大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

巽高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城~高取城

皆さんこんにちは。

 

近年、竹田城備中松山城といった、高い山上に築かれた山城が、観光地としても非常に注目され、人気を集めています。

今回は、全国でも屈指の規模を誇る山城、高取城をご紹介します。

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高取城とは

高取城は、奈良県高取町に築かれた山城です。

場所はこちら。

高取城は標高583m、比高350mの高取山山上に、三層の天守と小天守から成る豪壮な連立式天守を持つ、山城としては異例の城郭でした。

連立式天守とは、天守と2基以上の小天守や隅櫓を渡櫓で連結して本丸を囲む、非常に堅固な守りを誇る天守です。

姫路城や松山城が代表格で、高取山のような高い山上の城に築かれることは極めて珍しいものでした。

 

明治時代に撮影された写真を見るとよくわかりますが、天守はもちろん、櫓、城壁まで白漆喰で塗りこめられ、城下から見上げるその姿は「巽高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城」と歌われた、白亜の大城郭でした。

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明治20年ごろの高取城二の丸、三の丸(出典 Wikipedia(高取町教育委員会所蔵))

ちなみに写真の櫓は天守ではなく二の丸の太鼓櫓。

明治の初めごろまでは、城郭のほとんどの建築が残っていたようなので、もし姫路城のように現存していたら、間違いなく国宝となっていたことでしょう。

 

さて、高取城南北朝時代の1332(正慶元)年、護良親王の挙兵に応じた越智邦澄によって砦が築かれたのが始まりというのが通説で、以後、戦国大和で南和の最大勢力であった越智氏の重要な詰め城の一つとなります。

戦国期に高取城がその堅固さを知らしめたのは、1532(天文元)年に勃発した大和天文一揆における一向一揆軍との合戦でしょう。

大和に乱入して南都を焼き尽くした一向一揆軍は、越智氏を中心とする残存の興福寺衆徒を追って南下しましたが、興福寺側は高取城に立て籠もって徹底抗戦して、最終的に一向一揆軍を撃退しました。

大和天文一揆の詳細についてはご興味のある方は下記の記事も是非お読みください。

www.yamatotsurezure.com

1580(天正8)年に織田信長の命で高取城はいったん破却されますが、1584(天正12)年に筒井順慶の手で再び再建されます。

順慶の死後、筒井氏は伊賀に転封となり、代わって大和へ入った秀吉実弟豊臣秀長は家老の脇坂安治、ついで本多利久高取城主にすると、南和統治の拠点城郭として、大規模な改修を行いました。

高取城が現在のような総石垣となったのはこの頃で、竹田城同様、豊臣氏の圧倒的な権威を見せつけるため、山上に豪壮な巨大城郭を築造したのでしょう。

その後、豊臣氏直臣となった本多氏は、関ヶ原の戦いでは東軍についたため高取城は西軍の攻撃を受けますが、この堅固な城塞の前に西軍は敗退を余儀なくされました。

本多氏が無嗣断絶となった後、1640(寛永17)年に旗本の植村家政が2万5千石の大名に取り立てられて高取に入城し、以後明治まで植村氏14代が城主となります。

1873(明治6)年、廃城となり、建造物の大半は近隣の寺院に売却されましたが、残った建物は放置され、明治の半ば以降に天守以下の建物は破却もしくは自然倒壊したとされます。

長らく放置されていましたが、貴重な城郭史料であることが評価され、1953(昭和28)年、奈良県内の城跡としては唯一の国指定史跡に指定されました。

土佐の町~下子嶋

それでは、高取城跡をめざして、高取町の玄関口である近鉄壺阪山駅から出発です!

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駅前ロータリーの出入り口に高取町の看板。

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高取町は、薬の町としても有名で、共立薬品をはじめ多くの製薬業や薬品卸業の会社が町内にあります。

 

土佐街道土佐の町。土佐街道をまっすぐ進むと高取城の大手へとつながります。

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飛鳥時代に都造りへ駆り出された土佐(現高知県)出身の人々が、帰郷できずにこの地に土着したのが、土佐の地名の由来とか。

「土佐」の町名には地元の人々の愛着も大きく、明治の町村合併では村名を「土佐」にするか「高取」にするかで、かなり揉めたそうです。

植村氏入府後は、城下町として整備された土佐の町は、最盛期には500軒もの商家が軒を連ねました。

現在も、連子窓やつし二階といった江戸時代の風情を残す町屋が数多く残っています。

 

土佐街道沿いの高取児童公園前に立派な門が見えてきました。

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こちらは高取城の貴重な現存建築遺構である松ノ門です。

元は、二の門から本丸まで10か所あった門の一つで下記縄張り図の位置に設置されていました。

改めて縄張りを確認すると、本丸まで10の関門でほとんどが枡形構造という、恐ろしく堅固に作られた城塞だということが分かりますね。。

松ノ門は1892(明治25)年、土佐小学校の正門として移築されましたが、1944(昭和19)年に火災で一部損壊。もともと本瓦葺きの切妻造りの屋根を備えていましたがこの時消失しました。

その後、残った部材が保管されていたものを公園の門として修復したとのこと。

高取城の現存建築としてはたいへん貴重な遺構となっています。

 

こちらは土佐街道沿い、下子嶋の田塩家住宅長屋門

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元々、高取藩の武家屋敷は藩邸も含めて高取城内にありましたが、麓の下子嶋に藩主の館や武家屋敷も幕末までには移ってきたようです。

町人町である土佐と武家町である下子嶋で、高取の城下町は形成されていました。

 

こちらは植村家長屋門

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東西各4室あるといいますから、とんでもなく大きな長屋門です。

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1826(文政9)年に建てられ、当時は城代家老の役宅でしたが、現在は旧藩主家である植村家の邸宅の門となっています。

黒門~二の門

さて、いよいよ高取城内へ!

黒門跡が見えてきました。

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黒門から先が「郭内」と呼ばれ、広義の城内となります。

 

道の左右に平らな石垣づくりの曲輪が見えます。

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山城でありながら広範囲に曲輪をもち、多くの武家屋敷が林立していた点は、高取城の特徴の一つです。

 

かつて藩主下屋敷のあった別所郭に建てられた植村氏菩提寺である宗泉寺参道と、大手道との分かれ道。

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ちなみに、こちらまではタクシーで来ることが可能です。


ここからはいよいよ本格的な登山道になります。

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それなりに整備されていますが、軽装でも登山に適した靴で登るようにしてください。

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高取城址の碑が建ちます。

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最初の難所ともいえる七曲りの坂。

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つづら折りの急坂が続きます。登りもきついですが、帰りはしっかりヒザにきます(苦笑)

こちらも難所の一升坂。ひたすらに登るべし登るべし。

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ちなみにこちらの坂の名は、あまりの急坂で築城の時に人夫がこの坂を石を担いで上がれなかったので、奉行が「米を日に一升ずつ増すから元気を出せ」と励まし、ようやく石を運んだという伝承に由来します。

 

適度に休憩を入れながら登っていきましょう。

途中にも多くの石垣の遺構や切通しがあります。

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黒門から30分ほど歩いていますが、二の門まで山登が続きます。

平城でいうところの内郭にはまだ入れず。唖然とするほど大規模な城郭です。

 

二の門の少し手前で猿石とご対面。

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明日香村の猿石と同じ場所から、築城の際に転用石として持ち出されたもので、飛鳥時代の作と見られています。

飛鳥の地と高取は近いので、手ごろな石を片っ端から集めてきたんでしょうね。

 

ようやく二の門跡に到着。

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ここから先が、狭義の「城内」となり、高取城の大きな見どころである石垣遺構が、密集しているエリアとなります。

 

ちなみに二の門は高取町内の子嶋寺に移築され、その山門となって現存しています。

松ノ門と並んで、高取城の大変貴重な建築遺構となりますので、城下を散策の際は是非お立ち寄りを。

 

二の門前にはなんと水堀!

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高取城のような標高の高い山城で、水堀があるなんて中々想像できない光景です。

 

国見櫓~千早門

二の門を越えるといよいよ高取城の内郭となる城内です。

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ここからは、総石垣造りの城郭遺構が一層目立ってくるのと、平場が多くなり、急峻な登山道という雰囲気ではなくなります。

 

国見櫓跡からの眺望。

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残念ながら登城当日は花粉と黄砂で見通しが悪かったのですが、気象条件が良ければ二上山信貴山生駒山まで見通せ、奈良盆地を一望できます。

まさに国見櫓の名にふさわしい眺望を楽しめるスポットですね。

 

こちらは矢場門跡。しっかりと屈曲した枡形門です。

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高取城の大きな特徴でもあるのがこの枡形の多さ。

二の門から本丸まで、熊本城姫路城もかくやと思うほど、これでもかと言わんばかりに、枡形が続く堅固な要害になっています。

 

侍屋敷跡の石垣が続きます。

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所々石垣が崩落していますね。

 

松ノ門に到着しました。麓の公園に移築された門はかつてこの場所に建っていました。

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矢場門から松ノ門までの区間は石垣の崩落が特に激しい印象です。

やはり、木々が生い茂り、樹木の根で相当石垣が崩れているようです。

土塁や石垣を固めている樹木とそうでない樹木を見極めたうえで、伐採の処置をとらないと早晩石垣が崩壊してしまいそう。

 

宇陀門に到着。ここもしっかり枡形で屈曲しています。

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侍屋敷が建ち並んでいた平場を抜けると千早門が見えてきました。

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ここから先が三ノ丸になります。

あれ、まだ三ノ丸なの!?という印象を抱くくらい、とにかく城域が広大です。

2万5千石の大名の居城としては、あまりに規模がデカすぎます。

江戸時代に維持するのは、ほんとに大変だったろうな。

三ノ丸~二ノ丸

三ノ丸です。こちらには家老屋敷がありました。

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この辺りまで樹木が多く、生い茂る木々の中に現れる壮麗な石垣群を見ると、密林の中に忽然と現れるマヤ文明の遺跡のようにも見えますね。

竹田城がよく「日本のマチュピチュ」と呼ばれますが、高取城はさしずめ「日本のパレンケ」といったところでしょうか。

 

二ノ丸の石垣。

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堅牢な石垣が、整然と並びます。

 

巨大な枡形で構成された大手門

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ここから先が二ノ丸となります。

 

二ノ丸は広大で、なんと二層構造。二ノ丸上段には城主の御殿がありました。

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二ノ丸御殿に向かう経路にも巨大な枡形があり、十三間多聞櫓が侵入者を待ち受けます。

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十三間多聞櫓が守る枡形を抜けると視界が急に開けます。

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城主の居館である二の丸御殿があった場所です。

正面の石垣は、二ノ丸と本丸の間に設けられた小曲輪。

ここまで来ても本丸がまだ見えません。

 

本丸方向に向かうと再び巨大な枡形が待ち構えます。

こちらは十五間多聞櫓の跡。

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しかし二ノ丸の御殿跡あたりから上層は、かなり樹木伐採が進んだ印象です。

かれこれ30年近く前、大学生時代に来たときは、天守台の上まで鬱蒼とした木々で覆われていました。

 

小曲輪内の太鼓櫓の跡。

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こちらが新櫓。

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二ノ丸と本丸の間に設けられた小曲輪が、本丸の巨大な外枡形になっている構造です。

とにかくやりすぎだろうと思えるほどの防御の構えは、熊本城に近い印象を持ちました。

本丸

小曲輪まで登って、ようやく天守台の高石垣が見えてきました。

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ここに至るまで、二の門から、8か所の関門を越えてこないと辿り着けません。

そのほとんどが、堅固な枡形構造で航空機や重砲のない前近代においては、まさに難攻不落の城郭だったと言えるでしょう。

 

本丸前に、「巽高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城」の歌碑があります。

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本丸の前でクマさんがお出迎えです。

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イロイロといい味が出ています(笑顔)

 

帯曲輪というにはかなり広いスペースから、本丸の石垣を望みます。

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三ノ丸から上層が、山城とは思えないくらい、広大なスペースが広がっている点も高取城の大きな特徴ですね。

 

いよいよ本丸へ突入!

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最後の門、上の門を越えていきますが、ここも当然枡形。

 

本丸に入ってきました。奥に見えるのが天守台です。

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かつて壮麗な連立式天守が建っていた本丸もかなり広いスペースです。

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ちなみに、三ノ丸に往時の高取城天守を再現したCGが掲示されていました。

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まさに雪と見まがう白亜の城郭ですね。

 

天守台から二の丸方向を見下ろすと、小曲輪が見えます。

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四角い箱状になっていて、巨大な外枡形であることがくっきりわかります。

 

本丸の南側に、周辺の山や町の方向を示す石板が設置されていました。

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南を見ると、下市や吉野、大淀の町が一望できました。

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高取城が吉野へのにらみを利かせるための城郭であることがよくわかる眺望です。

吉野は中世以来、興福寺の支配も及ばず、金峯山寺一向宗の勢力が強く、独立の気風も高い地域でした。

高取城が近代城郭として現在の規模まで大改修されたのは、筒井順慶が大和一国の支配を本格的に開始し、豊臣秀長が郡山に入って大和一国の豊臣氏直轄化を強力に推し進めた時期と重なります。

国見櫓からは奈良盆地一帯を、本丸天守からは吉野川流域の吉野から紀州に至る街道筋に対する抑えとして、豪壮で堅固な巨大城郭が築かれたのでしょう。

 

さて、高取城いかがだったでしょうか。

二の門までの急峻な坂は、なかなか登りごたえがありますが、途中ゆっくりと休憩を入れながら登っていただければと思います。

ストックやトレッキングシューズなど準備されたら、より快適かもしれませんね。

木々の木漏れ日と石垣のコントラストが途中大変美しく、本丸から三ノ丸にかけての主郭部は何度訪れても、その巨大な石垣群に圧倒される城跡ですので、ぜひ一度足を運んでいただければと思います。

リンク

奈良県内のその他の城跡スポットはこちらをご覧ください。

 

参考文献

『大和の伝説 増補版』 高田十郎 等編