡にも指定されています。
寛文年間に織田家の陣屋が宇陀松山城跡北西部の春日へ移ると、西口関門は陣屋の大手口となり、春日門までの道筋も大手道となりました。
春日神社の参道を東に直進すると、櫓台の石垣が見えてきます。
こちらが春日門跡で、櫓台は織田家が陣屋を宇陀川西岸からこの地に移した時に築かれました。
春日神社に向かって伸びる参道は織田家の陣屋時代は藩主屋敷へ向かう大手道。
参道の東(写真左)側一帯、現在天理教の教会となっている高台が織田家の藩邸になっていました。
神社の参道は南に折れ、境内へ登る階段の脇に、雀門へとつながる登城道があります。
旧城時代は、春日神社の境内も戦時には防衛陣地として機能していたようです。
宇陀松山城は、登城道が整備されて城跡へのアプローチが楽になり、季節を問わずに多くの方が楽しめる山城になっています。
大宇陀に立ち寄ったときは、町屋が建ち並ぶ松山町の散策とともに、宇陀松山城にもぜひ足を運んでください。