皆さんこんにちは。
奈良県大和郡山市といえば、江戸時代に柳澤氏15万石の城下町だったことで知られますが、郡山以外にも、もう一つ城下町がありました。
片桐氏、1万1千石の本拠であった小泉城とその城下の小泉の町です。
小泉城は江戸時代には陣屋の扱いながら、二重の堀で守られた大規模な城郭でしたが、明治に廃城となって城跡は住宅街に飲み込まれ、現在は予備知識なしにその痕跡を見つけるのは少し難しい城跡になっています。
そこで当記事では、小泉城とその城下の見所を地図や写真を交えて、ご紹介します。
小泉城とは
小泉城の場所はこちら。
JR大和路線(関西本線)の大和小泉駅西口から県道123号線を北西へ進んだ、富雄川西岸の丘陵突端部にあります。
中世は在地の国人・小泉氏が居館を置いた地でしたが、1601(慶長6)年に豊臣家の家老である片桐貞隆(賤ヶ岳の七本鎗・片桐且元の弟)が小泉に領地を与えられ、1627(元和9)年に本拠として整備を開始し、城の内郭や外郭、現在の小泉の町の基本的な町割りを行いました。
※小泉城の成り立ちについての詳しい記事は、下記をご一読ください。
こちらは1690(元禄3)年頃の小泉城とその城下の様子を描いた絵図です。
現在はJR大和小泉駅前から延びる駅前通りから富雄川を渡る橋が架橋されていますが、江戸時代に橋はかかっていなかったことが分かります。
片桐氏時代の小泉城の縄張りとその城下の概略を現在の航空写真に重ねると、下図の通りになります。
(※堀の位置などは『日本城郭全集』等の参考資料と現地に残っている水路などから記入しています。)
小泉城は主郭を囲む内堀の外に長大な外堀が築かれており、奈良県内の陣屋では最大規模のうえに構造も複雑で、まさに「城」と呼んで差し支えない城郭だったことが分かります。
富雄川を挟んで東側は村方の「市場」、西側は町方の「北ノ町」「中ノ町」「本町」「西方」が置かれて城下を形成し、大坂と奈良を結ぶ街道が城下を通って北は郡山、奈良、南は法隆寺、龍田へと通じていました。
また、外堀と町方の間は現在ほとんどが住宅地となっていますが、江戸時代までは一面湿田地帯でした。
JR大和小泉駅~大手枡形跡
それでは、小泉の城下に入っていきます。
JR大和小泉駅西口から城下町へ入り、大手口を目指します。
①市場の楠地蔵
JR大和小泉駅の西口ロータリーから北西に延びる駅前通り(県道123号線・大和小泉停車場松尾寺線)を道なりに進んでいきます。
富雄川の堤防に差し掛かると、一本松大明神の小さな祠と市場の楠地蔵があります。
楠地蔵は昔富雄川の上流から流れ着いた「楠の化石」とされた南無阿弥陀仏の六字名号碑と2体のお地蔵さん。
向かって右側のお地蔵さんですが、後背の右側が赤茶色に変色しているのがわかるでしょうか。
これは昔子どもがこの石仏の前で相撲を取っていて遊んでいたところ、この石仏が倒れてきて下敷きとなって亡くなり、その時の返り血で変色したものと伝わります。
おそらく、お地蔵さんの前で子ども達が悪ふざけしないよう戒めるために伝えられたお話でしょう。
なんともおどろおどろしいお話の一方で、なんでも願い事を叶えてくれると、地元の人から大切にされているお地蔵さんでもあります。
②大神宮常夜灯
富雄川を西に渡っていきます。
橋を渡って堤防を西に下ると、大きな大神宮の常夜灯が立っています。
小泉でも江戸時代、おかげ参りが盛んだったようで、こちら以外にも市場の集落内や、北ノ町の北を出た街道沿いにも大神宮常夜灯があります。
大神宮常夜灯から、奈良街道沿いに中ノ町を北に進みます。
中ノ町や北ノ町には街道沿いに江戸時代からの町屋建築がいくつか残され、城下町時代の風情が今も随所に漂います。
③金輪院
中ノ町の北端で街道が左折れにクランクしていますが、通りの先に金輪院の山門が見えてきます。
天台宗寺院で、「小泉の庚申さん」「小泉庚申堂」の通称で親しまれているお寺。
1659(万治2)年に2代藩主片桐定昌(石州)の家臣で茶人の藤林宗源により創建されました。
庚申さんなので、瓦屋根のいたるところに可愛いお猿さんが隠れていますので、探してみるのも楽しいです。
金輪院の脇にある片桐村道路元標。
こちらは金輪院の西門で、小泉陣屋の移築門とのこと。
この門が移築門であることを示す、確度の高い資料は見つからなかったのですが、寺院内の建築で、この門にだけ降り棟鬼飾りに片桐氏の家紋である「割り違い鷹の羽」が刻まれていることもあり、おそらく間違いないと考えます。
貴重な陣屋の現存遺構になりますね。
④大手枡形跡
金輪院から街道を北に向かって最初の丁字路交差点から、西に延びる小さな路地が、江戸時代に小泉城の表口だった大手道です。
大手道を西に進むと、江戸時代までは塀で囲まれた枡形が形成されていました。
下の写真正面に見える広場(北之町集会所)と道路が枡形跡になります。
大手道から進むと、南、北、南と三回折れる枡形でした。
この枡形の先に大手門があったとされます。
親子塚~外堀~主郭
それではいよいよ城内に入っていきます。
⑤親子塚
大手の枡形を抜けると上り坂になっています。
その南側は台地の縁に造られたかつての土塁の跡と考えられえる藪になっていますが、その中に親子塚があります。
1613(慶長18)年に小泉で起こった仇討ち事件で亡くなった親子のお墓と伝わります。
そのあらましですが、育ての親を殺された明石藩の若侍が、小泉でその仇を討ったが、仇討ち相手が実の父で、若侍もその後を追うように自害したというもの。
こちらのお話は絵本にもなっているようですね。
⑥外堀(東側)
親子塚から県道123号線へ回り込み東に進むと、北側に残された外堀が見えてきます。
藪中の水たまりのようになっていますが、東側の外堀になります。
外堀跡向かいにある、昔駐在所だった場所の脇に、「片桐城址」の碑が立っています。
この奥の階段を上がると主郭跡になります。
城跡碑のそばに南へ伸びる水路がありますが、こちらも外堀の跡になります。
⑦外堀(南東側)
南東側に回り込むと、現在最もきれいに水堀として残っている外堀に出られます。
小泉城の堀跡では、年中安定して水をたたえた姿を見られるスポットです。
南の住宅地奥にある児童公園から、水路として南へ伸びる外堀跡が見られます。
冬場~春先に訪れると、草があまり伸びてなくて堀の様子が観察しやすいですね。
⑧主郭(城跡碑)
「片桐城址」の城跡碑前まで戻り、奥の階段を登ります。
主郭との高低差を非常に感じられる場所です。
階段を上がると「小泉城趾」の大きな石碑が立っています。
現在主郭一帯は完全に住宅地と化していますが、1960(昭和35)年までは旧片桐中学校の敷地でした。
城跡碑の脇に旧片桐中学校建設のまつわる顕彰碑も設置されています。
下掲は1960年頃の主郭一帯を撮影した航空写真。
旧片桐中学校の校舎や校庭が主郭部一帯に広がっているのが分かります。
ちなみに、旧片桐中学校は、現在の片桐中学校と直接のつながりはなく、1961(昭和36)年に旧昭和中学校と統合されて現在の郡山南中学校になって廃止されました。
現在城跡碑が立っている場所は、中学校のあった台地の東端で、階段も中学校の開設とともに通学用に造られたものでしょう。
⑨主郭西端
再び県道123号線に戻って西へ進みます。
畑の手前で南に延びる道路が主郭の西端になります。
JR大和小泉駅から松尾寺まで続く県道123号線は、明治以降に造られた新道で、「片桐城址」の碑からこちらの付近までは、元々小泉城主郭北側の堀でした。
主郭の堀はこちらから南に折れ、陣屋の御殿表門へ向かう道が並走していました。
畑の脇に堀の石垣と思しき石がごろごろと転がっていました。
⑩主郭南端
住宅地を南に抜けると、主郭南側の内堀であるお庭池に向かっていっきに下ります。
こちらは、主郭のある台地との高低差を観察しやすいポイントです。
主郭がある台地上から池の端まで3mほどの高低差があるでしょうか。
江戸時代、主郭南端部の平場には、お庭池に沿って倉庫が立っていました。
高林庵~ナギナタ池~お庭池
主郭から西に進み、小泉城跡で最も城跡らしいポイントへ向かいます。
⑪高林庵
主郭方面から城内を西へ向かうと、白漆喰やなまこ壁、櫓のような城郭風の建物が見えてきます。
こちらは旧小泉藩主家の片桐家の居宅で、現在は『石州流茶道宗家』の本部・高林庵です。
小泉片桐氏の2代藩主・貞昌は、茶人・片桐石州として江戸時代の大名茶道の一大流派となった石州流を興した人物として知られます。
県道123号線沿いに見える高林庵の佇まいは、江戸時代の武家屋敷の遺風を現在に伝えています。
⑫ナギナタ池
高林庵の西側を沿うように水をたたえるナギナタ池は、小泉城の西を固める水堀として機能していました。
冬場は農閑期なので、水は池の南東側にしかありませんが、石垣がよく見えます。
水堀に屋敷の建物や復元櫓が見えるこちらのスポットが、小泉城で最も城跡らしい光景が見られる場所と言えるでしょう。
春は桜が奇麗な場所でもあります。
⑬お庭池
ナギナタ池との間の土橋から藪の間に見える池が、主郭の南を守る水堀跡のお庭池です。
農繁期は水をたたえていますが、藪が生い茂って少し見ずらいですね。
こちらは池の南側。訪れた時は冬場で池の水がありませんでしたが、非常に幅広で大きな池です。
対岸は現在住宅が並んでいますが、江戸時代までは城の倉庫となっていました。
小白水~小泉神社
ナギナタ池から西に向かい、西側の外堀沿いに進んでいきます。
⑭小白水
ナギナタ池の北側に外堀がありました。
畑にうっすらと堀跡らしき凸凹が残っていますが、おそらく丘陵部であるこの辺りは空堀だったのだろうと思います。
ホームセンターの北側を走る県道9号線も、ホームセンターの前の交差点から、ガソリンスタンドの手前ぐらいまでが、かつては堀でした。
県道9号線を西に進むと、小泉城外郭の西北縁に小白水という泉があります。
こちらは小泉の地名の由来になったとされる泉で、江戸時代は藩主のお茶の水として使われていたとのこと。
外堀の西側は、丘陵の縁に沿うように現在は水路となってその跡が残されています
⑮土塁
外堀沿いに西から台地の縁に沿って進むと、小泉神社の鳥居が見えてきました。
神社の東側は江戸時代までは堀があり、それと並んで奈良街道から城内に向かう通路もありました。
写真の位置から見ると大変分かりやすいですが、神社の境内は東側を堀沿いに通る通路より3~5mほど高所にあり、場内に侵入する敵に対して横矢を掛けられる造りになっています。
小泉神社の境内が、小泉城南側の防御の要となる曲輪としても機能していたことがよくわかる場所ですね。
小泉神社の東隣、急な坂を上り切ったあたりに東西に細く伸びた竹藪があります。
位置的にも形状的にも土塁の跡と思われます。
⑯小泉神社
最後のスポットが小泉神社です。
こちらの表門は、小泉陣屋の移築門と伝わります。
当社のご祭神は素戔嗚尊と誉田別命で、由緒や創建年は不明ながら、本殿は室町時代末期の造営とされ、国の重要文化財に指定されています。
普段は門扉で閉ざされて玉垣に囲まれた本殿を見ることはできませんが、お正月や祭礼の時は開扉されて、その姿を見ることができます。
まとめ
ここまで駆け足に小泉城の見所をご紹介してきました。
一般に「陣屋」といえば、ともすれば武家屋敷に形ばかりの堀などを備えただけのものと思われがちですが、小泉はその規模や防備の仕掛けを見る限り、十分に城郭としての機能を持っていたと考えられます。
明治以降の開発で、城はすっかり住宅地の中に飲み込まれてしまいましたが、堀跡や地形から往時の姿を想像することができる城跡かと思います。
周辺情報
■小泉の城下町の北にある慈光院は片桐石州が建立した寺院で、境内全体が茶席の演出空間として設計されています。
小泉散策の途中、重要文化財の書院の座敷から、国の名勝に指定されている庭園を眺めながら、お抹茶とお茶菓子をいただいて一息つくのもお勧めの場所です。
また、お城好きの方には、片桐氏の旧本拠であった摂津茨木城の移築門(楼門)がありますので、是非お立ち寄りいただきたい場所です。
■国道123号線を松尾寺方面へ高林庵から300mほどの場所にあるGiGi cafe&curryは美味しいカレーやデザートを楽しめるお店で、小泉散策のランチにぴったりのお店です。