大和徒然草子

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古市城~風流を愛した国人・古市氏の夢の跡を歩く

奈良市中心部から南へ3キロ足らずの場所にある古市は、15世紀の応仁の乱前後に最盛期を迎えた大乗院方衆徒・古市氏の本拠地です。

その居城であった古市城は中世城郭としては大規模で、応仁の乱の前後で古市氏当主となった古市胤仙とその子である胤栄・澄胤兄弟が当代きっての茶人・文化人だったことから、京都の公家や文化人らを招いて茶会、連歌会が開かれるなど、文化サロンともなった城郭です。

今は、奈良市南郊の田園に囲まれた静かな集落になっている古市城周辺ですが、その歴史と現在の様子を紹介します。

 

古市氏と古市城

古市城の場所はこちらで、東大寺前の交差点から真っ直ぐ3キロほど南下したところにあります。

古市は、元々福島市(ふくしまのいち)という興福寺の市場が置かれた場所でした。

鎌倉時代末期の乾元(1302~03年)頃に福島市が現在の奈良市紀寺町付近に移転したため、以後「古市」と呼ばれることになります。

古市氏は福島市下司職を務めた大乗院方衆徒で、史料上、鎌倉末期1325(正中2)年の古市但馬公の名が初見となる一族ですが、南北朝の頃までは目立った活躍のある国人ではありませんでした。

古市氏が一躍、有力国人となったのは古市胤仙が当主の時代で、1443(嘉吉3)年に興福寺の権益・川上五ヶ関を巡り、筒井氏出身の成身院光宣と元大乗院門跡の経覚が争うと、胤仙は経覚を支援して光宣、筒井氏と激しく争い、豊田氏、小泉氏とともに一時は奈良の治安を司る官符衆徒棟梁となるなど大きな活躍を見せました。

胤仙の子の胤栄も応仁の乱では西軍に属して筒井氏と抗争し、応仁の乱自体は東軍が勝利したものの、大和国内では古市氏、越智氏が筒井氏を没落させたため、胤栄の隠居に伴い家督を継いだ弟の澄胤は1478(文明10)年、官符衆徒棟梁となります。

 

また、胤栄、澄胤兄弟は侘茶の創始者村田珠光の高弟としても知られる茶人であり、一流の文化人という側面もありました。

村田珠光については下記記事もご一読ください。

胤栄は応仁の乱で京都が灰燼に帰すのを尻目に、都から疎開してきた貴族や文化人らを招いて茶の湯連歌会を大規模に催した他、自慢の風呂釜が壊れてその補修費をねん出するため、1469(文明元)年に念仏風流を参加費を取って興行するなど、古市で文化活動を活発に行います。

村田珠光から胤栄に伝えられた茶の湯は、古市氏に受け継がれ、流派を受け継いだ茶人・古市了和が江戸時代に小倉藩の茶道を務めたことから小笠原家に伝わり、小笠原流茶道古流として現在にまで伝わります。

 

さて、官符衆徒棟梁となった古市澄胤は、幕府政所執事の伊勢貞陸や管領細川政元らと結び、南山城守護代、大和半国の守護格となって古市氏の全盛期を築きましたが、度々国外勢力を大和国内に招き入れたため、国内での信用を徐々に失っていきました。

古市氏は、筒井、十市、箸尾、越智といった他の有力国人のように、大和国内各地に一族を配して領土的な基盤を強く持つことのできなかったため、自身の国内支配を強めるために国外勢力の力を利用する戦略を取らざるを得なかったのです。

1508(永正8)年に澄胤が河内での合戦に敗北して自害すると古市氏は没落し、筒井氏との抗争で度々古市城を焼かれては、東山中の鹿野園、鉢伏などに逼塞を余儀なくされました。

以後は小勢力ながら繰り返し外部勢力と結びつくことで勢力の回復を図るものの、最後に頼った松永久秀が1577(天正5)年に滅亡すると、古市氏は領地を失い歴史の表舞台から姿を消すことになります。

 

さて、古市氏が本城とした古市城がどのような姿をしていたかを見ていきましょう。

古市城は春日断層の断層崖から延びた台地の縁に築かれた城です。

下掲の図は現在の航空写真に、城郭の曲輪を記入した略図です。

北から二の郭、主郭と開析谷に区切られた台地を主要部とし、堀を挟んで小字・高山の丘陵部西端を堀切で遮断した曲輪までが、全盛期である古市澄胤の頃までの城跡と考えられています。

古市城周辺概略図(国土地理院HPより作成)

主郭と高山地区の出丸の間には巨大な堀があった他、城の西麓に広がる古市の町は江戸時代までは環濠集落でした。

応仁の乱で大和における東西両軍の軍事衝突が本格化する1475(文明7)年、『大乗院寺社雑事記』の同年二月六日条には「古市堀々之、越智人夫毎日三百人云々」という記述があり、同盟者である越智家栄の支援のもと、古市城周辺の堀が築造・整備されたことが分かります。

同時期の1466(文正元)年、若槻環濠(現奈良県大和郡山市)の堀が築造されていることから、この頃大和では各集落で盛んに環濠が造られていたと見られ、古市の町もすでに環濠集落化が完了していた可能性があります。

仮にこの時、城と城下を囲む堀が完成していたなら、戦国末期に出現する惣構の最も早い時期の出現例とする説もありますが、中世城郭である古市城に近世城郭のような周辺地域の中心としての求心性があるか、正直筆者は疑問に感じています。

もっとも、城の規模も含め、夢のある話ではありますけどね。

 

さらに南の小字・城山地区にも東から延びる丘陵の西端が堀切で遮断された城跡があります。

これは澄胤死後に旧城を追われて没落して古市氏が、松永氏に帰属した後に築城したものと見られています。

 

古市城跡

それでは、現在の城跡の様子を見ていきましょう。

城山

字・城山地区の城跡。

一見、雑木林のようにしか見えませんね。

上から見ると下図のような形で、東側から延びた丘陵の西端を堀切で遮断して郭としていることが分かります。

城山付近略図(国土地理院HPより作成)

発掘調査の結果、この場所は16世紀前半までは墓地で、古市氏の全盛期である15世紀後半までの時期は城郭ではなかったことが分かっています。

城跡から地蔵院川を隔てて南は藤原郷(現藤原町)で、『和州国民郷士記』の「藤原平城・藤原同順」という記述から藤原郷には城があったとされており、この城を在地国人・藤原氏の藤原城として紹介されている場合もあるようですが、城跡の位置は藤原郷ではないため筆者は「藤原平城」ではないと考えています。

※旧藤原郷内に「城」という現在は田畑が広がる字があるので、藤原城はそちらの可能性の方が高いかなと考えています。

 

ならばこの城跡は何なのかと言えば、16世紀中頃、筒井氏によって東山中に追われた古市氏が、再び国中へ進出するために新たに築いた城とする説の方に、筆者は説得力があると考えています。

江戸時代、伊勢藤堂家の古市奉行・北浦定政が1864(文久4)年に著わした『古市里の由来の事』によれば、字・城山の城は1558(永禄元)年、古市播磨守と同周防守が築いたとあり、この伝承は発掘調査から割り出された築城年代である16世紀中頃と矛盾しません。

翌1559(永禄2)年から三好長慶の命によって始まる松永久秀の大和侵攻に、古市氏は呼応しており、全盛期時代の旧城は東山中に逼塞していた当時の古市氏の兵力で入るには巨大過ぎたため、平野部への橋頭保として東西130m、南北50~70mほどの小規模な新城を築いたのではないかと城跡の調査資料では指摘されており、私もこの見解は蓋然性が高いと考えます。

 

高山

主郭のある字・上ノ段から堀を挟んで南にあるのが高山地区の曲輪跡です。

こちらも東から延びた舌状台地の西端が堀切で遮断された形になっています。

高山付近概略図(国土地理院HPより作成)

堀切の東側にも平坦地があり、現在竹藪になっていますがこちらも曲輪の跡と推定されるとのこと。

主郭との間にある八反池は堀池跡とされ、付近から堀の跡とみられる痕跡も検出されています。

奥の台地が主郭の字・上ノ段で、現在は大部分が東市小学校の敷地です。

 

堀底から城跡の方に入っていきます。

丘陵上部は削平されており、平坦地が続いています。

 

平坦地を西に進むと、堀切が見えてきました。

大まかな地形以外に往時の旧態をほとんど残さない古市城跡にあって、表面観察可能な貴重な遺構になります。

 

堀切の東側は削平地が続きますが、そのまま東側の台地と地続きで、曲輪としての境界がよくわかりませんでした。

後年、耕作地化が進んで地形が大きく変わってしまい、堀などが埋められてしまったのかもしれないですね。

上ノ段(主郭部)~古城(二の郭)

15世紀、古市氏の最盛期に古市城の主要部を占めていたと考えられるのが、字・古城、字・上ノ段です。

上ノ段・古城付近略図(国土地理院HPより作成)

西麓の古市の町から15mほど高い台地の上に、開折谷で区切られた南北二つの曲輪によって構成された城郭になります。

二の郭と主郭を合わせたその範囲は南北約400m、東西約150~180mと、室町中期の国人領主の居城としては、型破りに広大な範囲となります。

当記事でご紹介している古市城の略図は、『日本城郭体系第10巻』で村田修三氏が提示されたものを参考に作成していますが、近年ではこの常識外れに広い城域に批判も提示されていて、北側の字・古城のみが古市氏の城館との説もあります。

この場合だと150m四方程度の屋敷地で、中世奈良の有力国人の居館としては常識的なサイズ感ともいえるでしょう。

先述の『古市里の由来の事』にも、戦国時代以前の古市氏の城館について「城跡ハ氏神ノ東北ニアリ、字古城ト云フ」との記述があり、元々の古市氏居館は、北側の字・古城にあったことを示唆しています。

 

字・上ノ段については、古市の迎福寺(現在廃寺で詳細な所在地は不明)に1447年から応仁の乱の真っ最中である1473(文明5)年まで住んだ元大乗院門跡・経覚の日記『経覚私要鈔』に、度々「上壇辺地下者」といった記述が散見されます。

この「上壇」とは、現在の字・上ノ段と見てほぼ間違いなく、少なくとも応仁の乱以前は「地下者」すなわち庶民が暮らす地域で、城郭化されていなかった可能性が高いと考えられます。

ただし、先述の通り、大和における応仁の乱が激化する1475(文明7)年に、越智氏の人夫を動員した大規模な堀の造営が史料上確認でき、発掘調査でも現在「古市城跡」の碑が立つ東市小学校の校庭南端で土塁跡、校庭南崖下から堀跡とみられる痕跡が発見されていることから、来るべき東軍・筒井勢との戦いに備えてより要害性の高い上ノ段地域に、城域を大幅拡張した可能性は十分にあるかと考えます。

なんといっても一時は南山城と大和半国の守護格という、大和国人としては空前の権勢を誇った古市氏の居城ですから、最盛期の本拠としてはふさわしい規模と言えるでしょう。

ただ、昭和55年の発掘調査では、上ノ段からは唐物とみられる青磁碗などは発掘されたものの、柱穴など顕著な城郭遺構が検出されなかったのも事実なので、その実像はまだまだ謎に包まれている城郭です。

 

東から見た主郭・上ノ段地域です。東市小学校の校舎が見えます。

小学校校庭東側は堀跡と見られますが、発掘調査では堀跡など目立った遺構は検出されなかったとのこと。

南側から見た主郭。

下から8mほどの高台で、崖の中ほどに帯曲輪とみられる平坦部も残っています。

東市幼稚園の北側の道路を小学校正門方向へ歩きます。

明治の頃、幼稚園の西側は大きく落ち込んで池になっていたため、東へ続く堀があったのではと推定されたときもありましたが、発掘調査の結果、堀跡は検出されなかったとのこと。

この付近に堀切がないと、上ノ段は東の丘陵部と地続きで遮断する堀や崖がないので、要害性が大きく低下します。

高山地区、古城地区も同じなのですが、曲輪の東側について輪郭が地形上ぼんやりしており明確に堀などで遮断されていないのも、現在の古市城跡の特徴。

もっとも筒井氏と古市氏で何度も取ったり取られたりを繰り返している点からも、そもそも要害性の低い城郭だった可能性もあり、16世紀中頃、城山地区に改めて要害性の高い城が築かれた原因も、防御上問題が大きかったからかもしれないですね。

 

古市郵便局から北側へは急激に下りになっていて、開折谷の底は現在交差点になっています。

谷の北側、光ヶ丘県営高円団地になっている台地上が字・古城で、旧来の古市氏居館跡があったとされる場所です。

古市氏は先述の通り、風流を愛した当主が続き、連歌や風流踊りなどの文化イベントがその屋敷で何度も開催されました。

中でも夏に風呂と茶の湯、宴会で客をもてなす「淋汗(林間)茶湯」が頻繁に行われていたことで知られます。

数寄を凝らした豪華な風呂で心身をリフレッシュしながら、庭の景色を楽しみ、お茶や酒肴に舌鼓を打つというものでした。

当時の風呂と言えばサウナなので、心も胃袋も「ととのう」贅沢なイベントが、この地で行われていたのです。

 

小学校の南西側に回ってくると、校内へ登っていく通路があります。

通路を上がると、古市城跡の石碑がひっそり立っていました。

この城跡碑、崖になっている西側を向いてて、校庭からは見えないし、崖の下からも実に見えづらい場所にあります。。。

もうちょっと目立つところに建てればいいのにと思ったり(苦笑)

 

台地の上からの眺望は抜群で、西は生駒山までしっかり見えます。

南西方向を見ると奈良盆地が一望できます。

この風景を見ると、城郭をここに置きたい気持ちもよくわかりますね。

古市の町

古市城西麓の古市の町に下ってきました。

こちらは集落から東市小学校に向かって伸びる旧正門跡かと思います。

現在は階段の先が交通量の多い道路になっていて、学校へ続く道も切れていました。

 

奈良、興福寺の大乗院へと続いた集落内の旧街道沿いには、歴史を感じる町屋も残されています。

南北500mにわたって江戸時代以来の民家がちらほら残る町場が続きます。

中世史料『大乗院寺社雑事記』や『経覚私要鈔』の中で度々民家がたくさん焼けた火災の記事が散見されることから、古市氏全盛の15世紀には民家が密集する町だったことが分かっています。

 

集落の中央からやや北側、御前原石立命神社前は少し広めのスペースになっており、地元消防団のポンプ保管庫や集会所があります。

こちらの場所は江戸時代まで札場でした。

奈良の古い集落でよく見かける住民の共有スペースです。

 

こちらが御前原石立命神社の境内。

背後は古市城になります。

石段を登ると、拝殿と本殿が見えてきます。

朱塗りの奇麗な社殿です。

中央の本殿には主祭神御前原石立命が祀られています。

詳しい由緒は不明ですが石立命という神名からもとは磐座を中心とした山の神の信仰から始まったと推定されます。

右殿は御霊神社で祭神は崇道天皇こと早良親王、左殿は春日社

 

御前原石立命神社から街道を北に進むと、道沿いに蔵が見えてきます。

こちらは旧伊勢藤堂家代官所の蔵。

江戸時代、伊勢藤堂家は添上郡山辺郡にかけて上街道沿いに大きな所領を持っていました。

この奈良盆地東縁の領地を治める代官所があったのが古市で、代官所の南側にあった蔵だけが現在残されています。

 

参考文献

『奈良市埋蔵文化財調査報告書 昭和55年度』 奈良市教育委員会 編

『日本城郭大系 第10巻』 平井聖 [ほか]編修

『奈良市史 通史 2』 奈良市史編集審議会 編

『室町期畿内における町場の構造一 『経覚私要鈔』 に描かれた大和国古市郷』 清水克行 

『大日本史料 第8編之1』 東京大学史料編纂所 編

『中世の民衆と文化 (創元歴史選書)』 永島福太郎