大和徒然草子

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思ってたんと違う(8)決して衰退していない!室町・近世の建築・仏像文化

皆さんこんにちは。

 

筆者の地元、奈良県は飛鳥・奈良時代から伝わる建築や仏像彫刻の宝庫です。

法隆寺薬師寺の東塔、興福寺の奈良、鎌倉時代の仏像群は、現在残っているだけでも貴重なうえに、その造形の素晴らしさからも、文化財として高い評価を受けていますね。

私も法隆寺の壮麗な伽藍や、興福寺東大寺に伝わる天平や慶派の仏像の圧倒的存在感に、心打たれる者の一人ですが、一方で日本の建築・彫刻(仏像)は、鎌倉時代までが「文化的」に顕著な発展と特徴を示し、特に近世(江戸時代)以降のものは文化的な価値が低いといった言説を耳にすることがあります。

極論すると、古代から鎌倉初頭にかけては、日本の彫刻・建築は目覚ましい発展を遂げ、素晴らしいが、それ以降は衰退して近世以降は見るべきものが少ないといった見方で、仏像などでとくに顕著な見方でしょう。

この古代から鎌倉初期にかけての建築・彫刻を、至高のものとする考えは、中学高校の歴史教科書を通して、そこはかとなく一般にも浸透しているんじゃないでしょうか。

古代から鎌倉時代にかけては、法隆寺東大寺などの歴史的建造物や、飛鳥~天平期の教科書や副読本でも、仏像、鎌倉時代の慶派の仏像などは、大々的に記載されていますが、室町時代以降はめっきり建築・仏像の記載がなくなりますよね。

なので、なんとなく、歴史的・文化的に価値のある建築や仏像彫刻は、鎌倉時代以前のものが多いという印象が、広く刷り込まれているように思います。

でも、本当に近世以降の建築・仏像って「文化的に衰退」してしまったんでしょうか。

重要文化財の登録件数を見てみる

時代区分ごとの建築、彫刻の文化的価値がどう評価されているか、国宝を含む国の重要文化財の指定件数が、ひとつの指標にできるかと思います。

まず、建築から見てみましょう。

下表は、奈良時代から江戸時代までの神社、寺院の重要文化財指定棟数です。

神社、寺院だけをピックアップした理由は、古代から近世まで登録されている建築が神社、寺院だけでだから。民家、城郭などは中世以降の建築しかないので外しました。

国宝・重要文化財(建築)種類別・時代別指定内訳(文化庁HPから抜粋)

各時代の絶対数だけ見ると、実は江戸時代の建築が最も多く重要文化財指定されていることが分かります。

これは他の時代と比べると、現在残っている建物の数が、圧倒的に多いためと考えられます。

ここで注目したいのは、重要文化財の中で国宝に指定されている棟数。

奈良時代は96%、平安時代は64%の建築が国宝指定されています。

やはり古代建築は、残っていることだけでも非常に貴重なので、ほとんどの建築が国宝指定されています。

中世以降になると、鎌倉時代は36%であり、絶対数でも69棟と江戸時代を上回る棟数が登録されています。しかし、室町以降は状況が一変。重要文化財の絶対数は多いものの、国宝の指定率は、室町5%、桃山9%、江戸5%と急激に減ってしまうのです。

日本の建築はほぼすべて木造建築であり、古いものほど貴重ということはわかるのですが、やはり室町以降の建築から急激に国宝の指定率が下がるのは、これらの時代の建築が、他の時代より過少に評価されているのではないかと感じられます。

 

彫刻に関しては、この傾向がさらに顕著になります。

重要文化財(彫刻)時代別指定内訳(2019年7月23日時点・文化庁HPから抜粋)

全時代を通じて実に鎌倉時代以前の彫刻が、重要文化財全指定件数の93%

平安、鎌倉だけで実に83%を占めています。

南北朝以降の指定件数はわずか7%しかなく、非常に極端ですね。

平安時代は、仏像制作がそれまでの官営工房から仏師たちの私工房に移り、寄木造が編み出されるなど、仏像制作の大きな革新が起きた時期です。

また、仏師定朝による仏像様式「定朝様」が生まれ、その後の日本の仏像様式の保守本流となりました。

また、鎌倉時代は何と言っても運慶快慶に代表される奈良仏師、慶派の仏像を、日本彫刻の到達点と見なす向きが非常に根強いです。

こういった事情が、平安、鎌倉の彫刻(ほとんどが仏像)の重要文化財指定件数が、突出して多い背景にあるかと思います。

その一方で室町以後の彫刻(特に仏像)は、平安、鎌倉から特段の発展性・革新性はなく、文化的価値が低いと見る向きが根強いことを、この指定件数の状況は強く示唆しているんじゃないでしょうか。

建築は文化的に衰退したのか

ところで、世界最古の木造建築として知られる法隆寺は、飛鳥、奈良、平安、鎌倉といった各時代の建築が併存している寺院で、現代にいたるまで継続的に修理が行われてきたたこともあり、棟札などから各時代の大工たちの施工の内容を、つぶさに知ることができる場所でもあります。

最後の法隆寺宮大工として知られ、法隆寺の修理にも携わった故西岡常一棟梁によると、古建築は時代が下るに従って耐久性が劣り、経済性優位の造りとなっているそうです。

西岡常一棟梁の詳しい記事はこちらです。

www.yamatotsurezure.com

法隆寺の修理でもその傾向が見え、西岡棟梁が最もひどい「仕事」としたのは江戸時代初期、豊臣秀頼の手により行われた慶長期の修理で、部材は安価な松材などを用いており、作業も「雑」で、最も傷みが激しかったとか。

棟梁もその修理内容を「やっつけ仕事」と、自身の著書の中でばっさり斬り捨てました。

ちなみに、この修理を担当したのは、江戸城名古屋城天守の造営で知られる名工中井正清

※中井正清の詳しい記事はこちらです。

www.yamatotsurezure.com

正清が手掛けた現存する建築としては、仁和寺金堂(元は慶長期の旧紫宸殿)、久能山東照宮社殿などが知られ、ともに国宝指定される名建築です。

正清が当時一流の大工であったことは間違いなく、西岡棟梁が「やっつけ仕事」と酷評した慶長の修理も、当時の標準以上の技術で施工されたものと考えてよいでしょう。

古建築は、西岡棟梁の言う通り、時代が下るにつれて、部材は安価なものとなり、造りも簡素化されて耐久性は古代の物に比べて、劣るようになってきます。

日本の建築は古代から残っているものは、非常に丁寧な造りで構造的にも頑強で優れているが、時代が下るにつれて部材も構造も貧弱になっていく。この事実をもって、建築文化の停滞・衰退ととらえる向きがあるわけです。

 

では、鎌倉、室町と時代が下るにしたがって部材の質が落ちたり、構造が簡素化されていったのはなぜでしょうか。

これは、時代が下るにつれ、誰が施主となるのかに大きな変化が生じたことが、要因のひとつと考えられます。

古代まで、寺社を中心とする大規模建築の施主は、国家や藤原氏などの大貴族に限られました。特に国家が造営する寺社は、その威信を示すため、金や手間を惜しまずに建設されたことは、法隆寺薬師寺東塔の丁寧な仕事からも伺えます。

 

これが鎌倉時代になると、施主として新興の武士が新たに加わり、さらに時代が下って室町時代になると、経済力をつけた庶民も施主に加わったことで、建築需要は飛躍的に増加しました。

建築文化の担い手が庶民にまで広がることで、大工たちの建築受注は、古代とは比べ物にならないほど増えます。

その一方で施主の予算は、古代の国家事業と比べて格段に落ちました。

そのため、建築にかける時間やコストの制約が、古代に比べて大きくなったことは、容易に想像がつきます。

大工たちは時代のニーズに合わせて、より短い工期で、低コストな建築の提供を求められたわけです。

室町以降の建築にみられる構造の簡素化や低コスト化は、建築の大衆化という大きな文化史の帰結であり、より多くの人々が建築に親しむことができるよう進化したと捉えれば、建築文化は中世以降も発展したと考えるほうが、むしろ適当なんじゃないでしょうか。

建築における高コストな耐久性へのこだわりは、文化の大衆化による経済性・効率性への要求とトレードオフされたのだと思います。

 

しかし、室町以降の大工たちも、経済性一辺倒で建築の耐久性に対するこだわりを、全く失っってしまったわけではありませんでした。

あくまで、古代のような「過剰品質」を改めたのだと思います。

その証左となるのが、先にご紹介した中井正清が設計施工した建築の耐震性の高さです。彼が棟梁を務めた京都方広寺の大仏殿は、最大震度6の寛文京都地震で中に納められた大仏が倒壊したものの、大仏殿はびくともせず、1798(寛政10)年落雷によって焼失するまで、200年以上、京都にそびえていました。

また、名古屋城天守は、日本史上有数の巨大地震である宝永地震や、1891(明治24)年の史上最大の活断層地震とされる濃尾地震でも倒壊せず、1945(昭和20)年の米軍による空襲で焼失するまで、300年以上もその威容をとどめていたのです。

これらの事実から、構造面においても、決して日本の建築が衰えたとは言えないと考えます。

室町末期から近世以降、信仰の大衆化により建築、特に仏教建築で顕著に見られる特徴が堂宇の巨大化です。

多くの信者が集会するための巨大な空間が必要となり、京都の東西本願寺の御影堂、阿弥陀堂のような、東大寺大仏殿に匹敵する巨大建築が現れました。

日本の建築は、社会の変化に適応し、脈々と変化し続けたのです。

 

仏像彫刻は室町時代以降「衰えた」のか

一方、南北朝期以降の仏像彫刻はどうでしょう。

巷間よく聞く話は、仏像を重視しない鎌倉新仏教、とりわけ禅宗の興隆によって、室町以降は大規模な造仏が激減。様式も鎌倉時代までに固まった様式からの革新は無く、日本の彫刻文化は停滞・衰退したとされています。

しかし、先にも述べた通り、新興の武士や庶民たちによる寺社の造営は、特に室町時代以降、盛んにおこなわれており、実際は鎌倉以前より、はるかに多くの仏像が作成されたと考えられます。

江戸時代になると、大坂や江戸の工房で従来の様式に則った仏像が大量生産され、全国に流通するようになりました。

仏像を制作して祈りをささげる文化は、むしろ南北朝以降に大いに興隆し、江戸時代に最も盛んになったのです。

しかし、室町時代以降の仏像は、近代以降、最新の西洋美術の考え方が導入されるに従い、美術史的に鎌倉時代の様式を踏襲するだけで個性がなく、美術的価値が低いと評価されていきました。

南北朝期以降の彫刻で、重要文化財指定が激減するのは、こういった美術史的見解の影響を色濃く受けていると言わざるを得ないと思います。

 

ところで、どうして南北朝期以降、様式の革新は無くなり、従来の様式をコピーしたものが大量に作られるようになったのでしょう。

これを考えるうえで心に留めておくべきは、当時の仏像は信仰の対象であり、作家の個性を表現した美術工芸品ではなかった、ということです。

信仰の対象として仏像を考えると、室町時代以降、従来の様式を踏襲する仏像が造られ続けた背景には、中世から流行する「霊験仏信仰」があったのではないかと思います。

 

鎌倉時代、朝廷や大貴族から従来通りの庇護を受けられなくなった各地の寺院は、新たな支持者を、広く一般大衆も含めて獲得する必要に迫られました。

その手段として、本尊の仏のありがたい霊験を説く、いわゆる霊験譚は非常に効果的で、様々な霊験譚が広く大衆に流布し、多くの信仰を生むようになります。

今でも「眼病に効く」とか、「足の病気を治してくれる」霊験あらたかな仏様を祀ったお寺がたくさんありますが、そういった「物語」をベースとした信仰は、この時期に始まったんですね。

こういった霊験譚をもつ本尊は「霊験仏」として、その仏像自体が信仰の対象となりました。これが霊験仏信仰です。

この霊験物信仰の高まりから、ぜひ霊験ある仏様を地元にお祀りしたいと、南北朝期から全国各地で多くの霊験仏の模像が作成されました。

霊験仏の多くが、平安時代鎌倉時代の作。

こうして「ありがたい仏様」のデザインは、自ずと既定され、新たな表現の入り込む余地はほとんどなくなってしまいました。

ようするに、既存の仏像と同じ形、様式であることが「ありがたい」わけで、斬新な表現や全く形の違う仏像は、ニーズがなかったわけです。

そう考えると、室町時代以後、既存の様式の枠をはみ出さない仏像が造られ続けたことは、信仰の対象としての仏像に、人々が期待する造形イメージが時代を超えて持続・共有されたことを示唆しており、美術史的な評価はともかく、社会史、仏教史的には室町時代以降の仏像も、大変価値ある文化財であると言えるんじゃないでしょうか。

 

このように仏像彫刻は、仏への信仰が広く大衆化する南北朝以後、もっとも盛んになり、文化的に衰退したというのは、非常に一面的な見方だと思われます。

また、芸術面でも江戸時代に活躍した円空木食などは、従来の様式とは全く異なる独特の造仏を行っており、そのデザイン性の高さからも近年評価が高まっています。

どうして室町以降の建築・彫刻は過少に評価されたのか

まず建築について、なぜ時代が下るほどに評価が低くなってしまったのか、考えてみましょう。

筆者は、20世紀に巻き起こり、現在もなお建築界の本流であるモダニズムの影響が大きいのかと思います。

合理的、機能的造形を理念とする建築思想であるモダニズムは、日本では明治末から大正の初めにかけて鉄筋コンクリート建築が導入されるとともに入ってきました。しかし、戦前は装飾を施した建築でないと芸術的評価を得ることができず、構造は鉄筋コンクリートながら、過去の西欧建築の装飾を復古的に施す折衷主義が主流でした。

潮目が変わるのは戦後で、広島平和記念公園代々木第一体育館の設計で知られる丹下健三らが、モダニズム建築の旗手として日本の建築界をリードし、瞬く間にモダニズムは日本現代建築の主流となったのです。

このモダニズムの観点から、日本の古建築が再評価されることになります。

柱と梁で構成される日本の伝統建築は、モダニズム建築を先駆けるものであり、ことに構造が頑強なうえに、デザインがシンプルな古代、鎌倉の建築は素晴らしい、となったわけです。

一方、近世になると日光東照宮などに顕著ですが、日本の建築には多くの装飾・彫刻が施されます。

ちなみに法隆寺金堂の軒を支える柱にも、龍の彫刻が施されていますが、これは江戸時代の補強修理で追加された物。なので、江戸の建築様式の特徴を現在に伝えるものだったりします。

構造の持つ美しさこそが、建築の美と考えるモダニズム

その視点からは、室町時代以降、日本建築を彩ることになる彫刻や彩色、装飾は、邪魔なもの、遅れたものと映り、軒並み芸術的価値が低いと断じられてしまったのです。

もっとも、彼らが称揚する法隆寺桂離宮も、現在こそ古色蒼然としていますが、創建当初は極彩色で彩られていたと見る向きもあるのですが。。。

 

一方仏像彫刻の評価に関しては、近代的西洋美術の影響を大きく受けていると思います。

作家の個性を重要視する近代的西洋美術の視点からすると、従来の様式を打破して独自の様式を編み出した運慶などは、「天才」として最大限の賛辞を贈られる一方、室町以降は平安・鎌倉の仏像のコピーであり、没個性的でどうしても低評価となってしまう。仏像を含め、彫刻はどうしても「美術品」という視点で見られがちのため、その文化的価値は、美術的価値観から評価されがちであるのは、ある程度やむ得ないのかもしれません。

しかし、美術的価値観は文化財の価値を構成する一要素にすぎず、その価値は作成された歴史的背景や現在まで伝えられた経緯など多様な観点で評価されるべきものと思います。

 

一面的な見方で価値が低いと評価された文化財が、粗略に扱われてしまい、顧みられることもなく破壊・散逸されてしまうのは大変残念なことです。

とくに近世の建築は、古建築よりも頻繁にメンテナンスをしないとすぐに傷んでしまう、残していくのがとても難しいものでもあります。

数百年後、鎌倉時代の建物より、江戸時代の建築のほうが貴重なんて時代が、来るかもしれないですね。