大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

紅葉の名所・竜田公園を外堀とした幻の城郭・龍田城(龍田陣屋)

皆さんこんにちは。

 

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川
からくれなゐに 水くくるとは

 

この在原業平の和歌でも名高い、紅葉の名所として知られる竜田川

その河畔には、賤ケ岳の七本鎗の一人、片桐且元が居城とした龍田城がありました。

現在城域一帯は住宅街となっており、史跡として整備はされていませんが、町のそこかしこに、かつての城郭の痕跡が残っています。

 

 

龍田城とは

龍田城の場所はこちら。

紅葉の名所として知られる龍田公園の東側、現在の龍田南5、6丁目がかつての城域になります。

 

城跡の北東にある龍田神社の前が、當麻寺へ通じる当麻街道と奈良と大阪を結ぶ竜田越え奈良街道(以下、奈良街道)が交差する辻であったため、中世以来、龍田神社を中心として奈良街道沿いに東西に延びた龍田の町は、市場町として栄えました。

室町時代、この龍田を支配したのが一乗院方衆徒として活動した国人領主龍田氏で、その居館が龍田城の主郭付近にあったと推定されています。

 

1601(慶長6)年、大和国平群郡に領地を得た片桐且元は、支配拠点としてかつての龍田氏居館跡に陣屋を構えました。

これが龍田城の始まりまりです。

しかし、且元は豊臣秀頼の家老として、常に大坂に詰めていたため、龍田城が片桐家の本拠として本格的に整備されたのは、次代・孝利の時代とされます。

 

下図は、片桐氏時代の龍田城絵図。

内堀で囲まれた城主居館のある主郭部は凡そ130m四方ですが、外堀に囲まれた外郭を含むと、東西約400m、南北約330mにわたる広大な城郭でした。

外郭とその周囲に武家屋敷が建ち並び、主郭から北に延びる追手道は奈良街道に接続。

市場町・龍田を商人たちの住む町場として城下町を形成していたことが分かります。

 

且元を初代として、一時は竜田を中心に平群郡4万石を領した片桐家でしたが、跡継ぎに恵まれず、1694(元禄7)年に無嗣断絶となり、片桐氏の陣屋であった龍田城は、築城からわずか100年足らずで廃城となりました。

 

龍田城廃城後、龍田の町は奈良街道の宿場町では郡山に次ぐ規模を誇って引き続き栄えた一方で、龍田城跡は農地化されていきます。

下図は龍田新宮別当東之坊(法隆寺から龍田神社へ派遣された社僧)の流れをくむ福井家に伝わった、江戸後期の龍田神社周辺を描いた絵図。

龍田新宮芝絵図(江戸後期)福井家所蔵 参考文献※1より転載

主郭を囲う内堀を残し、田畑と化した城地の様子と、城内を通る追手道などの通路が、引き続き生活道路として利用されていたことが分かります。

 

そしてこちらが現在の航空写真。

龍田城航空写真(国土地理院HPより作成)

城地のほとんどが宅地化されましたが、主郭部は他の奈良県内の館城跡同様、畑となって残っています。

かつての領主居館跡は、廃城後も土地の人が憚って宅地とすることを避けていたようで、筒井城や十市城にその例が見られますが、龍田城も同様とみられます。

 

城郭西側の龍田川沿いには、かつて土塁が築かれていましたが、現在は竜田公園の一部となり、遊具や龍田城の案内板が設置されています。

 

航空写真では、残された内堀の一部くらいしか過去の城跡の面影を見ることはできませんが、陰影起伏図にすると、かつての城域が周囲から一段高く、くっきりと浮かび上がります。

龍田城・陰影起伏図(国土地理院HPより作成)


南側が東西一直線に高くなっていますが、こちらは断層崖とみられます。

尾根の先や崖のへりは、城郭を構築する適地ですが、龍田城も、あやめ池撓曲-松尾山断層の活動で隆起した台地のへり、その地勢を巧みに利用して築かれたことがよくわかります。

 

白山神社~追手

それでは、現在の城地を散策したいと思います。

城跡に駐車場はありませんので、城跡見学には城跡から南西にある竜田公園の駐車場を利用すると便利です。

 

城跡の南西に隣接する白山神社

創建年は不明ですが、片桐氏時代の龍田城絵図にも記載されていますので、安土桃山以前には既にこの地に鎮座していたお社です。

主祭神伊弉冉命イザナミノミコト)。

白山信仰といえば主祭神は「白山比咩大神」ですが、伊弉冉命は白山比咩大神と同一視された例も各地にみられ、こちらの神社もその一例ですね。

 

鬱蒼とした鎮守の森に囲まれたお社ですが、その境内後背の高台は龍田城。

白山神社の東側の坂を上ると龍田城の城域に入ります。

坂の下から上まで、国土地理院の地図で高低差を見ると6mほどあり、なかなかの急崖。

 

坂を上りきると、L字型の平太池が姿を現します。

平太池は主郭を守る内堀の跡で、龍田城の貴重な現存遺構

池の向こう側、現在住宅地になっている場所に、かつて城主の居館がありました。

内堀は平太池も含めて3か所ありましたが、現在残るのはこちらの池だけです。
非常に幅の広い水堀で、広いところで35m、狭いところでも12mもあります。

広いところは大阪城の内堀の幅と同じくらいで、陣屋の水堀としては巨大な部類に入るでしょう。

 

内堀跡の西側を通る道は、龍田城時代から残る道で、現在住宅が建ち並ぶ右側はかつての水堀、左手の一段高くなっている場所は、家臣達の屋敷地でした。

ちなみに、龍田城の主郭北側の小字は「追手」で、自治会名として現在も残っています。

電信柱を見ると、古い地名がよく残っていますが、この通り「オツテ」とあります。

 

こちらはかつての追手道。

龍田城の正面玄関であり、北へまっすぐ続いて奈良街道に接続します。

幅や道筋は往時のまま残っていると思うので、この道自体が城の遺構と言ってよいでしょう。

 

町内の案内版は、ほぼかつての城域と一致しています。

龍田城の古絵図と見比べると縄張り図に見えてきてしまう。。。

 

現在の龍田城主郭主要部。かつての城主居館付近は現在空き地です。

畑だったようですが、こちらは近いうちに宅地化されるかもしれませんね。

 

主郭の北側を東へ進むと、急な下り坂に差し掛かります。

こちらが、龍田城の東端になります。

 

坂の下には南北に水路が通っており、これが東側外堀の跡。

水路の底から崖の上までは3m以上の高低差があり、これに塀か土塁が築かれていたとすれば、容易に越えられる高さではありません。

外堀の一角をなしていた東町池も龍田城の遺構で、ほぼ当時のままの形で残っています。

奈良盆地は水が乏しく、古代から多くのため池が造られてきた地域でした。

郡山城の外堀の一部(代官池や尼ケ池等)と同じように、この東町池も、もともとあったため池を外堀の一部として活用したため、廃城後も引き続きため池として活用され、現在まで残ったのかもしれません。

 

城跡の北端は、現在国道25号線が通ります。

国道25号線は大阪と奈良、名古屋を結ぶ交通の大動脈ですが、実は龍田南5丁目の北側は、龍田城の堀跡を埋め立てて造られた区間なんです。

筆者がこの事実を知ったのはつい最近。

地元が近く、妻の実家に帰る際は必ず通る道路なので非常になじみ深い道路だったのですが、今回龍田城について調べるまで、全く知りませんでした。

でも、言われてみれば、猫坂から少し東の以下の地点は、道路の両脇が高くなり、石積みなどが確かに水路の痕跡にも見えます。

北側の堀は、龍田の町の入り口である猫坂の交差点付近で南に曲がり、竜田川へつながっていました。

猫坂の南側路地を入ると、西側は切り立った崖になっています。

これが堀跡で竜田川へとつながっています。

そして、現在竜田公園として紅葉の名所となっている竜田川が、龍田城の西側外堀。

龍田城がある竜田川東側河畔は急崖で、川から崖の上までは10mほどの高低差があり、龍田城で最も強力な防衛線となっていました。

 

紅葉の季節を狙って訪れましたが、少し遅くて散り始めていました。

且元流の片桐家は、17世紀の終わりに無嗣断絶しましたが、且元の弟、貞隆の家は龍田に隣接する小泉(現奈良県大和郡山市小泉町)の地で1万石の大名として明治まで続き、片桐家の社稷を守りました。

※片桐貞隆が居城とした小泉城については、下記記事で詳細にご紹介しています。

龍田城は廃城から300年以上経過していることもあり、ほとんど当時の遺構は残っていません。

しかし、古絵図と見比べながら現地を歩くと、地形や当時の道筋が住宅街の中によく残っていて、今は幻の城郭を、鮮やかに思い浮かべることができました。

 

予備知識なしで巡ると、かつての姿を想像しづらい城跡ですが、この記事が龍田城跡巡りの一助になってくれると幸いです。

 

参考文献

※1『斑鳩町竜田神社の氏子区域にみる祭礼の諸相 服部と北庄の場合』(大宮守人)