大和徒然草子

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上街道沿いの幻の中世城跡・井戸城と別所城~上街道散歩(2)

奈良県内には環濠集落も含めると約560もの城郭が存在するとされますが、文献には登場せず、当時の呼び名もわからない城跡が多数あります。

そんな中、逆に史料上頻出しながら位置を特定できていない城郭もあります。

今回ご紹介する井戸城もそんな城郭の一つです。

 

井戸城とは

井戸城は井戸氏の拠点として史料上に度々その名が現れる城跡です。

井戸氏は一乗院方坊人・衆徒で、血縁関係にあった筒井氏と行動を共にしていたこともあり、中世大和の歴史に度々姿を現す一族でした。

1429(正長2)~39(永享11)年まで、10年間にわたって大和国内全土を巻き込んだ大乱・大和永享の乱は、井戸氏が近隣の豊田氏と起こした小競り合いが原因でした。

また、戦国末期の当主・井戸良弘筒井順慶重臣として活躍し、松永久秀との抗争では大和の覇権を決めた辰市城の戦いで辰市城を築城して久秀の大軍を迎え撃った他、本能寺の変では順慶の意を汲んだのか明智光秀方に付いて行動するなど、陰に陽に順慶を支えた名将でした。

良弘の子・覚弘筒井定次に仕えて伊賀に移りましたが、筒井氏改易後は徳川秀忠に仕え常陸国下野国に合わせて3千石余りの領地を与えられて移り、以後井戸氏は江戸時代を通じて幕府旗本として存続。

戦国末期に姿を消した大和武士たちが多い中、生き残った数少ない氏族になりました

 

このように室町時代から戦国時代にかけ、活発な動きを見せた井戸氏の居城ということで、応仁の乱後を中心に井戸城も度々登場します。

1506(永正3)年に管領細川政元が家臣の赤沢朝経を派遣して、河内の畠山義英(応仁の乱西軍の主将の一人・畠山義就の孫)を討伐した際、大和へ落ちた義英を追って大和へ進入した朝経を迎え撃つべく、筒井氏らが拠ったのが井戸城でした。

また、1559(永禄2)年に始まる松永久秀の大和侵攻に際しては、筒井方の重要拠点として何度も激しい攻防の舞台となります。

 

このように井戸城は史料上何度もその姿を現すのですが、実はその所在地が確定していません。

確かな場所を示す同時代の一次史料は現在確認されておらず、江戸時代に書かれた二次史料にはいくつか記述があります。

江戸期の軍記物である『筒井諸紀』には、「井戸氏ノ領村幷城地ハ式下郡結崎村井戸(中略)天正ノ比添上郡辰市杏村トモ西九条村トモ云、(中略)山辺郡田部別所村平尾山、」、「此内結崎井戸村ト云アリ、井戸氏先祖ノ地也、」とあります。

また、享保年間に編纂された地誌『大和志料』には「磯上塁」が「井戶若狹守據」とあります。

一見してわかるように、史料上でも「井戸城」と示される場所はバラバラであることが分かりますが、各記述の場所が、現在のどこにあたるのかは以下の通りになります。

 

「結崎村井戸」は、現在の川西町結崎にある井戸環濠を指しています。

元々井戸氏発祥の地と考えられ、近辺で発生した合戦で実際に「井戸城」として登場する例もあります。

次に「天正ノ比添上郡辰市杏村トモ西九条村」とありますが、こちらは1571(元亀2)年の「辰市城の戦い」で戦場となった辰市城(現奈良市東区城町)のことと考えられます。

山辺郡田部別所村平尾山」ですが、平尾山は現在の西名阪自動車道・天理ICの南東にある丘陵地で、基本的には石上村(現天理市石上町)に属する地域でした。

しかし、平尾山に隣接する別所村(現天理市別所町)には別所城があり、こちらを指しているものとも考えられます。

最後の「磯上塁」については、現在石上市神社付近の小字が、古城、古屋敷、大門と、かつての城館を示唆する字名であることから、こちらのエリアにあった城郭と推定されます。

このように井戸城には、いくつか候補地はあるのですが、大和永享の乱で抗争した豊田氏との位置関係から、天理市内にあった別所城、磯上塁が候補としては妥当で、『天理市史』では「磯上塁」であろうと推定しています。

筆者も『天理市史』の推定が正しいと考えています。

というもの別所城は、大乗院方衆徒であった萩別所氏の居館跡とされており、磯上塁の推定地は古代官道・上ツ道に由来する上街道沿いの要地にあって、有力国人が本拠を置くのにふさわしい立地であり、小字・大門の前にある花園寺(けおんじ)に井戸氏ゆかりの石仏・石碑が現存している点も、磯上塁が井戸氏居館であったことを強く示唆していると考えるからです。

 

井戸城(磯上塁)と別所城の所在地は下記のとおりです。

天理ICから南へ400mくらいの場所になります。

井戸城と別所城の位置関係は下図の通りで、ともに中世大和の主要南北幹線だった上街道に接続しやすい位置にありました。

井戸城・別所城周辺図(国土地理院HPより作成)

筒井城は下街道と奈良街道の辻、箸尾城は下街道沿い、十市城は中街道といった具合で、中世大和武士の居館跡って本当に旧街道近辺に多くて、経済活動と武士たちが密接にかかわっていたことが居城の立地から読み取れますね。

 

井戸城(磯上塁)周辺

下図は井戸城周辺の現在の航空写真です。

井戸城城域想定図(国土地理院HPより作成)

城域は古城、古屋敷、大門の小字の範囲と推定して記入しました。

井戸城近辺は文禄の太閤検地の記録が残っていて、屋敷総数が85のうち、街道に面していたのが25、古城およびその隣接地に35の屋敷があり、その他は点在していたようです。

現在では城跡付近は田畑になっていますが、古くからの町並みが、かつての城跡を中心に残っている様子が、航空写真からもうかがえます。

 

こちらは上街道側から、城跡推定地の北西角付近。

幅広の水路が流れています。

水路の上に街道沿いに散在していた像が集められたのか、古い石仏がお堂の中に収められています。

形状から中世以前の古い石仏も含まれているように見えます。

 

水路は幼稚園の敷地南側を流れて東へ向かって続きます。

城域と見られる小字・古屋敷の北辺と、水路の流路がほぼ一致しているため、堀跡かと考えられます。

 

城域北西部に鎮座しているのが、延喜式内社の石上市神社です。

元々、現在地からは東側の平尾にありましたが貞享年間(1684~88年)に現在地へ移転されました。

境内には「平尾天神宮」という石灯籠がたくさんあるのはそのためです。

現在のご祭神は少名彦名命

江戸時代までは神宮寺である修福寺がありましたが、明治の神仏分離令で廃寺となり、現在は境内奥の観音堂に、本尊だった十一面観音像が安置されているとのこと。

 

石上市神社の鳥居前から南、城郭中心部を望みます。

東側の方が高くなっており、現在畑地となっている古城の南側や古屋敷の石上市神社境内東側が主郭だったのかなあとしばし妄想。

微かな地形上の痕跡のみで明確な城郭遺構は残っていませんが、もしこちらの農地が宅地化される際などは、事前に発掘調査をぜひ行ってほしいところです。

 

再び上街道に戻ってきました。

街道脇の水路はずっと南に田部、別所の集落まで続きます。

 

上街道沿いで井戸城のかつての大手口と思しき小字・大門の前にあるのが、浄土宗寺院の花園寺(けおんじ)です。

 

境内には多くの石仏、石碑があるのですが、こちらの阿弥陀仏の石像は1553(天文22)年に井戸良弘が父・覚弘と自身の逆修(生前供養)のために建立した逆修碑と見られます。

石上の地と井戸氏の強い関係を深く示唆する石仏ですね。

 

この碑以外にも多くの16世紀・室町後期の石碑、石仏があるお寺です。

上述の阿弥陀石仏の向かいにはお地蔵さんとともに、中世以前の古い石仏が並んでいます。

奥の一番左の阿弥陀石仏は、1566(永禄9)年の銘。

同じく奥の左から二つ目は、珍しい舟形の六地蔵板碑で1540(天文9)年の銘で、珍しい室町時代以前の石仏になります。

石仏ってなかなか文化財指定されないイメージがありますが、室町時代以前の石仏は非常に珍しいので、刻銘から年代が明らかで状態の良いものは、積極的に文化財指定して行くべきじゃないかと思います。

 

城跡推定地を南から望みます。

井戸城は1568(永禄11)年に織田信長の上洛により、その後援を受けた松永久秀によって平野部の筒井方諸城が次々と落城する中、1570(元亀元)年まで井戸良弘と筒井氏の宿老格・松倉権助が籠城し、頑強に抵抗を続けました。

この抵抗に手を焼いた久秀の打った手が、『多聞院日記』永禄十三(1570)年二月二十二日の条に、「今日井戸ノムスメ・松蔵権介息久シクロウニ入、アエナク指縄ニテシメコロシ、城ノ近邊ニ串ニ指了、」と記されています。

久秀は人質としていた井戸良弘の8歳の娘と松倉権介の11歳の息子を絞め殺したうえ、串刺しにして井戸城近傍に晒すという酸鼻を極める残酷な処刑を実行したのです。

井戸城は翌月、松永方の夜襲で陥落しますが、この時建物は焼き払われ、いったん破却されたと『多聞院日記』には記録されています。

翌1571(元亀2)年には井戸城周辺は再び筒井方に奪回されましたが、この時井戸城が再建されたかどうかは不明です。

1580(天正8)年には織田信長の命令で大和国内の城は郡山城を除いて破却されましたから、この時に完全に廃城となったのでしょう。

 

現在の城跡一帯は、堀も土塁も取り払われ一面の田畑ですが、松永氏と数年にわたる籠城戦を戦い抜いた城郭ですので、大規模な堀や土塁を巡らした堅固な城郭だったと考えられます。

発掘で城跡と確認されていないので、案内板なども設置されていませんが、奈良県の中世史上、井戸城は重要な城郭でもあるので、何かの機会に調査が行われればと思います。

 

上街道(石上町~田部町)

蔵や古い街村の町並みが続く上街道沿いを南下します。

上街道は現在の国道169号線にほぼ並走する街道で、ならまち、帯解、櫟本を経て丹波市、三輪、桜井へと続き、中世から近世にかけては中街道、下街道と並び大和国の南北をつなぐ主要幹線道として機能しました。

 

田部集落の入り口に天照皇大神宮の大きな常夜灯があります。

桜井で伊勢本街道と接続する上街道は、伊勢参りの参詣道でもありました。

集落の出入り口付近にある結界のお堂も、古い街道ではお馴染みの光景です。

櫟本から田部付近までは、江戸、明治頃の建築と思しき、つし二階の古民家や蔵が、街道沿いに散在しています。

上街道はこちらの三叉路を南(写真では右斜め上方向)に進み、田部の集落内に向かいます。

用水路沿いに東へ進むと別所町へ進みます。

三叉路の東隅にある庚申堂に、かわいい三猿がありました。

別所城近辺

上街道の上述三叉路から東に進み、国道169号線を越えたところに別所の集落があります。

東から細長く伸びた舌状台地の先、小字・里中のエリア内が、別所城の城域と目されます。

別所城周辺(国土地理院HPより作成)

集落内に入る道は北に一つ、南に二つの計3つで、南側の一つは木橋にしておけば外敵を遮断できるようになっています。

侵入者のルートをコントロールしやすい造りで、もともと城館だったことをにおわせる造りにですね。

こちらの別所城は、上総庄(現天理市上総町)給主職にあった大乗院衆徒・萩別所氏の居城(居館)とされている城跡です。

 

井戸氏、豊田氏という著名な国人に挟まれた萩別所氏は、その活動が史料上あまり現れません。

戦国末期まで筒井氏と行動を共にしていたようで、応仁の乱後に没落して領地を追われた筒井方国人の中に萩別所の名が見えるほか、1583(天正11)年5月に筒井順慶土豪・牢人衆鎮圧のため伊賀へ出兵し、夜襲を受けて多くの戦死者を出した際に戦死者の中にもその名も見えます。

近世以降の萩別所氏の詳細は不明ですが、筒井定次伊賀転封に従って伊賀に移ったか、在地に残って帰農したものと考えられます。

 

さて、それでは別所の集落内の様子をご紹介していきます。

集落の南側を流れる水路も濠の役割を担っていたと思われますが、現在集落内に入るコンクリート製の橋は、元は木橋だったのかもしれません。

水路の北側から急に土地が高くなっています。

集落内は長屋門を備えた大きな農家のお屋敷が軒を連ねています。

集落中央の少し広くなっているエリアに「愛宕山」の常夜灯がありました。

愛宕信仰は火伏の御利益を願うものですが、狭い路地の中を挟んで家屋が密集していますので、防火に熱心な集落だったようです。

路地の一角には防火用水もありました。

集落中央を南北に堀があります。

東(写真右)側のお屋敷が、かつての主郭部でしょうか。

また現在はコンクリートで蓋をされていますが、愛宕山の常夜灯付近まで元々堀で、東西に曲輪を遮断していたと考えられます。

 

堀は集落の北辺で東へ折れます。

幅広の大きな堀で、集落内に残された微かな城郭の痕跡です。

堀の内側に少し盛り上がりがあって土塁跡かもしれませんが、畑地になっているので判然としませんでした。

 

また、堀の北側に土塁のような盛り上がりがありますが、これは堀の外側になるためこれは土塁の跡ではなく、堀底の泥を浚ったものが折り重なったものかなと思われます。

こちらの竹やぶは元々土塁だったのかもしれませんね。

集落の東側はどこまで城郭が続いていたのか地形的に判然としませんでした。

東側の方が標高が高いので、そこを抑えられたら集落は弓の的になってしまい、このままでは城地には向かない印象です。

もとは東側にも大きな堀切などがあったのかもしれません。

 

現在の集落内の路地は堀切であった可能性もありますが、集落内は削平されていて城地だったころの面影は残っていません。

しかしながら、白壁の美しい蔵や伝統建築の家屋が軒を連ね、伝統的な奈良の集村風景が残るとてもよい集落でした。

 

さて、井戸城と考えられる上街道沿いの二つの城跡を今回訪ねました。

実際に訪れてみて、規模、立地などからも石上町にあったのではないかという印象です。

別所城については、井戸氏が入るには規模が小さい印象なのですが、仮に別所から平尾山にかけての丘陵地全体が城塞化されていたのであれば、戦国時代に相次いで大和へ侵攻した赤沢朝経、松永久秀に対抗する平野部最後の拠点として筒井方が大挙籠った城としては十分な規模とも考えます。

もっとも伝承上も地籍や字名からも、城跡があったようには現状考えられないですが(苦笑)

 

今回散策した地域は、筒井氏の「山ノ城」である椿尾上城や、東山中の重要拠点である福住城へ通じる要所であったため、この地にあった井戸城は幾度も戦いの舞台になりました。

今は静かな奈良の原風景が広がる田園地帯に、戦国時代、どのような光景が広がっていたのか想像がつきません。

参考文献

『天理市史』 天理市史編纂委員会 編

『図説日本の城郭シリーズ17 奈良中世城郭事典』 高田徹

『寛政重脩諸家譜 第6輯』

『大和志料 中巻 改訂』

『多聞院日記 第2巻』 英俊

 

上街道の散策スポット

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