大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

奈良の城郭~知られざる城跡ホットスポット・奈良県

古都奈良には、多くの魅力ある文化財が残されています。

奈良の文化財といえば、歴史ある古社寺を真っ先に思い浮かべる方も多いでしょうが、実は奈良には、様々な時代の特徴的な様式をもつお城が数多く残されているんです

 

下図は、環濠集落も含め県内に約560か所あるとされる城跡のうち、当記事に掲載した城郭を中心に奈良盆地周辺のごく一部をピックアップしたもの。

奈良の城郭分布(国土地理院HPより作成)

奈良盆地周辺だけでも、中世初頭から武士の伝統的居館だった館城、丘陵、山岳地域に詰めの城として築かれた中世城郭、中世城郭から発展して領主や家臣の屋敷が並び支配の拠点となった戦国期拠点城郭、そして複雑な曲輪の構成と枡形などの強固な防衛設備を備えて地域支配の拠点となった近世城郭から近世陣屋まで、様々な時代に特徴的な様式をもつ城郭が、数多くあることがお分かりいただけるでしょう。

 

海なし県で大きな湖もないため、海城や湖城はないものの、日本国内で見られる多種多様な城郭のほとんどが、約30km四方の狭い地域に密集している点で、奈良は城郭のホットスポットと言ってもよいでしょう。

 

当ページでは見学しやすい城郭を中心に、魅力的な奈良のお城を全国的な城郭史の概略と併せてご紹介していきます。

各城郭に興味関心を持っていただいたら、是非、リンクで詳細記事もご覧ください。

 

中世武家居館・館城

鎌倉時代から室町時代まで中世の武士たちは、領地の平坦部に居館を構えて平時は生活していました。

その居館は、四方に土塁と堀がめぐらせた簡素な平城様式の館で、戦になれば必要に応じて丘陵や山地に築いた臨時の城砦、山城を拠点に戦うというのが、在地領主から将軍にいたるまで中世武士の基本的なスタイルだったと言えます。

中世武士の居館遺構としては、栃木県足利市にある鑁阿寺(足利氏居館跡)、山梨県甲府市武田神社(武田氏居館・躑躅ヶ崎館跡)などが有名です。

 

■館城一覧 ※詳細は城名をクリックしてください。

城名 概要

中家住宅

■所在地:安堵町窪田

屋敷を囲む二重の濠が良好に残り、中世在地領主の居館の姿を残す住宅。

江戸時代に造られた敷地内の建築をはじめ、竹藪と濠までもが国の重要文化財

県内の城郭史跡としては最も貴重な遺構の一つと言える。

内部の見学は事前の予約が必要。

 筒井城

■所在地:大和郡山市筒井町

興福寺に供奉する官符衆徒の有力国人・筒井氏が拠点とした館城。

14世紀に築造された深さ1.6~3m、幅約15mという大規模な堀で館の周囲を守っていた。

松永久秀の滅亡後、大和の覇権を握った筒井順慶は大規模な拡張・改築始めたが、1580(天正8)年、織田信長から郡山城への居城移転と、郡山城を除く大和国内の全城郭破却を命じられ筒井城は廃城となった。

主郭周辺は宅地化が進むが、主郭東側に鎮座する菅田比賣神社の周囲に内堀と土塁の一部が残り、外郭北側の外堀は土搔きの旧態を良好な形で残している。

 番条城

■所在地:大和郡山市番条町

大乗院方衆徒であった番条氏の拠点で、東西200m、南北700mの四方を濠で囲んだ、集落一体型の城郭。

南北に3つの曲輪が並び、もとは番条一族の独立した館を濠で接続し城郭化したものである。

現在も濠や曲輪を区切る枝堀が水路として残り、とくに東側の濠は土搔きで幅も広く、農繁期の水量豊かな濠の姿は、往時の面影を偲ばせる。

 横田平城

 ■所在地:大和郡山市横田町

筒井氏重臣・松倉氏の本拠で北の横大路沿を挟んで和邇下神社南側の区画が主郭跡と推定される。廃城後は環濠集落化し中世遺体の道筋と集落を取り囲む環濠が水路の形で残っている。

 十市城

■所在地:橿原市十市
大和の武士団・長谷川党を率いた有力国人、十市氏の居城。十市遠忠の時に龍王山城へ本拠が移転された。現在主郭推定地に城跡碑が立つ。

箸尾城

 ■所在地:広陵町箸尾
大和の武士団・長川(河)党を率いた箸尾氏の居城。箸尾氏没落後は居館を取り巻いた集落は教行寺の寺内町として発展した。

 南郷城

 ■所在地:広陵町南郷
南郷氏の居城。南郷氏没落後も周辺集落は大規模な環濠集落として残る。

 唐院城

■所在地:川西町唐院

一乗院方衆徒・唐院氏の居城とされる。唐院氏は松永氏滅亡とともに滅び居館跡は耕作地化され、堀は環濠集落の濠となった。

主郭跡に城主の愛した白蛇を祀ったと伝わる祠が残る。

 井戸城

 ■所在地:天理市石上町

筒井氏重臣・井戸氏の本拠で戦国期に筒井方拠点として幾度も史料上にその名が現れるが城跡が確定していない。

井戸氏の活動地域や筒井順慶重臣だった井戸良弘の逆修碑が近隣の花園寺に残ることから石上市神社から南側の字・古城、古屋敷、大門付近が城跡と推定される。城郭は完全に破却され、堀跡と思しき水路以外に遺構は存在しないが、主郭と見られる古城付近の農地は周囲より高まりがみられる。

 

別所城

 ■所在地:天理市別所町

筒井方の大乗院衆徒であった萩別所氏の居館跡。

城域は細い舌状台地上の先端にあり、伝統建築の農家が軒を連ねる集落となっている。

集落北側に堀跡の素掘りの水路が残る。

窪之庄城

 ■所在地:奈良市窪之庄町

大乗院衆徒であった窪城氏の居館跡。

丘陵の縁を堀切で遮断し居館の四方を高土塁と堀で囲んだ伊賀地方や東山中地域で多く見られる形式の館城である。

領主居館を内郭、環濠集落を外郭とし、居館は東西二つの館に分かれており、東殿は現在八坂神社境内となって巨大な高土塁と堀切が良好な姿で残っている。

筒井氏の五ヶ谷城砦群の入り口に位置することから筒井氏とその対抗勢力の抗争では最前線となった。

鎌倉時代から南北朝時代に勃興した大和国人たちは、その多くが1585(天正13)年の筒井氏伊賀転封に従って故地を離れたり、関ヶ原の戦いで西軍について没落しました。

しかし、領主がいなくなった後も、居館を取り巻いていた集落は環濠集落として残る例が多く、現在も堀跡の水路から往時の姿を想像できるスポットが残されています。

 

中世城郭

本格的に戦国時代が到来するまでは、平時の居館と戦時に籠る詰城が別に存在することが一般的でした。

しかし、15世紀後半から戦国時代に入り戦乱が激しくなると、それまで平坦部に設けていた館を丘陵部や山地に移し、複数の曲輪を組み合わせて防備を固め、領主の生活拠点と軍事拠点が一体化した城郭が出現します。

 

■中世城郭一覧 ※詳細は城名をクリックしてください。

城名 概要

椿井城

■所在地:平群町椿井

矢田丘陵の南西尾根上、南北約250mの範囲に築かれた山城。

北曲輪群と南曲輪群の二つの曲輪群から成り、北曲輪群は南曲輪群より大きく曲輪の構成や出入口の構造も複雑。

発掘調査から15世紀頃に築城され16世紀中頃から後半にかけて大規模拡張されたと推定されるが、文献史料に乏しく城名も時代ごとの城主も不明。島左近松永久秀の拠点・信貴山城と対峙するため入城したとの説もあったが、城跡の防御正面は信貴山から逆の東側を向いているため、松永方による改修を示唆する説も有力。

現在、北曲輪群は発掘調査と城跡整備の準備のため立ち入り禁止で南曲輪群のみ見学可能。

 片岡城

上牧町下牧

16世紀初頭に国人領主片岡国春により築城された。

片岡氏は筒井方について大和へ侵攻した松永久秀に抗戦したが、1569(永禄12)年に片岡城は落城。以後、片岡城は松永方・信貴山城の支城となり、現在残されている縄張りは、松永方の手で大規模な拡張・改修が施された姿と推定される。

近年城跡として整備されて主郭など許可された場所は見学可能。

拡張現実(AR)を活用した展示は、これからの城跡展示の在り方を考える上でも興味深い。

 下垣内城  ■所在地:平群町下垣内

出土遺物から13世紀に築城され、戦国時代の17世紀まで使用されていたことが分かっているが、文献史料で城名、城主名が特定されない謎の城。

立地から周辺を領地とした島氏の居城だったと推定され、城郭東隣の安養寺には左近の母親の位牌が残されている。

城跡は平群中央公園内にあるが、主郭や堀は調査後に埋められており現在表面観察が可能な遺構はない。

 西宮城  ■所在地:平群町西宮

下垣内城から深い谷を挟んで南側に築かれた中世城郭。

こちらの城郭も文献史料で特定できず、築城年代、城名、城主名は定かではない。

3つの曲輪から成り、下垣内城が非常に近いことから、下垣内城が拡張された可能性も否定できない。

現在城跡は、平群中央公園内の冒険広場となっており時計塔付近にあった堀切は埋められているが、敷地南東のフェンス越しに、残された土塁を確認できる。

 古市城

 ■所在地:奈良市古市町

大乗院衆徒で応仁の乱後に官符衆徒・棟梁、南山城守護代となって全盛期を築いた古市氏の居城で、環濠で囲まれた城下の街村を含め惣構えとなっていた可能性が唱えられている。

城域は現在、主郭部が東市小学校となっており小学校校庭に城跡碑が立つ。南側斜面下に堀跡の池、主郭南側の字・高山の舌状台地西端部に堀切で遮断された出丸が残る。

 高山城

 ■所在地:生駒市高山町

鷹山庄の下司職だった鷹山氏が築いた中世山城。

鷹山氏は一乗院方の官符衆徒で応仁の乱前後から越智氏・古市氏と連携して北和で勢力を伸ばした。

河内、山城の国境地帯を本拠とした鷹山氏は畠山氏や細川京兆家と深く結びつき、最盛期の当主鷹山弘頼は河内守護代・遊佐長教の被官として活躍し、山城上三郡の半国守護となった他、河内や摂津にも知行を持つなど、大和国外でも活発に活動し、畿内中央政局の当事者として活動した。

 北田原城

※詳細準備中

 ■所在地:生駒市田原町

 坂上氏の居城と伝わるが詳細は定かではない。

大和・河内国境にある中世山城で清滝街道、伊賀街道が交わる交通の要衝を抑える地にある。

近年主郭推定地の関西電力送電線鉄塔付近から石積みや土器が発見され、遺物から16世紀中頃の城郭で築城方法に三好氏の飯盛山城との共通点が見られることが判明し、注目を浴びている城郭である。

奈良に約560あるとされる城郭のほとんどが館城を含めた中世城郭ですが、集落からほど近く気軽に見学できそうな場所にあった城の多くは、1580年に信長の命で破却・廃城となり、長い年月で地形が改変されたり、高度経済成長期の宅地造成で破壊されたものも多く、片岡城など遠方からもアクセスしやすい場所にある城跡は、今や貴重と言えるでしょう。

 

戦国期拠点城郭

室町時代中期の15世紀頃に平時の館と詰めの山城を組み合わせた里山系の山城が出現しますが、応仁の乱後の15世紀末から16世紀の初頭にかけ、戦乱の激化により、守護大名ら地域の有力武士の居城として、領主の平時の生活空間と、政治、軍事が一体化した城郭が出現します。

城郭考古学者の千田嘉博さんらは、このような城郭を戦国期拠点城郭と定義して、安土桃山時代以降の近世城郭につながっていくものとされています。

それまでの中世の里山城郭と異なる特徴は、城主の居館・政庁の他、家臣の屋敷も城内に取り込まれていることで、近世城郭との大きな違いは、大名と家臣の屋敷地・曲輪の序列関係が、近世城郭は丸の内→三の丸→二の丸→本丸といった階層的構造なのに対して、家臣達の住む各曲輪の独立度合いが高く、その配置が並列的、連立的であることとされます。

これは、中世の領主権力が、近世大名のような絶対的なものではなく、家臣達の独立性が近世に比べて高かったためと考えられています。

 

全国的に有名な戦国期拠点城郭としては、島根県月山富田城(尼子氏)、滋賀県小谷城(浅井氏)、石川県の七尾城(畠山氏)、新潟県春日山城(長尾(上杉)氏)で、いわゆる戦国大名が本拠とする山城としてイメージされる城郭ですね。

 

■戦国期拠点城郭一覧 ※詳細は城名をクリックしてください。

城名 概要

信貴山城

■所在地:平群町信貴畑

奈良、大阪の府県境、雄嶽山頂を本丸として南北880m、東西600mにわたり大小の曲輪群が多数配された奈良県下最大級の中世山城である。

1536(天文5)年、大和へ侵攻した木沢長政が自身の居館と政庁、家臣屋敷を城内に設けて築城し、大和国における戦国期拠点城郭の嚆矢となった。

その後、1559(永禄2)年には松永久秀が大和侵攻開始にあたってその拠点とし、大規模な拡張・改修を加えて現在の壮大な縄張りが完成する。
以後、1577年の松永氏滅亡まで、久秀の拠点城郭だった。

本丸は朝護孫子寺の空鉢護法堂となっており、立入屋敷、階段状曲輪群、松永屋敷と続く巨大な曲輪群は、近年見学用の階段や通路が整備され、朝護孫子寺のお参りと併せて気軽に城跡散策を楽しむことが可能。

 龍王山城

■所在地:天理市田町

正確な築城年代は不明。『多聞院日記』等の文献から15世紀後半には十市氏の東西支配地を連絡する拠点として龍王山に城砦が築かれていたと推定される。

16世紀前半、管領家細川氏、畠山氏の被官であった木沢長政の大和侵攻が始まると、十市遠忠龍王山城を大規模改修し十市城から本拠を当城に移転した。

後に十市氏後裔のおなへと婚姻を結んだ松永久秀嫡男の久通が入り、1577(天正5)年に松永氏が滅亡した後に廃城となった。

龍王山城の大きな特徴は、比高485mという高所にあることと、南北1.2kmという広大な領域に北城南城と二つの独立した城郭から成ること。

戦国末期まで両城ともに改修が続いたが、北城の方が構造が複雑で城域も広い。

曲輪群は良好に残っており、北城には石垣や畝状竪堀群、南城には石段や建物の礎石などの遺構が見られる。

奈良県下で最大規模の中世山城の一つで、南城主郭の龍王山山頂は県下屈指の眺望スポットでもある。

■北城

■南城

 椿尾上城

 ■所在地:奈良市北椿尾町

椿尾上城は東山中のピークの一つである標高528mの城山の尾根に、約500mの広大な範囲に築かれた山城。

西へ1.4Kmほど離れた集落にほど近い場所に椿尾下城があるが、これは本城の前衛駐屯地と見られる。

史料上の初見は『薬師寺上下公文所要録』天文十(1541)年の条で、薬師寺から筒井順昭へ送られた使者の行先として「山之城」が登場する。館城であった筒井城は防備に不安があったため、戦時の詰め城として元は築城されたのであろう。

しかし、『享禄天文之記』の天文十(1541)年の条には、不正行為の裁判が椿尾下城で行われた記録があり、順昭の時代には政庁の機能を有して筒井城に替わる拠点城郭となっていた可能性もある。

1559(永禄2)年からの松永久秀による大和侵攻で本拠・筒井城を失陥した筒井順慶は、椿尾上城を本拠として抗戦した。

1571(元亀2)年に順慶が筒井城を奪回してからは、城郭としての重要度が低下したためか諸記録から姿を消し、正確な廃城年は不明である。

現在も主郭をはじめとした曲輪群がほぼそのまま残り、特筆すべきは石垣の多用で、広範に散見される。

中世山城としては大規模な城郭で、有力国人・筒井氏の拠点であったことを考えると史料的価値も高いと考えるが、城跡は文化財指定もなく放置されていることに強い懸念を覚える。

 

近世城郭

戦国時代末期の16世紀後半になると、大名の居所であった主郭を中心に、曲輪が階層的に配置される近世城郭が出現します。

江戸城大坂城名古屋城といった現在の多くの人が「お城」と聞いて思い浮かべる構造、すなわち、本丸を頂点として軍事的にその他の曲輪へ階層的構造を徹底するとともに、その構造が城主への権力集中そのものを表す城郭こそが近世城郭であり、桃山~江戸時代を通じて天下人や大名諸侯のスタンダードな居城となりました。

 

■近世城郭一覧 ※詳細は城名をクリックしてください。

城名 概要

郡山城

 

外郭・北

外郭・西

外郭・南

外郭・東

お城まつり(桜)

■所在地:大和郡山市城内町

鎌倉時代末から南北朝にかけて勃興した郡山衆の居館があり、戦国期までは国人領主の小規模な城砦だったが、1580(天正8)年に織田信長の命で筒井順慶が居城を筒井城から移したことで、大和国の中心城郭となった。

順慶死後、1585(天正13)年に筒井氏が伊賀へ転封となり、豊臣秀長が大和、和泉、紀伊100万石の太守として入府すると、城郭は豊臣政権の拠点城郭とすべく大規模な拡張・改修が行われ、現在残る内郭と城下の町割りが完成する。

秀長死後、その養子・秀保も1591(天正19)年に夭折。大和豊臣家が断絶すると、豊臣家五奉行の一人・増田長盛が22万3千石で城主となり、堀と土塁で城下を囲む壮大な惣構えを構築した。

関ヶ原の戦い以降は目まぐるしく城主が替わったが、1724(享保9)年に柳沢吉里が甲府からの転封で城主となり、以後、柳沢氏の居城として幕末を迎えた。

現在、内郭は県立郡山高校の校舎となっている二の丸を除き、郡山城跡公園となっており、国指定史跡で桜の名所としても知られる。

追手門付近の櫓群が復元されている他、近年天守曲輪付近も天守台に登れるようになるなど整備が進んでいる。

外堀は2020年まで野垣内町の高付上池が土搔きの旧態のまま残っていたが、道路とするため破壊され、現在は往時の姿をとどめた堀は残されていない。西側、南側は全て埋め立てられ住宅街に消えたが、北東部を中心にため池や治水用の調整池として堀跡が活用され、東側の外堀跡の一部は外堀緑地として公園化された。

高取城

 ■所在地:高取町高取

標高583mの高取山山城に築かれた国内最大級の山城である。

正確な築城年代は文献上不明だが、鎌倉末期の1332(元弘2)年に後醍醐天皇方の越智氏が高取山に築城したという伝承を持つ。

当初は戦時の詰め城として使われたが、最終的には越智氏の本城・拠点城郭となったと考えられる。

戦国期の高取城の縄張りは判然としないが、1532(天文元)年には奈良を蹂躙した後、高取城へ逃れた興福寺衆徒を追って殺到した一向一揆軍を撃退(大和天文一揆)したことからも、その防備の堅固さがうかがえるが。

その後1580(天正8)年、信長の命でいったん廃城となるものの、1584(天正12)年に筒井順慶の手により再建され、翌年大和国が豊臣家により直轄化されると、城主となった本多氏による拡張・改修を経て近世城郭へと変貌。

中世の詰め城から戦国期拠点城郭、そして近世城郭となって幕末を迎えた城郭は、奈良県下では高取城だけである。

城の大手入口である二ノ門から本丸に到達するには10の門を突破する必要がある上、ほとんどの門が枡形を備えており、熊本城や姫路城に劣らぬ防備の構えを持つ。

更に高所の山城でありながら総石垣造の櫓群、屋敷群が山上に配置され、現在も山中にこつ然と現れる壮麗な石垣群高取城の大きな見どころであり、貴重な城郭史料として1953(昭和28)年に国の史跡に指定された。

残念ながら史跡の保存・整備が十分とはいえず、各所で石垣の崩落が見られ、見学者の安全と史跡の保全の両面から、早急な調査・整備が必要と考える。

多聞山城

 ■所在地:奈良市法蓮町

1559(永禄2)年に大和国を電撃的に侵攻・征服を進めた松永久秀により、奈良の町を見下ろす眉間寺山の山上に築かれた平山城である。

曲輪全体に石垣を巡らし、建物は漆喰で塗り固めて瓦葺にするなど、従来は寺院建築にしか用いられなかった建築手法を取り入れた先進的な城郭だった。

久秀の屋敷と家臣団の屋敷が並列的に配されているなど、中世城郭の特徴を色濃く残しつつも、本丸に伝統的武家儀礼に則った豪華な御殿や城主の豪華な常屋敷を配置して、本丸を頂点とする権威的な求心性を持たせている点や、多聞櫓漆喰塀など恒久的な構造物で周辺地域を将来にわたって支配する意思を明示している点で近世城郭の嚆矢と言える城郭であり、中世城郭から近世城郭への移行過程を示す城郭として、日本の城郭史上においても重要な城と言える。

「世界中此城の如く善且美なるものはあらざるべしと考えふ」と訪れた宣教師・アルメイダにも絶賛された城郭だったが、1576(天正4)年に織田信長の命で廃城が決まると、翌年破却されて建材、石垣は周辺各城に持ち出されて転用された。

その後も戦前まで、土塁や縄張りは旧態をとどめて残存していたが、1948(昭和23)年に若草中学校が建設され、主郭部の遺構は現存していない。

現在自由に表面観察可能な遺構は、若草中学校校舎とグラウンド(善勝寺山)の間に設けられた大堀切周辺など一部に限られる。

城域は、隣接する聖武天皇陵、光明皇后陵にも広がっていたが、陵墓のため立ち入りは禁じられている。

 宇陀松山城

宇陀市大宇陀春日

室町時代に宇陀郡の有力国人だった秋山氏が本拠とした秋山城を前身とする。

1585(天正13)年に豊臣秀長大和郡山に入府すると、東山中を抑える拠点として近世城郭への改修が図られた。

1600(慶長5)年に福島高晴福島正則実弟)が城主となると城域の拡張が行われ城下の整備も行われたが、1615(慶長20)年の大坂の役で謀叛の嫌疑をかけられて福島家は断絶。松山城も廃城となって破却された。

城下町の松山はその後も伊勢本街道沿いの商家町として栄え、町の西口関門に残された黒門松山城破却前から残る唯一の現存遺構である。

 

近世陣屋

江戸時代になると新たな城郭の建築は厳しく制限されることになります。

城を持たなかった1~3万石ほどの小大名や旗本も、領地に屋敷や政務を行う藩庁を設けましたが、それらは陣屋と呼ばれました。

陣屋の規模は、領主の屋敷と政庁を簡素な堀で囲んだ小規模なものがほとんどでしたが、中には城郭といって差し支えない規模のものもありました。

ちなみに無城格の大名が城主格に昇格しても、陣屋の拡張や新たな築城は認められず、陣屋の門を城門に改築することしか許されなかったようです。

 

■近世陣屋一覧 ※詳細は城名をクリックしてください。

城名 概要

小泉陣屋

■所在地:大和郡山市小泉町

富雄川西岸の丘陵に築かれた陣屋で、中世は小泉氏の居館が置かれていた。

1601(慶長6)年に豊臣家家老の片桐貞隆(賤ヶ岳の七本鎗・片桐且元の弟)が小泉の他諸国に1万5千石の領地を与えられ、豊臣家滅亡後の1623(元和9)年、貞隆は小泉に入ってかつての小泉氏居館跡に陣屋を築き、竜田越え奈良街道を陣屋の周囲に通して城下町を開いた。

陣屋は、主郭を短辺100m、長辺150mの長方形の堀で囲み、家臣の屋敷が並ぶ外郭にも全長1.8Kmに及ぶ外堀を巡らし、城郭と言って差支えのない大規模なものだった。

現在、城跡は全て住宅地となっているが、内堀の一部だったナギナタ池、お庭池の他、東側外堀の一部が残り、主郭部には城跡碑が立つ他、同じ町内の小泉神社の表門は、陣屋門を移築したもので、当陣屋唯一の現存建築である。

また、2代藩主貞昌は、片桐石州の名で知られる大名茶人で、江戸時代に代表的な大名茶道となる石州流を興したことで知られる。小泉城下に開いた父貞隆の菩提寺慈光院は、境内全体が一つの茶席として設計された珍しい寺院で、庭は国の名勝、茶室・書院が国の重要文化財に指定されている。

龍田陣屋

■所在地:斑鳩町龍田南

1601(慶長6)年に豊臣家家老の片桐且元平群郡に領地を得て、中世国人の龍田氏居館跡に代官を置く陣屋を構えたのが始まりである。

且元は大坂城に常時詰めており龍田入ることはなかったが、次代孝利の時に龍田へ入り、内堀に囲まれた130m四方の主郭と、外堀に囲まれた東西約400m、南北約330mにわたる外郭を有する城郭に等しい大規模な陣屋が構築された。

しかし、片桐家は1694(元禄7)年に無嗣断絶となったため、龍田陣屋は100年足らずで廃止となって農地化していった。

現在、城域は宅地化が進んでいるが、内堀の一部だった平太池と外堀の東側が水路として残る他、その一角を担った東町池が残されている。

なお、城跡の案内板は外郭の西端にあたる竜田公園内に設置されており、主郭周辺は宅地化されており城跡碑などは設置されていない。

柳本陣屋

■所在地:天理市柳本町

織田信長の弟、織田有楽斎の5男尚長が、父の旧領のうち柳本1万石を分知されて立藩した柳本藩の陣屋である。

南北約450m、東西約250mを堀とヤブ(土塁)で囲み、隣接する黒塚古墳の濠も水堀として取り込まれていた。

現在、藩主居館跡は柳本小学校の校舎となっており、堀も黒塚古墳の濠以外はほとんどが消滅しているが、西門の石垣と柳本小学校西側にあった堀の石垣が一部残っている。

また、旧表御殿は橿原神宮に移築され文華殿 として現存し、国の重要文化財に指定されている。

芝村陣屋

■所在地:桜井市

織田有楽斎の4男・長政が父から1万石の分知を受けて立藩した戒重藩がルーツで、1745(延享2)年7代藩主輔宜の時に本拠を戒重から芝村へ移して築いた陣屋である。

南北約270m、東西約200m四方を水堀で囲み、御殿は石垣の上に築かれていた。

現在藩主居館跡は織田小学校の校舎となっているが、南側の石垣は現存して漆喰塀で校舎を囲み、校門は陣屋門を模した意匠となっていて陣屋時代を偲ばせる。また同校の校章は織田家家紋の「織田木瓜」である。

また水堀であった織田小北西の弁天池と、南側の水堀がため池として残る他、陣屋から国道169号線を挟んで西にある慶田寺の山門は芝村陣屋の移築門で、陣屋の貴重な現存建築である。

田原本陣屋

■所在地:田原本町八幡町

1628(寛永5)年に平野長勝によって築かれた陣屋。

長勝は秀吉の家臣で賤ヶ岳の七本鎗の一人・平野長泰の嫡男で、5000石の大名とほぼ同等で参勤交代を行う大身旗本(交代寄合)だった。

平野家は城下の経営を本願寺末寺の浄照寺に委ね、田原本寺内町として大いに繁栄した。

陣屋は寺内町の北東、現在の田原本町役場を含む、中街道沿いのエリアに築かれ、平野氏居館は小字「奥城ヤシキ」にあったものと推定される。

現在陣屋跡は完全に宅地化されて遺構は残っておらず、武家屋敷だった町役場の片隅に案内板が設置されるのみである。

柳生陣屋

※詳細準備中

■所在地:奈良市柳生町

剣豪・柳生石舟斎の子で、徳川家に仕えた柳生宗矩を藩祖とする柳生1万石の陣屋。

柳生氏は中世以来の大和国人で、唯一旧領を維持して大名となった一族だが、当主は代々将軍家剣術指南役として江戸に定府したため、領国の経営は国家老が中心となって進めていた。

陣屋跡は、現在公園として整備されている。

大和国は豊臣家直轄地だった関係もあってか、奈良県内には片桐氏、織田氏、平野氏ら豊臣系の小大名の陣屋が点在している印象があります。

 

まとめ

奈良県内には紹介してきた通り、中世から近世にかけての代表的な様式を持つ城郭が、多く残されています。

しかし、中世城郭を中心に発掘調査が不足、または行われていない城跡も多く、日本の城郭史上その史料的価値が高いと考えられる城跡でも、整備や補修が追い付かず、放置されている城跡が多いのは大変残念です。

奈良県は古代の遺跡が多いこともあり、その稀少性から優先順位を付けた時、どうしても中世以降の史跡への手当てが後回しになることは、ある程度やむを得ないとも考えます。

しかし、城跡を含めた中世以降の史跡は、古代の史跡以上に現代人の身近な地域の生活文化と直結するものであり、その点においては古代史跡と優劣をつけがたい大切な文化財と考えられます。

より地域社会の理解を進めるための文化財として、より一層奈良県内の城跡が見直されることを願います。

参考文献

 

奈良市史 通史 2』奈良市史編集審議会 編