皆さんこんにちは。
中世、外敵の侵入を防ぐため集落のまわりを堀で囲んだ、いわゆる環濠集落が全国各地に出現しましたが、奈良県は中世以来の環濠集落が、現在も数多く残されていることで知られます。
県内の多くの環濠集落が、南北朝時代から戦国時代にかけて成立していったと「見られている」のですが、実は、環濠がいつ頃築かれたのか、史料上明らかになっている集落って、ほとんどありません。
ほとんどの環濠集落の成立年代が実際のところ不明な中、奈良県大和郡山市の若槻環濠集落は、その環濠の成立過程・年代が文献史料で特定されている、全国的にも珍しい集落になります。
その貴重さにもかかわらず、稗田環濠集落などに比べると、知名度も大和郡山市のPRもやや小さく思われる若槻環濠集落を、今回はご紹介します。
若槻環濠集落とは
若槻環濠集落の場所はこちら。
近隣には稗田環濠や番条環濠もあり、佐保川と国道24号線に挟まれたこのエリアは、大和郡山市内で最も環濠集落が密集している地域です。
公共交通機関ではJR郡山駅が最寄りとなります。(徒歩20分くらい)
※稗田環濠、番条環濠については下記の記事で詳しくご紹介していますので、こちらも是非ご一読ください。
こちらは現在の若槻環濠集落の地図。
南北70m、東西200mの細長い集落です。
現在水路となっている環濠が、地図上でもくっきりと確認できますね。
若槻は興福寺大乗院の領地で、『大乗院領若槻庄土帳』によると鎌倉後期の1307(徳治2)年の段階では散村で堀はなかった様子が確認されています。
これが室町時代になると、1466(文正元)年の『文正土帳』で、集落西端の宮地(現在の天満神社)と東端の庄屋垣内を中心に屋敷が集まり、それぞれ堀が築かれていた様子が確認でき、南北朝から室町前期までに、堀が築かれたことが分かります。
大和国では14世紀前半の南北朝時代の混乱が、南北朝統一後もくすぶり続け、1429(正長2)年に勃発した大和永享の乱で、筒井・越智両氏の抗争が大和全土の国人たちを巻き込み、全国に先駆けて戦国の争乱を迎えるのですが、若槻環濠の築造されたタイミングは、まさに中世大和が戦乱の時代を迎えたのと軌を一にします。
さらに豊臣秀吉による天下統一後作成された1595(文禄4)年の検地帳では、東西の堀をつないで、現在の細長い環濠の姿になっていたことが確認でき、戦国時代に入って出垣内の張り出しの堀も含め、環濠がさらに拡張されたことがわかりました。
このように若槻集落は、鎌倉時代に散村だった集落が、室町時代に争乱の激化に伴い環濠集落化していった様子が、史料から時系列で明らかになっている点で、全国的にも非常に珍しい集落なのです。
また、戦国時代には周囲を完全に堀で囲み防備を固めた若槻環濠集落は、同時代史料の『大乗院寺社雑事記』には「若槻塁」、江戸時代にまとめられた『郷士記』には「若槻平城」との記述もあることから、若槻荘下司を兼ねた番条氏や、当地出身の土豪若槻氏の城郭として機能した可能性もあります。
地図を確認すると、東西に延びる通路は集落内に一つしかなく、行き止まりや丁字路が多用され、以前は集落外と繋がる通路は一つしかなかったそうですから、堅固な防衛構造をもつ集落だったといえるでしょう。
現在の環濠・集落内
それでは現在の環濠や、集落の様子をご紹介しましょう。
こちらは集落の北東隅。出垣内の堀跡である水路になります。
奥に雑木林が見えますが、堀に沿って集落の南端まで盛土が施されており、おそらく庄屋垣内の土塁跡ではないかと思います。
町の入口に、案内の柱が立っています。
若槻環濠集落は1975(昭和50)年、環濠と集落全体が、史跡として大和郡山市の文化財指定を受けました。
北側の環濠は、水路として整備されています。
環濠付近は地盤が緩くなり、堀に向かって家が傾くこともあるとか。
こういうお話を聞くと、コンクリートで護岸工事を行い、環濠の近代的な水路化を図るのは、環濠を維持する意味でも必要な措置なのだと思います。
環濠内は地図でも確認できたように、細く、丁字や行き止まりが非常に多い街路が続きます。
集落中央の交差点を北側から臨みます。
交差する通路は、すべて食い違いの構造になっています。
同じ交差点を南側から臨むとこんな感じです。
南北に伸びる通路も、交差点でクランク状になっています。
天満神社の前から東を臨むと、こちらもクランクになってました。
随所に遠見遮断の仕掛けが施されています。
集落全体が市の文化財指定を受けていますので、この道筋も大事な文化財。
環濠の南側は、現在は住宅地の間に挟まれています。
こちらは集落南西にある天満神社のまわりの環濠。
古地図に基づく改修が行われ、往時の堀の姿をもっとも、とどめる場所です。
神社側には土塁も残っています。
かつては集落全体が、このような水堀で囲まれていましたので、出入口も一つしかないとすれば、非常に堅固な防備の備えをもった集落であったことがうかがえます。
天満神社の境内に入ってみます。
境内の入口には鳥居がなくて、角材の鉄柱で組まれた「鳥居」状の構造物が立っていました。
こちらは拝殿です。
丹塗りが鮮やかな社殿。
ご祭神は菅原道真。いわゆる天神様です。
こちらの神社の創建年・由緒等は、案内板にも記載がなく確かなことはわかりません。
天満宮にはお馴染みの牛も、鎮座しています。
背後の盛り上がりは、土塁の跡ですね。
境内にある、寺院風の建物。
「観音堂」とのことですが、もともと神社と一体の神宮寺だったのでしょう。
大和高田市の藤森環濠の十二社神社にもかつての神宮寺が残っていましたが、こちらの観音堂も江戸時代以前の信仰の在り方を、今に伝えてくれる建物です。
訪問前の下調べでは、環濠のほとんどが失われてる印象だったのですが、実際に現地に足を踏み入れると、水路化された堀跡から往時の環濠の姿を想像することができ、集落内の街路は遠見遮断を多用した中世集落に典型的な様相で、見ごたえのある集落でした。
とくに天満神社付近は、堀と土塁が往時の姿をとどめたまま残っています。
堀や町並みを維持していくのは、大変な努力が必要かと思いますが、中世以来続く奈良の原風景が末永く残っていくことを願います。