大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

竜田越え奈良街道・西和最大の宿場町、龍田。旧街道沿いの町並みと龍田神社、中井正清ゆかりの古刹とぽっくり寺・吉田寺を巡る

皆さんこんにちは。

 

前回は、住宅街に埋もれた幻の城郭・龍田城についてご紹介しました。

今回は旧竜田越え奈良街道(以下、奈良街道)に残る龍田の町並みを中心に、龍田神社周辺と、吉田寺(きちでんじ)ご紹介します。

 

龍田の町とは

龍田は奈良県斑鳩町の町役場から西側、龍田神社を中心として旧奈良街道沿いを東西に広がるエリアです。

江戸時代の龍田は奈良と大阪を結ぶ奈良街道の宿場町で、その規模は郡山に次ぐ規模を誇り、西和地域最大の商業地として栄えました。

龍田神社の門前は当麻街道と分岐する辻で、旅籠や商家が軒を連ね、人々が盛んに往来する様子が18世紀後半に出版された『大和名所図会』にも描かれています。

大和名所図会巻三 立田新宮(奈良県立図書情報館蔵)

商業地としての龍田の歴史は古く、法隆寺の寺内行事が記述された『寺要日記』1243(寛元元)年の条には、龍田で市を開くにあたって龍田新宮(龍田神社)へ摂津国から市神を勧請し、猿楽を奉納したことが記されています。

中世大和最大の都市であった奈良で、興福寺が最も早く開いた北市の開設年代が鎌倉中期。

この事からも、龍田市が大和国内でも最初期に生まれた市場町だったことが分かります。

龍田市は毎月3日と8日に開催され、その祭祀権と検断権は領主である龍田氏が握っていたとされます。

江戸時代になると、龍田の町は龍田城を居城とした片桐氏の城下町となりましたが、片桐氏が無嗣断絶となった1694(元禄7)年以降は幕府領となり、そのまま明治を迎えました。

 

竜田越え奈良街道沿い

それでは、旧奈良街道沿いに龍田の町を歩いて行きましょう。

竜田川にかかる国道25号線の竜田大橋から東に進むと、猫坂の交差点で北側に入る一車線道路が、旧奈良街道です。

大きなクランクになっていますが、江戸後期の絵図も同じで、かつての奈良街道の道筋がそのまま残っています。

龍田新宮芝絵図(江戸後期)福井家所蔵 参考文献※2より転載

猫坂の交差点からすぐの場所に、1869(明治2)年創業の太田酒造が見えます。

明治に建てられたこちらの建物は現在資料館になっていて、酒蔵見学や奈良漬けの製造体験ができるほか、こちらでしか手に入らない清酒初時雨奈良漬けを購入することができます。

杉玉がいい色になってますね。

酒蔵見学や奈良漬けの製造体験は事前予約が必要なので、詳しくは太田商店さんのHPを参照してください。

旧街道沿いには、つし二階の町屋がちらほらと残っています。

古い町屋は、龍田神社から西側が東側より多く残っていますね。

 

街道沿いの商店わきに、小さな延命地蔵がありました。

法隆寺所蔵の史書『嘉元記』で1346(貞和2)年の記録に「龍田西口地蔵堂供養」と記されており、中世の龍田市の西端はこの地蔵堂だったと推定されます。

古絵図に残った地蔵堂の位置とも一致するので、場所的にはこちらであっていると思いますが、もとはもう少し大きな堂だったのかもしれません。

 

東の端はもともと龍田神社でしたが、近世にかけて東西に町が広がっていったとされます。

龍田神社

龍田の中心に鎮座する龍田神社

鳥居が屋根付きという、ユニークな神社です。

龍田神社の由緒については、聖徳太子法隆寺建立にあたって、立野(現奈良県三郷町)の社(現龍田大社)に建立成就を祈願し、無事建立した後に龍田明神を鎮守として勧請したのが始まりとするなど、諸説あります。

いずれにせよ法隆寺との関係が深い神社で、中世以降は法隆寺から派遣された社僧が宮司を務め、境内には経堂や鐘楼があったほか、現在町立たつた保育園のある場所には神宮寺の伝燈寺がありました。

江戸時代以前の古図でも境内の鐘楼や、東側に僧房が建ち並ぶ姿が確認できますね。

龍田新宮境内図(江戸時代以前・年代不詳)福井家所蔵 参考文献※2より転載

立野の龍田大社を本宮、龍田神社は「龍田新宮」「新龍田」と称して祭礼時には立野からの神幸で御旅所となりました。

明治に入ると神仏分離で境内の神宮寺はすべて廃寺。

多くの堂宇や仏教的とされた建築が取り壊され、境内の光景が一変する中、1456(康正2)年に建てられた伝燈寺の本堂は、1904(明治37)年に京都市伏見区法界寺薬師堂として移築されて破却を免れました。

ちなみに法界寺薬師堂は現在国の重要文化財

破却された堂宇の中にも貴重な建築が含まれていたはずで、惜しいことをしたものですね。

明治になってからは龍田大社の摂社となりましたが、1922(大正11)年には完全に分離し、現在に至ります。

 

境内でまず目に留まるのがクスノキの巨木。神木「楠大明神」としてお祀りされています。

拝殿はコンクリート造りのもので、社殿は外からはうかがえません。

 

境内南西のソテツの巨木のわきに立つのは金剛流発祥之地の石碑。

金剛流は大和猿楽四座の一つで、中世に法隆寺に奉仕していた坂戸座を源流とします。

坂戸座の座名は、現在の龍田を含む斑鳩町西部を範囲とする平群郡坂戸郷に由来し、龍田付近を拠点としていたこともあって、1997(平成9)年にこちらの碑が建立されました。

 

境内の西側に末社の社殿が3つありますが、そのうち右側の社殿が広田神社

こちらが、1243(寛元元)年3月、龍田に市を立てるにあたって摂津国の西宮、南宮、広田から市神として勧請された社です。

えびすさんの幟が今でもたなびくこの小さなお社、実は龍田市形成にまつわる重要な痕跡ともいえるお社なんです。

祭礼では猿楽が奉納されたと『寺要日記』にありますが、観阿弥室町時代の初めに能楽を大成するまで、猿楽は現代の芸能でいうとコントのような小喜劇でした。

本来神様へ奉納する芸能とは、笑いのあふれる演芸で、見守る観客も大きな笑いに包まれるものだったんでしょうね。

そういう意味じゃ、今宮戎の祭りで開催されるマンザイ新人コンクールのようなイベントは、芸能の本来的な姿だと思います。

 

龍田神社の見どころについては、クマ子さんの下記の記事で詳しく紹介されていますので、併せてご一読ください。

龍田神社の境内前に立てられた案内板に、奈良街道と当麻街道の道筋が掲示されていました。

当麻街道は龍田神社の鳥居前を起点とし、達磨寺付近で現在の国道168号線にほぼ沿う道沿いとなって、當麻寺へと続いた街道です。

 

現在の龍田神社鳥居前には、大きな常夜灯が残されています。

この付近は、かつて旅籠が建ち並び、行き交う多くの旅人に宿屋の女が声をかけるにぎやかな場所でした。

浄慶寺

龍田神社境内の北東にある浄土宗寺院、清涼山浄慶寺は天下人徳川家康の大工棟梁として二条城や名古屋城天守の造営を行った中井正清ゆかりのお寺です。

中井正清については、下記記事で詳しく紹介していますので、ぜひご一読ください。

境内に掲示された縁起によると、創建は孝徳天皇(在位645~654年)の時、龍田明神の別当時として建立され、五坊を配する大寺であったとのこと。

中井家と縁が生まれるのは、1601(慶長6)年、正清の父で豊臣家の番匠であった中井正吉が当寺で出家して浄慶と号し、1609(慶長14)年に亡くなると、当寺に葬られたことから始まります。

正清の父、中井正吉は大工棟梁中井家の初代となる人物です。

正吉の父、巨勢正範は現在の大和高田市西部に割拠した万歳氏に仕える武士でしたが、1538(天文7)年に筒井順昭との戦いで敗死し、幼い正吉は母の縁者であった法隆寺番匠、中村伊太夫の下に身を寄せました。

中村家は法隆寺の有力な番匠の家で、正吉は伊太夫の下で大工修行に励み、法隆寺でも筆頭格の大工棟梁に成長。

苗字も落人である「巨勢」を憚り、住まいに掘った井戸を周囲の人々が「中井」と呼んだことにちなんで中井と改めます。

正吉はその大工棟梁としての能力を見込まれ、大坂城築城や方広寺大仏殿の造営で棟梁を務めました。

ちなみに正吉が大坂城築城で率いた法隆寺番匠たちの中には、後に法隆寺の鬼と呼ばれ、薬師寺の白鳳伽藍復興で活躍した最後の法隆寺棟梁・西岡常一棟梁のご先祖もいました。

西岡常一棟梁については下記記事のシリーズで詳しくご紹介しています。

正吉が棟梁としての名声を高めたことで、父の下で腕を磨いた子の正清は家康の目に留まり、方広寺の大仏殿造立中の1589(天正17)年に200石で召し抱えられると、関ヶ原の戦いの後、最大の権力者となった家康の大規模な作事の多くを棟梁として任されました。

1620(慶長20)年、正清は父正吉が葬られたこの寺の寺号を、父の法名にあやかって浄慶寺と改め、宗派も浄土宗に改めさせます。

中井家は正清以降、江戸時代を通じて畿内と近江の計6か国の大工や木挽き職人を支配する京都大工頭を世襲

その後、中井家は京都市内にある長香寺を菩提寺としましたが、浄慶寺との関係は江戸時代も続き、1818(文化5)年と1858(安政5)年に当時の中井家当主により、正清の200回忌と250回忌が浄慶寺で行われました。

正清によって寺号も宗旨も改まり、龍田神社との関係が薄くなったためか、もともと龍田神社別当寺として出発した寺院でしたが、明治の廃仏で破却されることはなく現在に至ります。

 

こちらは本堂

境内の由緒書きによると文化年間に「正清の孫、日向守従四位中井利和」により建立されたとありました。

中井家の系譜を確認すると、正清の実子正侶には子がなく、正侶の跡は正清の甥、正知が継ぎ、以降の歴代にも利和なる人物は見当たらないうえ、文化年間というと19世紀の初め頃になるので、そもそも正清の孫の代というのはあり得ないのですが、おそらく文化5年の正清の200回忌に合わせて、中井家の手により建立されたものではないかと思われます。

 

こちらは境内西側に建てられた回向堂。

『明治十二年七月 大和国平群郡寺院明細帳』によると、浄慶寺の堂宇は2つで本堂のほか観音菩薩を本尊とする観音堂が記載されているので、おそらくこちらが観音堂かと思います。

ちなみに、寺院明細帳には創建が1603(慶長8)年であること以外、由緒は不詳とあり、直接のルーツとなったお寺は正吉の出家に前後して創建されたものだったのかもしれないですね。

 

こちらは鐘楼。

吉田寺

龍田神社の鳥居前から南に延びる当麻街道沿いに、浄土宗寺院の清水山吉田寺があります。

創建は寺伝によれば天智天皇の勅願によるとされ、987(永延元)年、源信恵心僧都)により開基されました。

源信は942(天慶5)年に大和国北葛城郡当麻に生まれた天台宗の僧侶で、一般には『往生要集』を著して、鎌倉新仏教である浄土宗や浄土真宗といった浄土系宗派に多大な影響を与えた僧として知られます。

 

こちらは1859(安政6)年に再建された本堂

本尊の重要文化財丈六阿弥陀如来が安置されています。

丈六阿弥陀如来坐像(吉田寺パンプレットから転載)

こちらの阿弥陀さんは寺伝によると、孝心篤かった源信が母の三回忌追善と末世衆生救済のため境内の栗の木から造られたものとされ、「御前で祈祷を受けると、長く病み患うこともなく、安らかに極楽往生を遂げられる霊験がある」とされたことから、吉田寺は「ぽっくり往生の寺」として信仰を集めました。

寺伝では源信作とされますが、定朝様の作風から実際は平安後期の作と推定されており、像高225.8cmの丈六仏で「大和のおおぼとけ」の異称を持ちます。

実際に本堂内で拝見すると非常に迫力があり、千体仏の後背と流麗な姿が美しい仏さまでした。

 

鐘楼は1774(安永3)年に建立された建築。

梵鐘は戦時中供出されたそうで、現在のものは1974(昭和49)年に新鋳されたとのこと。

筆者と同い年でちょっと親近感が増しました(笑)

 

こちらは室町中期1463(寛正4)年に建立された多宝塔

本瓦葺の三間多宝塔で国の重要文化財に指定されています。

内部には源信の父、卜部正親の菩提追善のため設置された大日如来が祀られています。

 

こちらが、多宝塔に安置された大日如来像。

秘仏 大日如来坐像(吉田寺パンフレットより転載)

秘仏で、毎年9月1~2日、11月1~3日に特別開帳されます。

〇吉田寺基本情報

■住所:奈良県生駒郡斑鳩町小吉田1-1-23

■電話:0745-74-2651

■拝観時間:9:00~16:00

■拝観料:300円

■駐車場:あり

■地図

 

斑鳩町というと、なんといっても法隆寺が観光の最大の目玉で、龍田地域は観光地化されていませんが、中世以来の市場町であったことから長い歴史をもち、龍田城も含めて見どころも多い場所でした。

法隆寺や竜田公園に来られた時、少し足を延ばして旧街道沿いの龍田の町を散策してみてはいかがでしょう。

 

参考文献

※1『中世における法隆寺門前の「常楽寺市」と「龍田市」に関する研究』(伊藤寿和)

※2『斑鳩町竜田神社の氏子区域にみる祭礼の諸相 服部と北庄の場合』(大宮守人)