南北朝の争乱以来、大和の武士たちは相次ぐ戦いの中でその力を扶植し、興福寺の影響下から徐々に離脱し始めます。
南北朝合一後も相次ぐ衆徒・国民の私合戦に手を焼いた興福寺は、ついに室町幕府へ合戦の調停を要請し、大和武士たちは将軍の下で私合戦の停止を誓約しました。
この誓約により大和武士たちへの指揮命令権は興福寺から室町幕府へ移り、興福寺の「大和守護」としての地位は有名無実化。
興福寺傘下の衆徒を統率する官符衆徒棟梁が、事実上他国における守護代と変わらぬ役割となり、仏教王国大和において、寺門に対する武士たちの下剋上がさらに促されることになります。
しかし平和は長続きせず、大御所・足利義持が後継を定めずに急死して幕政が混乱する中、1429(正長2)年に新将軍・足利義教が誕生。
それから間もなく小さな国人間の争いを火種として、大和国中を巻き込んだ大乱・大和永享の乱が勃発しました。
戦いは10年にわたって続きましたが、最終的に幕府が越智氏、箸尾氏を討伐して終息し、幕府の後援を受けた筒井氏が大和の中で優位につくことになります。
※詳細は前回の下記記事をご覧ください。
しかし、大和永享の乱から間もなく幕府中央では前代未聞の政変が発生して、再びその混乱に引きずられて大和国では争乱が続きます。
今回は応仁の乱前史ともいえる嘉吉から享徳にかけての、大和国の混乱をご紹介します。
嘉吉の変
1439(永享11)年に大和永享の乱、永享の乱に勝利した将軍・足利義教は、父・義満の例に倣うかのように将軍権力強化のため、有力守護大名の弱体化を狙って家督相続に介入を図りました。
一色義貫、土岐持頼ら有力守護大名を誅殺し、管領家の畠山氏に対しても、当主・畠山持国を些細な理由で強引に隠居させるなど、万人恐怖と称された恐怖政治を布きます。
このような状況で次は自分の番と思った播磨の有力守護・赤松満祐は、1441(嘉吉元)年6月、自邸に将軍・義教をおびき出し、なんと暗殺してしまうのです。(嘉吉の変)
この政変で、義教の手によって失脚した人々が息を吹き返し、隠居を余儀なくされていた畠山持国は直ちに挙兵。
さらに持国は勢力拡大のため、自身と同じように義教によって失脚した者たちの復権を進めます。
大和国に目を向けると、大和永享の乱で当主・維通が討死した越智氏は、その家督を一族の楢原氏に奪われていましたが、維通の遺児・春童丸(後の越智家栄)が同年7月に持国の後援を受けて挙兵し、越智氏の家督を奪回しました。
また、1438(永享10)年に、義教の不興を買って大乗院門跡の座を追われた九条家出身の経覚が越智春童丸、古市胤仙の支援を受けて活動を再開し、越智氏の軍事力で再び大乗院の支配者に復帰するのです。
以後、経覚は興福寺の権益を巡り、筒井氏出身で興福寺の実力者となっていた成身院光宣と抗争を繰り広げ、大和の戦乱の中心人物となっていきました。
ちなみに経覚の母は本願寺の門主・大谷家出身で、本願寺中興の祖となる蓮如は、彼女の甥にあたり、経覚と蓮如は従弟の関係にありました。
その縁で宗派は異なるものの、若き日の蓮如は経覚に師事して、まさに大和永享の乱で騒然とする奈良・興福寺で修学の日々を送っていました。
経覚も蓮如を大事にしていたようで、後に興福寺と本願寺は不倶戴天の敵となりますが、経覚の存命中は奈良の近郊にも本願寺の念仏道場開設を許可するなど、蜜月の関係にあったのです。
川上五ヶ関を巡る争い
さて、筒井氏は鎌倉時代までは目立たない衆徒でしたが、南北朝の争乱で南朝方が多かった大和国にあって、幕府側に味方したことから大きく勢力を伸ばします。
大和永享の乱でも幕府の後援を受けて勢力を拡大し、当主・筒井順覚が討死にするという不幸に見舞われながらも、最終的には乱の勝利者となりました。
順覚の死後、筒井氏の実権を握ったのが、順覚の次男・成身院光宣です。
光宣は興福寺末寺の衆徒・六方衆のリーダー格で学侶の集会でも指導的立場にあり、大和永享の乱を通して幕府と密接な関係を築くことで、大きな政治力を持つようになっていました。
光宣自身は興福寺内での地位確立を重視したためか、筒井氏の家督に執着はなかったようで、順覚死後、西大寺に入っていた順弘が還俗して筒井氏惣領となります。
しかし順弘、光宣兄弟は、順覚が持っていた権益・川上五ヶ関代官職の相続巡って、対立を深めていくことになります。
川上五ヶ関とは、兵庫津(現神戸市)、淀(現京都市)、禁野(元大阪府枚方市)、渡辺(現大阪市)、神崎(元兵庫県尼崎市)の5つの津に設けられた関所で、この関所を通る船舶から徴収される関銭は、興福寺と春日大社の修造料に充てられていました。
1430(永享2)年にこの川上五ヶ関の代官職を将軍・足利義教は順覚に宛行い、5つの関所から上がる年数千貫という莫大な収入は、筒井氏の大きな権益となっていました。
川上五ヶ関の権益は、大和永享の乱で幕府方として奮闘する筒井氏への恩賞の意味合いが大きかったものと思われます。
大和永享の乱の只中に順覚が戦死すると、川上五ヶ関の代官職は光宣が引き継ぎましたが、筒井氏惣領となった順弘はこれを不服として代官職を要求。両者に対立が起こります。
順弘にすれば代官職は筒井氏に宛行われたものであるから、惣領である自分が継ぐのが当然と考えたのでしょう。
大和永享の乱の最中から燻りだした対立は、乱が終結した後、ついに表面化します。
1441(嘉吉元)年10月、光宣は実力で順弘を惣領から引きずり降ろしてて追放し、順弘は妻の実家の立野氏を頼ってその領地(現奈良県三郷町)へ落ち延びました。
その直後に、京都の相国寺に入っていた光宣の弟・順永が筒井氏惣領に名乗りを上げて還俗し、幕府から筒井氏惣領の地位を安堵されます。
反幕府勢力の多い大和国内で、一貫して幕府に従順な筒井氏は、幕府にとって最も信頼のおける武士であり、幕府は筒井氏の惣領不在状態が長期間続くことを望まなかったと見られます。
当初、光宣は順永の家督相続に反対していましたが、順永が川上五ヶ関の代官職を望まなかったことから和睦し、最終的に順永の家督相続を認めました。
この筒井氏の内紛が続く中、川上五ヶ関の権益を筒井氏から奪おうと狙ったのが、経覚でした。
経覚は筒井氏の内紛に乗じて川上五ヶ関を筒井氏の手から興福寺直轄に引き戻そうと画策し、興福寺へ川上五ヶ関からの関銭納入が滞っていることを理由に、幕府へ光宣の代官職罷免を要求します。
しかし1442(嘉吉2)年11月、光宣は軍勢を入れて南都七大寺を占拠閉門し、この時は経覚の企ては失敗に終わりました。
さて、筒井氏惣領の座を追われた順弘も、まだ復権と川上五ヶ関の権益を諦めていませんでした。
順弘は立野氏や南山城(現京都府木津川市)の木津氏、狛氏、山辺郡(現奈良県天理市)の豊田氏の後援を受け、眉間寺山に籠って光宣を討とうと準備を進めていたのです。
しかし光宣に先手を打たれ、眉間寺山を攻撃された順弘と立野氏は敗走し、援軍に間に合わなかった木津氏、狛氏は般若坂で迎撃されて敗死しました。
また、上街道を北上してきたと見られる豊田氏も、光宣は奈良南郊の岩井川河畔で迎撃して撃退しました。
それでも順弘はあきらめず、翌1443(嘉吉3)年1月には筒井氏と長年の敵対関係にあった越智氏の支援を受け、筒井城を奪います。
しかし順弘の筒井城復帰は長続きせず、翌2月には一族、内衆に背かれて順弘は殺害されてしまいました。
順弘の殺害は光宣の謀略との説もありますが、こうして筒井氏の内紛は、光宣・順永方の勝利で終わることになります。
同年6月、7代将軍・足利義勝が夭折し、弟の義政が9歳で8代将軍となります。
幼い将軍に幕政を主導できるはずもなく、管領・畠山持国の権勢はこの頃絶頂に達しました。
そして、管領・持国と通じた経覚や古市氏、越智氏ら反光宣・筒井氏の一党は、虎視眈々と奈良を牛耳る光宣の追い落としを狙っていたのです。
光宣と経覚の争い
筒井氏内部の争いに勝利した光宣でしたが、1443(嘉吉3)年9月に経覚を支援する古市胤仙、豊田頼英、小泉重弘らが奈良の光宣に攻めかかって奈良市中で合戦が起こります。
この戦いに敗れた光宣は奈良から筒井城へ退去。
前年に幕府管領となっていた畠山持国は、光宣を奈良から追った古市、豊田、小泉ら3名の官符衆徒による奈良の支配(検断)権を認め、川上五ヶ関の代官職を光宣から取り上げて興福寺の直轄にすることを認めました。
持国は畠山家当主の復帰間もない頃から、自分と同じように義教から冷遇された者に便宜を図り、自陣に取り込む動きを活発にしていましたが、義教によって失脚した経覚に対しても同様の動きを取ったのです。
翌1444(嘉吉4)年1月、経覚は幕府を通じて光宣に対する治罰綸旨(天皇による討伐令)を得て、越智氏や古市氏、小泉氏に筒井城攻略を命じます。
翌2月、古市氏は稗田(元奈良県大和郡山市)に陣を布き、越智軍は筒井城に迫りましたが筒井城は落ちず、2月には光宣方の反撃を受けて逆に京都の嵯峨まで追われてしまいました。
この光宣・筒井方逆襲の背後には管領・畠山持国の勢力拡大を牽制したい細川氏の支援がありました。
この時の細川氏当主は、嘉吉2年に父の死により家督を継いで間もない弱冠15歳の細川勝元。
後に応仁の乱で東軍の総大将となる人物で、大和での光宣、経覚の争いは管領家である細川氏、畠山氏の代理戦争と化していったのです。
その後体勢を立て直した経覚方は筒井氏の反撃に備えるため、同年6月興福寺境内に鬼薗山城を築きます。
ちなみに鬼薗山城の場所は、現在奈良ホテルのある小高い丘陵地で、興福寺一帯を見下ろせる位置にありました。
経覚方は鬼薗山城を拠点に光宣方拠点への攻撃を開始しますが、両者の攻防は一進一退を繰り返します。
局面に変化が起こるのは翌1445(文安2)年、管領が畠山持国から細川勝元に交代するのです。
遡ること2年前の1443(嘉吉3)年9月、将軍義勝の夭折による将軍交代で幕政が落ち着かない中、後南朝勢力300名が御所に押し入り、三種の神器の剣と勾玉を奪って比叡山に立て籠もる禁闕の変が起こります。
直ちに混乱は収拾されたものの、勾玉は1457(長禄元)年まで戻らず、神器を奪われるという失態を口実に、細川氏は畠山持国に管領交代を迫り続けた末の交代劇でした。
勝元の管領就任で幕府の光宣に対する圧迫が弱まると、光宣は猛然と反攻を開始します。
同年9月に筒井順永が経覚の籠る鬼薗山城を攻撃すると、ついに経覚は持ち堪えられず城を焼き、畠山氏の勢力圏であった葛上郡櫛羅(元奈良県御所市)の安位寺に落ち延びていきました。
この一戦後、光宣は川上五ヶ関の代官職を取り戻すとともに、先に治罰綸旨によって朝敵とされたことに勅免の綸旨を拝領します。
また、筒井順永は官符衆徒の地位を回復して奈良の検断権を再び握りました。
そして光宣は経覚が焼いた鬼薗山城を修築して、奈良における居城とします。
一方、安位寺に逃れた経覚は、1447(文安4)年4月に古市胤仙に招かれて古市城下の迎福寺へ移り、鬼薗山城の光宣と対峙しました。
奈良の鬼薗山城と奈良南郊の古市城に分かれた光宣方、経覚方の両陣営は、以後、10年にわたって大小の武力衝突を繰り返すことになります。
この間、興福寺境内を含む奈良で散発的な市街戦が繰り返された他、大和国全体が細川氏、光宣、筒井氏方と畠山氏、経覚、古市氏、越智氏方に分かれて争う事態となりました。
大和永享の乱以降、止むことのない争乱に大和国の庶民は疲弊し、1451(宝徳3)年10月にその不満はついに臨界に達します。
興福寺に対して徳政を求める大規模な土一揆、宝徳の土一揆が勃発するのです。
南都に乱入した一揆勢は元興寺近辺になだれ込んで民家に放火し、この時発生した火災で元興寺は金堂、小塔院の主要伽藍や寺地の多くが焼亡しました。
この混乱で元興寺は奈良時代以来の伽藍を失い、大幅に寺地が縮小。
荒廃した旧寺地には約100年後の永禄から天正年間にかけて人々の集住が始まり、興福寺の門前として発展しますが、この町こそ現在の奈良まちの原型となるのです。
さて、戦乱が長引いた大きな要因は、経覚を奉じて筒井氏を倒し、領土と権益の拡大を図りたい古市胤仙にあったようで、1453(享徳2)年に古市胤仙が死去すると、光宣と経覚の争いは急速に和解の方向へ進みます。
翌1454(享徳3)年12月には光宣と経覚の会談が実現し、ついに両者は和睦しました。
しかし、管領家・細川氏と畠山氏の争いなど、中央政局の対立と深く結びついた大和国の争乱は止むことはなく、畠山氏家督を巡る争いと、それを引き金とした天下の大乱・応仁の乱に大和の武士たちは否応なく巻き込まれていくことになるのです。
※次回はこちらです。
参考文献