皆さんこんにちは。
戦国時代の大和を代表する武将のひとり、筒井順慶は、畿内で権勢をふるった名将・松永久秀と、大和の覇権を賭けて熾烈な抗争を繰り広げた後、勝利をおさめ大和一国の守護となったことで知られています。
その順慶が本拠とした城が、現在の奈良県大和郡山市筒井町にあった筒井城です。
筒井城については、過去記事で主郭部周辺だけ簡単にご紹介しました。
筒井城は中世大和の政治をリードした筒井氏歴代の拠点でしたが、廃城後、城跡は住宅街に呑まれて往時の姿を偲ぶのが大変難しい城跡になっています。
そこで今回は、城跡の見どころも含め主郭から外郭の外堀まで、筆者のおすすめの登城ルートをご紹介します。
筒井城とは
まず簡単に筒井城の説明からしておきましょう。
場所はこちらで、近鉄筒井駅の東側に東西500m、南北400mという広大なエリアにかつての城域が広がります。
Googleマップでも、かつての東側内堀と南東外堀に由来する水路が見えますね。
こちらは、参考文献をもとに現地を歩き、現在の筒井城周辺の航空写真に推定城域を書き足したもので、赤い線が内堀、青い線が外堀になります。
現在の筒井の町がすっぽりと城域に入ってしまう、広大な城郭だったことがお分かりいただけると思います。
筒井は、中世に奈良から高田、御所へと通じ、北和と南和を結ぶ主要幹線だった下街道と、大阪方面へ抜ける竜田越え奈良街道(もとは古代官道の北の横大路)が交差する交通の要衝で、筒井氏はその居館を両街道の交差する辻の北東に構えました。
下街道と奈良街道の辻は市場町で、奈良街道を挟んで北側が北市場、南側が南市場で、北市場は筒井城外郭に取り込まれていた説もあります。※当記事ではこの説を採ります。
筒井城が文献上初めて現れるのは、1429(永享元)年(満済准后日記)で、この年は大和国における戦国争乱の嚆矢となる大和永享の乱が始まった年に当たります。
同時期には「筒井館」という記述もみられることから、もとは東西170m、南北110mほどの主郭部だけの館城から始まり、次第に城域を拡大して、最後の城主となる順慶のときに、長大な外堀を廻らせた外郭が完成したとされます。
筒井城は戦国期を通じ、応仁の乱の前哨戦といえる畠山氏の内訌から、越智氏、古市氏と筒井氏の攻防の舞台ともなり、1559(永禄2)年に始まる松永久秀の大和侵攻では、順慶と久秀の間で幾度も激しい争奪戦が繰り広げられました。
1571(元亀2)年8月、現在の奈良市東九条町周辺で行われた辰市城の戦いで順慶が久秀を打ち破ると、大和の覇権を握った順慶は筒井城を奪回し、以後本拠地として城郭を整備し、1579(天正7)年には廃城となった多聞山城から石を運ぶなど大改修を加えました。
現在残る巨大な外郭は、この時の順慶の工事により成立したと見られます。
しかし、筒井城の大規模改修が行われている中、翌1580(天正8)年8月、織田信長は順慶に本拠を郡山城へ移すよう命じ、郡山城一つを残して大和国内の全ての城を破却するよう命じました。
先祖累代の本拠地である筒井城を大改修の真っ最中だった順慶に、「壊して本拠地を他所へ移せ」と命令するのは、いかにも信長らしい唐突な命令ですね。
しかし、順慶も低地にあるため水害リスクが高い筒井より、郡山の方が城下の発展を期待できると考えたのか、信長の命令を受けると父祖伝来の筒井城を直ちに破却し、11月には郡山城に入って、心機一転、郡山城を大和支配の中心にふさわしい城郭にすべく大規模な増改築を開始しました。
この時、筒井城の建材は、郡山城の資材とすべく持ち去られてしまい、現在筒井にかつての城跡の痕跡となるような石材などが見当たらないのはこのためかと思います。
こうして、興福寺官符衆徒筆頭の名門筒井氏歴代の本拠であった筒井城は破却され、歴史の表舞台から姿を消すことになりました。
主郭周辺
それではいよいよ、城跡散策に出発です。
筒井駅~下街道
近鉄筒井駅前からスタートして、主郭周辺を回ります。
近鉄筒井駅前。
「がんばれバファローズ」の文字が懐かしい。
今ではすっかり近鉄の歴史から消え去ろうとしている、近鉄バファローズの貴重な痕跡(笑)
巨匠岡本太郎デザインの球団ロゴが、オールドファンの郷愁を誘います。
駅前の通りを北に進み、突き当りを右(東方向)へ進むと、筒井城の大手方向です。
北市場公民館の先がかつての外堀跡の道筋。
さらに東へ進むと下街道に出ます。
住宅に挟まれた細い路地が大手口で、主郭への入り口になります。
大手口付近の下街道は、クランク状になっています。
北市場が筒井城の外郭に取り込まれていた説を採る場合、外堀はこちらの大手口付近で北へ進路を変えていましたので、現在のクランク状の道筋は堀の痕跡となります。
もしくは、街道上の枡形だった可能性も指摘されている場所で、いずれにせよ中世の痕跡といえる場所。
大手~主郭西側
主郭への入り口は、現在かなり細いクランク状の路地になっています。
もとは、もう少し太い道だったと思うのですが、クランク状の道筋であったなら、枡形ということになります。
枡形は戦国後期に現れる城の出入り口の形式ですから、順慶の時代、もしくは松永久秀に占領されていた時代に整備されたことになります。
細い路地を抜けると、「筒井順慶城趾」の大きな碑がお出迎えしてくれます。
主郭南側は蓮田が広がりますが、こちらはかつての内堀跡。
城跡碑から左(北)に向かい、北東方向に歩いて行くと台地上の微高地が見えてきました。
この付近が「シロ畠」と呼ばれる筒井城の主郭跡になります。
廃城後も筒井氏居館跡であったことから、後世の住民も住居を建てることを憚り、畑地とされたと伝わります。
たいした防備もない館城の跡に見えますが、実は周囲の地下に巨大な内堀が眠っています。
筒井城の内堀は14世紀ごろ築造され、深さ約1.6~3m、幅約15m(『筒井城第8次・第9次発掘調査報告書』大和郡山市教育委員会)という巨大な堀であったことが発掘の結果わかりました。
中世では最大規模の巨大な堀で、中世大和をめぐる戦乱の中心的存在だった、筒井氏の本拠にふさわしい威容を誇っていました。
住宅地の道路に抜けると、畑の東側に「筒井城跡」の看板が立っています。
一帯は民有地の畑として残されていますが、大和郡山市の公有地となっているところもあるとのこと。
どちらにせよ無許可で立ち入りはできませんので、見学は道路や畔道から行いましょう。
城跡看板のわきに、筒井城と筒井氏に関する案内板が設置されています。
筒井氏や筒井城の解説のほか、発掘された巨大な内堀の写真など、発掘成果も掲示されています。
城跡碑とともに、この地が城跡であることを明示する数少ない構造物。
南側内堀跡の蓮田を東側から望みます。
元々低湿地だった場所を、堀としたのかと思われます。
主郭周辺の発掘調査で、古くから人々が住んでいたことが分かり、4世紀に造られた溝や、7世紀初めの大きな建造物の遺構も発掘されました。
主郭西側内堀~菅田比賣神社
蓮田の前から東に進むと、突き当たりに水路が伸びています。
こちらは、内堀跡の水路で、主郭東部に鎮座する菅田比売神社(すがたひめじんじゃ)を囲むように残っています。
菅田比売神社は江戸時代まで現在地の北側、筒井小学校東側の大字篠田を鎮座地として、篠田社(信田宮)と呼ばれていました。
延喜式神名帳に記載された式内社で祭神は伊豆能売神(社名の菅田比売と云われる)で、近隣の大和郡山市八条町にある菅田神社(祭神:菅田比古命)の対となる神社とみられます。
1580(天正8)年に兵火で消失し、江戸時代に現在地に祀られていた八幡社と合祀され、菅田比売神社となりました。
こちらは拝殿。
社殿に掛かかる幕の神紋は梅鉢紋。
八幡社は一般に三つ巴なので、もともと篠田社の紋だったのかと思います。
筒井氏の家紋も梅鉢紋なので、筒井城主郭に鎮座していることから関連があるのかとも思ったり、いろいろと想像の膨らむ神社ですね。
神社を囲む水路は「内堀(うつほり)」と呼ばれ、かつての内堀跡であることを示しています。
冬場は草が刈られて、大変水路が見易くなっています。
境内南側にうっすらと土塁跡が残ります。
写真だとほんとにわかりづらいですね。
土塁をうまく撮影する方法ってないかしら。
外堀北側
菅田比売神社から、旧字北垣内を囲む北側の外堀へ向かいます。
筒井城の北側外堀は、表面観察が可能な筒井城の遺構の中で、最も保存状態がよい場所。
個人的には筒井城跡最大の見どころかと思います。
菅田比売神社の鳥居前の道を東に向かうと、主郭の東北隅にあたる三叉路の真ん中に小さな地蔵堂があります。
特に由緒など案内はないのですが、主郭の鬼門の方角にあたるので、もしかすると鬼門封じなのかもしれないですね。
オークワの裏通りから回り込むと、外堀が見えてきました。
東西160mほどにわたって残る外堀は、中世築造時の面影を残す土搔きの水堀です。
草が刈られた冬場は、視界良好で城跡見学には絶好の季節ですね。
こちらの堀と主郭に挟まれた北垣内エリアは大型の宅地割が残っており、筒井氏の重臣たちの居館が建ち並んでいたエリアとされます。
光専寺裏の堀。
ここまできれいに土搔きの水堀が残っている例は、筆者は奈良県内では番条環濠しか知りません。
※番条環濠についての詳細は下記の記事で詳しくご紹介しています。
堀に隣接する家が傾いたり、堀底の泥さらい等手入れが大変なこともあって、水路として残された水堀もほとんどがコンクリートで整備されていく中、現在土搔きの水堀が残されている例は、全国的にも貴重。
この美しい水堀を維持しておられる地域住民の皆さんの努力には、ただただ頭が下がります。
この場所は、主郭前の案内板地図に「もっともよく残る」とだけ書かれるのみで、詳しく紹介されてこなかったと思います。
番条環濠と同じく、観光地化されていない静かな住宅街ということもあるのでしょうが、稀少性の高い史跡と考えますので、せめて案内板など設置できないものでしょうか。
外堀西側~下街道入口
続いて、外堀の北東から東南、南側を巡ってみたいと思います。
外堀西側
オークワの南、東西に延びる水路がかつての外堀跡です。
北東側の外堀跡の字名は「堀田」で、字の区画がそのまま外堀の形になっています。
農道をてくてく歩きながら、外堀の東南部にやってきました。
国道25号線の手前で、西に向かって屈曲します。
このあたりの字名は「東門」というので、城に入る門があったのでしょう。
水門のところから西に進むと、本門法華宗寺院の金岳山本門寺があります。
元々、この地は筒井氏菩提寺の圓證寺の塔頭、壽福院の寺地でした。
圓證寺は元々筒井の地、おそらく、現在の本門寺近辺にあったと思われますが、筒井順慶の父、順昭が亡くなった後、順昭の妻が夫の菩提を弔うため、筒井氏が奈良に置いた屋敷地、現在の奈良市林小路町に移転します。
圓證寺が奈良に移転した後も壽福院は現地に残り、順慶死後はその菩提寺となって、大和郡山市長安寺町にある順慶廟所の管理も行っていました(現在は市の管理)。
しかし、1874(明治7)年に壽福院は廃寺となり、1883(明治16)年に新たに本門法華宗寺院の本門寺として新たに創立され現在に至ります。
境内には小堀遠州作と伝わる枯山水庭園と茶室が残されています。(通常非公開)
小さなお庭ですが、青々とした苔の美しいお庭です。
かつての壽福院寺地のお寺のため、土塀の軒瓦などに「壽福禅院」の字が残っているとのこと。
外堀南側
外堀の南側も、跡が水路として残っています。
水路に沿って、かつて外堀だった場所の字名は「南堀」。
実にわかりやすいですね。
南堀の内側である東垣内は農村部で、惣構えの中に取り込まれていました。
今も、立派な長屋門をもつ大きな農家が軒を並べる一角があります。
大きなクランクになってる集落内の道。
中世環濠集落の特徴的な道筋もたくさん残っています。
下街道のあたりまで、外堀跡の水路がまっすぐ伸びます。
下街道入口
筒井町西交差点。下街道と奈良街道の交差点になります。
下街道沿いに、この交差点から北が北市場、南が南市場という字名で、中世市場町だったエリアです。
交差点南西側の歩道に、『筒井村道路元標』がありました。
市場町筒井の道路元標が設置されるのにこの場所以上にふさわしい場所はないでしょう。
交差点南西にある須浜池。
近鉄の車窓からも見えますが、池の上に住宅がたくさん建っている光景が、非常に珍しい池。
地元だと当たり前の光景でしたが、「水上集落」という取り上げ方をしているサイトを見かけました。
言われてみれば、たしかに珍しい光景かもしれないですね。
この池も筒井城の外堀の一角を形成していたとみる説もあります。
外堀西側
最後に西側の外堀跡を巡ります。
北市場公民館東隣の駐車場と民家の間に大変細い路地があり、その路地沿いに流れる水路がかつての外堀跡とみられる水路です。
水路沿いに歩くと、カラオケ喫茶?の南隣に『順慶好不動明王』が祀られていました。
古いものではなさそうですが、順慶に対する町の愛情が、強く感じられる場所です。
お不動さんの先で、堀跡の水路は住宅の中に消えていきました。
今回初めて筒井城の外郭を隅々まで歩きましたが、改めてその巨大さを実感するとともに、「何も残っていない」とされがちな城跡ながら、外堀の北側は非常に良好に残っており、その他の堀跡も水路として残っていて、かつての城の姿を想像できる場所が意外なほど多く残っていると感じました。
筒井城は筒井氏の居城であったことから、『多聞院日記』をはじめとした同時代史料の記述に頻出する城郭であり、奈良盆地の中世平城としては最大規模を誇る城郭です。
発掘調査から地中に遺構が残されていることも明らかとなっており、史跡としての価値も高い場所ですので、気軽に城跡を訪れて散策しながら遺構を見学できるよう、案内板や見学のモデルコースを設置・設定するなどできることから城跡を整備してもらいたいと思います。
■参考文献
日本城郭体系10三重・奈良・和歌山
リンク
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