皆さんこんにちは。
今回の記事が当ブログの201回目の記事になります。
最初に書いた記事が地元奈良県大和郡山市の郡山城だったこともあり、節目の201回も改めて郡山城を取り上げてみたいと思います。
郡山城の場所はこちら。
近鉄郡山駅から北へ徒歩5~10分ほどの場所にあります。
郡山城は中世まで地元豪族郡山氏の城砦でしたが、1580(天正8)年に織田信長が郡山城以外の大和国内の全城郭を破却するよう命じて、筒井順慶の本拠となったことから大和国の中心城郭となりました。
1585(天正13)年には羽柴秀長(秀吉実弟)が大和、和泉、紀伊3か国100万石の太守として居城とすると、豊臣政権の拠点城郭として大改修を加え、ほぼ現在の姿になります。
その後、城主は頻繁に変わりますが、1724(享保9)年に甲斐国甲府から柳沢吉里(徳川綱吉の側用人として有名な柳沢吉保の子)が、大和郡山15万石の領主として入って以後、柳沢氏の居城として明治を迎えます。
城址の内郭は城址公園となっており、2022年11月10日、城址一帯が国の史跡に指定されました。
郡山城といえば桜の名所として名高いのですが、今回は紅葉の季節の城址をご紹介します。
追手東隅櫓~追手門(梅林門)
まずは、郡山城の大手筋から登城していきたいと思います。
①追手東隅櫓と十九間多聞櫓
常盤郭(法印郭)の東石垣へ1984(昭和59)年に再建された追手東隅櫓と十九間多聞櫓。
堀を挟んで南北に走る近鉄電車の車窓からよく見える場所で、郡山城に入ったことのない方でも近鉄橿原線を利用されている方にはお馴染みの景観です。
この櫓下の石垣は2段になっていることが分かると思いますが、下段の石垣上には土塁がめぐらされていました。
現在もうっすらと土が盛り上がっている土塁の痕跡を確認できるかと思います。
②五軒屋敷堀
近鉄の線路と常盤郭、陣甫郭の間を南北に延びる水堀は五軒屋敷堀。
現在DMGMORIやまと郡山城ホールや市役所がある三の丸は、五軒屋敷と呼ばれる家老たちの屋敷が並ぶエリアで、お堀の名前もこのエリア名に由来しています。
③鉄(くろがね)門の外桝形
五軒屋敷堀の土橋を渡ると鉄門の外枡形が見えてきます。
大手筋はこの枡形で北へ屈曲し、進路を巨大な渡り櫓を備えた鉄門が塞いでいました。
ちなみに鉄門の渡り櫓は、松平忠明が城主の時に伏見城から移築された櫓でしたが、明治に郡山城が廃城となった際に入札にかけられ、民間に払い下げられてしまいます。
現存していれば、間違いなく国宝級の遺構でしたが、残念ながら撤去されて行方知れず。
更にこの時、櫓の西台の石垣や、枡形を囲んでいた西側、南側の石垣までも撤去されていまい、往時の枡形の姿は失われてしまいました。
今考えると、何とも、もったいないことをしたものです。
④内堀と毘沙門郭
内堀に面する毘沙門郭の南から東側隅には多聞櫓がめぐらされ、紅葉が色づく東南隅には2層の弓櫓が設けられていました。
ここから追手門までは遮蔽物がない陣甫郭を進むしかありません。
郡山城の追手門に攻め込む兵は、毘沙門郭に設けられた櫓群からの猛烈な横矢や鉄砲に晒されることになります。
⑤追手外枡形
陣甫郭を北へ進むと追手向櫓と追手門が見えてきました。
この近辺は、郡山城址を代表する風景になっていますね。
晩秋も追手向櫓と紅葉のコントラストが映える場所です。
左から追手向櫓、多聞櫓、追手門渡り櫓と鉄壁の防御を誇る、郡山城追手の外枡形。
三方を櫓に囲まれ、郡山城で最も厳重な防備の構えが施された場所です。
追手門は他の復元構造物に先立って1983(昭和58)年に市民活動で再建され、1984(昭和59)年に多聞櫓、1987(昭和62)年に追手向櫓と復元が進み、往時の郡山城追手外枡形の姿が現在に蘇りました。
追手門は柳沢氏が入府して以降は梅林門と呼ばれました。
追手外枡形から見た追手東隅櫓。
かつては追手東隅櫓と追手門の間にも多聞櫓があり、追手門までたどり着いた敵兵は、ここからも横矢と鉄砲の脅威にさらされました。
ところで、鉄門から追手門に至るルートが、ここまで堅固な防御の備えをもったのはなぜでしょう。
実は江戸時代まで、堀を越えずに郡山城の中枢である本丸・天守郭に到達するには、この追手を通るルートしかありませんでした。
なので、郡山城の本丸を目指す敵は、必ずこの追手へ殺到することになります。
追手に誘導された敵を枡形で一網打尽にするため、かくも堅固な造りとなっているわけです。
まあ、攻める側もわかっているので、迂闊に近づかないでしょうし、攻撃を諦めさせるのが、最大の目的だったのかもしれません。
そういう意味では、お城って前近代で最強の「戦略兵器」なんですよね。
熊本城や姫路城のような派手さはないのですが、郡山城も敵兵の移動をきっちりコントロールして撃退できるよう、周到に設計されていることが分かります。
追手門~極楽橋
追手門をくぐって、いよいよ郡山城の中枢部へ進入します。
⑥追手門内枡形
追手門をくぐると、再び進路が西側へ直角に屈曲しています。
この長方形の空間は、かつては四方を石垣と城壁で囲まれた内枡形となっていました。
下図は1644(正保元)年に幕府の命で作成された郡山城の絵図ですが、追手門を挟んで内外に枡形が連続している様子がよく分かります。
万一追手門が打ち破られても、この広い内枡形で侵入してきた敵を殲滅するという必殺の構えで、郡山城の怖さを最も実感できる場所です。
今は門も塀も取り払われ、替わって桜やカエデが来城者を迎える開放感たっぷりの空間に生まれ変わりました。
⑦追手向櫓と番屋カフェ
毘沙門郭の内側からみた追手向櫓。
春は桜が奇麗な場所ですが、紅葉と櫓も良い画になります。
毘沙門郭に2022年4月22日にオープンした番屋カフェ。
この建物は明治維新後、毘沙門郭に果樹園が造られたときに、番屋として城下の武家屋敷長屋門の西半分を移築したもの。
元々城内にあった建築ではありませんが、江戸時代以前の武家建築がほとんど残らない大和郡山にあっては、非常に貴重な建築です。
長らく放置されていましたが、リノベされ、カフェとして生まれ変わりました。
メニューや中の様子などは、下記の記事で詳しくご紹介していますので、併せてご一読いただけたらと思います。
バリアフリー対策もばっちりで、ペットも同伴可能。
お城を訪れる全ての人に居心地の良い空間で、来るものを拒む障害が満載の城跡にあって、様々な人にお城のすばらしさを体感してもらえる城跡整備の在り方について、とっても示唆的な場所だと思いました。
また、復元修理された番屋も、廃城後の郡山城の歴史を伝える貴重な遺構で、こういう形で活用保存されたことを大変うれしく思います。
⑧柳沢文庫前庭
柳沢文庫前のお庭も近年整備され、亭(ちん)も修理されて真新しくなりました。
お庭の石敷きは上から見ると菱形になっており、これはかつて柳沢氏の家紋を模した形で作られた金魚池の跡とのこと。
菱形紋といえば武田信玄で有名な武田菱が有名ですが、柳沢氏は武田氏一族である青木氏の分家であり、甲斐源氏の一族。
ちなみに大和郡山市の市章は、柳沢氏の家紋である「柳沢唐花菱」を図案化した菱形マークになります。
⑨柳沢文庫
旧柳沢邸である柳沢文庫周辺は、城内でも紅葉の集中スポット。
天守郭からも柳沢文庫近辺の紅葉がよく見えます。
⑩極楽橋
2021(令和3)年3月に再建された極楽橋。
明治初頭に撤去された極楽橋は、江戸時代天守郭へ至る表の登城ルートでした。
長らく失われていた、郡山城の追手から天守郭に至る江戸時代以前の登城ルートが復活したのは、大変うれしいことです。
郡山城を訪れる全ての方に、かつて城に詰める武士たちが天守郭に向かうために歩いたルートを追体験していただきたいので、是非とも毘沙門郭側の階段には、車椅子やベビーカーでも通行できるよう、スロープを設置いただきたいです。
極楽橋は木橋だったので、いざ戦となれば焼いて落とすことができました。
そうなると、天守郭へのルートは毘沙門廓の南端から伸びる土橋だけ。
この土橋の幅は大人二人がようやくすれ違えられるほどの狭さで、大軍で押し寄せるには非常に困難な造りになっていて、力押しで天守郭に侵入するのはほとんど不可能だったと考えられます。
極楽橋から柳沢文庫前庭を望む。
本丸天守郭
廃城後、本丸への新たなメインルートとなった竹林橋から入っていきます。
⑪竹林橋・竹林門
県立郡山高等学校の正門前に、柳沢家の藩祖・柳沢吉保を祀った柳澤神社の鳥居があります。
この鳥居から、まっすぐ神社の境内となった本丸郭へ伸びる土橋が、かつての竹林橋跡です。
竹林橋は、藩主の御殿があった二の丸(現・郡山高校)から本丸郭に向かうために設けられた橋でした。
江戸時代までは木橋で、こちらもいざ戦闘となれば焼き落として、本丸への通行を遮断できるようになっていました。
竹林橋は極楽橋同様、廃城後まもなく撤去されましたが、1880(明治13)年に二の丸に創建された柳澤神社が、1882(明治15)年に現在の郡山高校の前身である堺県師範学校郡山分校の校舎建設に伴って現在地へ移設されることになり、かつて竹林橋が架橋されていた箇所に参道として土橋が建造され、現在の姿となります。
土橋を渡ると社務所前の開けたエリアに出ます。
こちらも紅葉が鮮やかです。
⑫天守台
柳澤神社の本殿裏に天守台があります。
2017(平成29)年に石垣の修復整備が終わり、展望台が設置されました。
展望施設の利用時間は以下の通りです。
■10月~3月:7時~17時
■4月~9月:7時~19時
秀長時代には、5層の天守がそびえていたと伝わりますが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康が築いた二条城の天守として移築され、その後さらに淀城へ天守として移築されたと伝わります。
従来、建築学的に二条城への移築は不可能という見解もありましたが、郡山城天守台修築時の調査で郡山城天守台に残された礎石の位置と、淀城天守台の礎石の位置がほぼ一致することが分かり、郡山城から二条城、淀城への天守移築伝承の信憑性が高まりました。
礎石は人間の指紋のように建物ごとに変わるもので、別の建物で一致することはほとんどないため、礎石の位置が同じということは、その場に同じ建物が建っていたことを強く示唆する証拠となるのです。
淀城の天守は1756(宝暦6)年に落雷で消失して現存しませんが、絵図が残されています。
淀城の天守も5層であったと伝えられ、この天守が郡山城の天守台にそびえていたのかもしれません。
秀長時代に築かれた野面積みの天守台石垣は、逆さ地蔵など多くの転用石が使用されているところが見どころです。
⑬常盤郭
天守台に登ると、城内はもとより遠く奈良の町まで見渡すことができます。
矢田山くらいしか高所からの眺望スポットがなかった大和郡山では、貴重な展望台。
こちらも何とか体の不自由な方にも、この眺望を楽しめるようになればいいんですけどね。
⑭馬場先門
天守台から堀を挟んで北側の馬場先門跡の近辺は、公園整備が進行中。
2024(令和6)年度の開園を目指して、整備が進められていますが、このあたりはほぼ完成してる感じですね。
⑮厩郭・麒麟郭
かつて城内高校の敷地となっていた厩郭、麒麟郭も工事が進んでいます。
また、公園がオープンしたらぜひ訪れてみたいと思います。
永慶寺山門(郡山城南門遺構)
明治の廃城後、ほとんどの建物が破却されてしまった郡山城ですが、唯一現存する遺構が城跡にほど近い永慶寺に移築されて残っています。
永慶寺の場所はこちら。
こちらは永慶寺の山門で、郡山城南門を幕末に移築したものです。
秀長時代に建造された棟門形式の小型の門で、豪華絢爛な造りの多い桃山時代の城門建築にあっては、非常に簡素な造りになっており、秀長の質実な性質を示しているのかもしれませんね。
右側に脇戸が設けられています。
脇戸も含め、門扉の八双金物や乳金物の装飾も非常に簡素な細工になっています。
永慶寺は柳沢吉保が、現在の山梨県甲府市に創建した寺院でしたが、柳沢氏の郡山転封に伴い、現在地に移転されました。
歴代藩主は藩祖吉保の月命日である毎月2日になると、南門を通って菩提寺である永慶寺に参詣したということで、郡山城南門は永慶寺とは所縁の深い門でもあります。
そんな縁もあってか、南門が幕末に永慶寺山門として移築され、廃城時の破却を免れたのは、今となっては僥倖といえるでしょう。
郡山城は、城下まで外堀で囲った惣構えの城郭でした。
城下に残る城の痕跡、外堀の様子について、下記の記事にまとめておりますので、ぜひご一読ください。
また、「日本さくら名所100選」にも選ばれた郡山城の桜については、下記の記事をぜひご一読ください。
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