皆さんこんにちは。
奈良県桜井市の中心市街にあたる桜井駅南側一帯の地域は、中世から伊勢街道、多武峰街道が交差する札の辻を中心に多くの商家が建ち並び、伊勢神宮や吉野への参詣者が行き交う宿場町として発展しました。
前回は、伊勢街道を中心にご紹介しましたが、今回は多武峰街道沿いと、「桜井」発祥の地と伝わる旧跡を巡ってみたいと思います。
多武峰街道
札の辻から南に延びる通りが、多武峰街道です。
中央通り商店街以外のアーケードはすべて撤去されましたが、この場所だけは半分残ってました。
雨除けに残されたのかな。
札の辻を少し南に下ったところで、桜井魚市場の碑があります。
明治の初め頃まで桜井では月に6度、青物市と魚市が立ち、札の辻を中心とする本町地区に市場がありました。
魚市場の市日は「27の日」で、大市が1月27日と、7月27日だったのですが、実はこの魚市で販売される熊野鯖は、江戸時代まで三輪そうめんと並ぶ桜井の看板商品だったことをご存知でしょうか。
江戸時代、どうして遠く離れた熊野から桜井まで鯖が運ばれたのかというと、大きな原因は吉野川・紀の川を支配した和歌山藩の施策にありました。
江戸時代以前から吉野川・紀の川の水運は活発でしたが、和歌山藩は橋本(現和歌山県橋本市)を船継場所として発展させるため、紀伊・大和国境に船関を設置し、紀の川を遡上する船の荷物をすべて橋本で陸揚げさせて、橋本以東での船の荷揚げを禁じたのです。
これにより、江戸時代には吉野川の舟運、特に川を遡上するルートは衰退。
それまで比較的安価であった鯖も、紀の川を遡上するルートは、橋本から陸路で運ぶ分コストが嵩んで価格が高騰しました。
この流れを受け、従来の鯖の販路(紀の川ルート)に加えて開発されたのが、熊野灘から北山川沿いの東熊野街道(現国道169号線にほぼ沿う)を通り、吉野、桜井にいたる、大和の鯖街道ともいうべきルートです。
ちなみに吉野名物である柿の葉寿司で使われる鯖もこのルートで運ばれ、紀伊半島の山間部である吉野地域に鯖寿司の食文化があるのは、この鯖街道が開発されたためです。
桜井は江戸時代、塩漬けの熊野鯖が鮮度を保ったまま運送できる北限で、熊野で水揚げされた鯖は、浜辺で防腐のため腹に塩が詰められた後、はるばる桜井まで直線距離およそ90Kmの道のりを3日間かけ、吉野から多武峰街道を通ってこの魚市まで運ばれたのです。
今は、小さな石碑が一つ立つだけですが、魚市場は桜井の歴史の大きな一ページを飾る場所であり、魚市場の石碑は多武峰街道がかつて熊野の鯖がこの地に運ばれていたことを示す痕跡なのです。
ちなみに、桜井で魚市場と聞くと、筆者が真っ先に連想する人物は、江戸日本橋の魚河岸(現在は豊洲の東京都中央卸売市場)発展に寄与した商人、大和屋助五郎です。
桜井出身の助五郎は、大坂夏の陣直後の1616(元和2)年までに江戸に出て魚問屋を開き、駿河から活鯛を生簀船で江戸に運ぶことに成功した人物で、漁師への前払金で産地独占的な魚河岸の流通機構を作り出しました。
助五郎が江戸に出たのは桜井の魚市場が活況を呈す前なので、魚市場とは直接の関係はない人物と思いますが、文献に残る日本最古の交易市・海石榴市(つばいち)を抱える古代以来の商売の町、桜井を象徴する人物だと思います。
こちらは桜井魚市場の石碑から少し東に入ったところにある浄土宗寺院、浄業山大願寺。
江戸時代まで、當麻寺の末寺だったこともあり、中将姫が長谷寺に詣でる時、大願寺で休憩を取ったという伝説が残ります。
1955(昭和30)年に桜井を襲った大火では大願寺を含む寺町は焼け残り、1678(延宝6)年の刻印がある鬼瓦が葺かれていたことから、現在の伽藍は江戸中期に形成されたと思われます。
明治初め頃の伽藍の様子も、下記の図から現在とほぼ変わらない姿です。
現在、枯山水になっている門前は、江戸時代までは堀があったことが分かりますね。
こちらは多武峰街道沿いの浄土真宗本願寺派寺院の鐘秀山正覚寺。
慶長年間の創建で、1643(寛永20)年に本願寺から現在の寺号が授与されました。
本堂は1683(天和3)年の再建。シンプルな構造の本堂です。
山門は19世紀中頃、天保年間の再建で桐紋の透かし彫りが印象的。
こちらのお寺も山門前の現在駐車場になっているスペースには堀がありました。
国道165号線を越えて南に進み、寺川河畔、東光寺橋付近までくると、大きな水音が聞こえてきます。
東光寺山の麓に堰があり、山麓に沿って水路が引かれていました。
堰から寺川本流に流れ込む水の、滝のような音がとても心地よい場所でした。
桜井発祥の地・若櫻神社、桜の井
東光寺山の西、桜井市谷に「桜井」の地名由来に関わる旧跡があります。
まずは、若櫻神社。
場所はこちらになります。
主祭神は若桜部朝臣や阿部朝臣の祖神とされる伊波我加利命(いわかがりのみこと)です。
小高い丘の上にあり、同じ桜井市池ノ内の磐余稚桜(いわれわかざくら)神社とともに、第17代・履中天皇の宮殿である磐余稚桜宮の跡と推定されています。
磐余稚桜宮という名は、履中天皇が磐余市磯池(いわれいちしのいけ)でお酒を飲みながら舟遊びをしていた時、盃に季節外れの桜の花が落ちてきたことを珍しく思ったことに由来します。
この故事にまつわって、等彌郷の泉のほとりに桜が植えられ、履中天皇がその泉の水を愛でたことから、のちにこの泉が「桜の井」と呼ばれ、桜井の地名由来になったと伝わります。
ちなみに、神社の境内にも「復元」された若桜の井戸が、、、ちなみに「桜の井」と伝わる古井戸は神社のすぐ北側にあるのですが、なぜわざわざ復元したのでしょう??
神社の境内に金毘羅大権現の碑が残ります。
若櫻神社は江戸時代、白山権現を祀っていたとのこと。
白山権現も金毘羅権現も本地仏は、十一面観音なので一緒にお祀りしてたのかもしれません。
桜井は長谷寺など観音信仰も盛んな土地なので、そのあたりと関係しているのかなと妄想。
こちらが拝殿です。
社殿は漆喰の塀に囲まれた拝殿の奥にあります。
訪問後に知ったのですが、実はこちらの神社の境内一帯は、谷城という中世の城跡で、社殿のある平地は城主居館跡とのこと。
土塁や堀も残っているとのことで、ちゃんと下調べしとけばよかったと後悔です。
こちらが、若櫻神社のすぐ北側にある「桜の井」です。
場所はこちらです。
ここまで「桜の井」が桜井地名の由来と、ご紹介してきましたが、「サクラ」とつく地名は、「谷」の古語である「クラ」に接頭語の「サ」をつけたもので、「谷間の平地」くらいの意味になるという説もあります。
この説に従えば、「サクライ」は「谷間の平地に沸く井戸」という意味になります。
ちなみに「桜の井」のある地域の地形は以下のとおり。
かつての等彌郷周辺は、ちょうど寺川に削られた谷間の平地になっていて、この地形が由来という説も、納得度が高いかなと思いますがいかがでしょうか。
物語としては、履中天皇のお話のほうが面白いんですけどね。
櫻町珈琲店
桜井散策のこの日のランチは伊勢街道沿いにあった青果商の町屋をリノベした櫻町珈琲店さんでいただきました。
こちらは入り口のわきに掛けられたメニュー。
12:00過ぎに入店しましたが、地元の方々と思しき常連の皆さんでカウンターはすでに満席でした。
店内は明るい造りで、座席は1Fのほか、2Fにもあります。
訪問したのは平日でしたが、筆者が入店した後まもなく、1Fは満席になり、なかなかの人気店です。
コーヒー・紅茶付きの日替わりランチ(1,100円)は残念ながら訪問日は売り切れ(泣)。
デザートまでついてボリューム満点のメニューのようです。
売り切れることも多いようなので、予約して訪問されるのがおすすめですね。
今回はコーヒー付きのビーフカレーをいただきます。
辛すぎず、スパイス薫る美味しいカレーでした。
食後にいただいたアイスコーヒー。
えぐみがなく、飲みやすい筆者好みのコーヒーで、美味しくいただきました。
ランチだけでなく、ワッフルもとても美味しそうで、町歩きの後の休憩にもピッタリのお店ですね。
電話:0744-48-3908
営業時間:7:30~18:00(L.O.17:30)
モーニング:7:30~10:30
ランチ:11:30~14:00
定休日:水曜日
お店のHP:
アクセス:
桜井駅南口から徒歩5分
駐車場:あり(札の辻の角に共同駐車場があります)
大神神社や多くの古墳、長谷寺、安倍文珠院といった仏閣ももちろん魅力の桜井ですが、街道沿いの町も魅力ある地域として盛り上がってくれるといいですね。