皆さんこんにちは。
奈良盆地のほぼ中央に位置する三宅町から川西町にかけての地域は、寺川、飛鳥川といった大和川水系の河川が多く流れ込む低地帯で、中世以来の環濠集落が多く残る場所です。
三宅町にある屏風もそういった環濠集落の一つで、古代からの由緒をもつ町です。
屏風環濠とは
場所はこちらで、地域的には三宅町の北端部で川西町にも徒歩圏内の場所になります。
聖徳太子が斑鳩と飛鳥を往来したと伝わる太子道沿いの集落で、里人が屏風を立てて往来する太子を送迎したことが、地名の由来と伝わります。
鎌倉時代の律僧で極楽寺住職として幕府からも重んじられた忍性の出生地としても知られ、生駒の竹林寺で出土した忍性の舎利器に1217(建保5)年、「大和国城下郡屏風里」で生まれたとあります。
古来より、人々が集住した地域で、室町時代には興福寺領で『興福寺段銭段米帳』応永六(1399)年の条に「屏風荘」とあり、近世は1615(元和元)年から郡山藩領の屏風村となって明治を迎えました。
屏風の環濠形成時期は不明ですが、多くの環濠集落同様に南北朝~戦国期頃に成立したと見られます。
現在濠は全て水路と化して一部埋められていますが、小字名や現在の地形、水路などから想定した環濠は下掲のようになります。
東側と南側の幅広の濠は、寺川や飛鳥川が氾濫に備えた請堤となっており、集落内の枝堀も現存しています。
出入口に枡形などの工夫は現在確認できませんが、集落内は丁字路、クランク、行き止まりといった遠見遮断が多用され、典型的な中世環濠集落の町割りです。
太子道
北側の結崎方面から太子道を南下していきます。
県道197号線の西側を並走する太子道は屏風、伴堂と古くからの集落内を南北に貫きます。
斑鳩から飛鳥まで続く太子道は、中世以降も法隆寺街道として人々の往来がありました。
現在三宅町の屏風、伴堂を通る区間は、かつての直線の道筋を最もきれいに残す区間の一つになっています。
白山神社
境内には愛馬黒駒に乗って太子道を往来していた聖徳太子像が立っています。
ちなみにこちらの像は2代目で、1930(昭和5)年に建立された銅像は、第二次世界大戦中に供出されました。
こちらは、聖徳太子がこの地で休憩するときに使ったとされる腰掛石。
腰掛石というと、同じ太子道沿いの安堵町の飽波神社にもありましたね。
屏風の地名は先述の通り、聖徳太子が斑鳩と飛鳥を往来したとき、この地で休憩を取り、そのとき屏風を立てたことに由来しますが、
杵築神社
白山神社の向かいに、杵築神社があります。
祭神は須佐男命で、江戸時代までは牛頭天王社でした。
ちなみに屏風の南、伴堂集落にも杵築神社がありますがこちらも、もとは天王社でした。
田原本町もそうなんですが、磯城郡内は元々牛頭天王社だった神社が多い印象です。
こちらは拝殿内の「おかげ踊り」絵馬。
1868(慶応4)年に奉納された絵馬で、江戸時代末期に流行した伊勢参り(おかげ参り)後に村々で催されたおかげ踊りの習俗を伝える貴重な史料として、県指定の文化財になっています。
寺川を挟んですぐ隣の結崎、糸井神社にも同様の絵馬が奉納されており、近郷の伊勢参り熱の高さが伝わってきますね。
春日造の本殿です。
こちらの神社にも聖徳太子に因んだ旧跡が遺されており、境内北側にある「屏風の清水」と呼ばれるこちらの井戸跡がそれです。


聖徳太子がこの地で休息をとっていた時、従者の弓で地面を掃くとこんこんと清水が湧き出て、以後、こちらで休憩するときに太子が愛飲したと伝えられています。
平群の椿井や斑鳩町の赤染の井など、聖徳太子の伝承がのこる井戸は、太子ゆかりの地には必ずと言っていいほどありますね。
忍性生誕碑
杵築神社から少し南に、「忍性菩薩御生誕之地」と刻まれた碑が立っています。
1217(建保5)年に、屏風の地で生まれた忍性は、西大寺を復興した叡尊の弟子となり、師匠とともに律宗を復興した僧です。
文殊菩薩を深く信仰したことから、非人やハンセン病患者といった貧困と蔑視により困窮した人々の救済に努め、それを寺院による社会事業として進めたことで知られます。
36歳で関東へ下向した忍性は、鎌倉の極楽寺を拠点に活動。
鎌倉幕府の首脳たちからの信任も厚く、律宗を興隆させるとともに、布教の一環として全国の古寺の復興や河川改修などの社会事業を進めました。
※忍性の生涯については、以下の記事に詳しいので是非ご一読ください。
鎌倉時代の僧というと、どうしても法然、親鸞、日蓮といった鎌倉新仏教の面々が有名で、旧仏教側の僧とされる叡尊・忍性は、いささかマイナーな存在なのですが、もう少し評価が上がっても良い人物かと思います。
権力に近く、日蓮から目の敵にされたこともあって、今でも日蓮宗界隈では悪役イメージが強い僧なので、もしかするとそのあたりがマイナスに働いているのかな。。。
屏風集落
忍性生誕碑の西側に屏風集落が広がっています。
写真手前、集落東側を流れる環濠の一角を成す用水路は集落側の道路(太子道)が高くなっており、これも寺川の氾濫に備えた請堤かなと思われます。
集落の東の入り口にある地蔵堂。
太子道側が盛り上がっており、堤防となっていたことをうかがわせます。
集落内の枝堀もきれいに残っています。
環濠の北側は用水路になっていました。


集落内の道路は非常に狭く、緩やかにカーブしています。
蔵を備えた古い民家もたくさん残っており、奈良の昔ながらの農村風景を色濃く残す集落です。


集落南側の幅広の用水路は、屏風集落と南隣の伴堂集落との境界になっています。
南側の集落も環濠になっており、周囲より一段土地が高くなっていました。
大字が異なるので、屏風とは別の集落になると思うのですが、屋敷地の区画も大きく中世の武家居館のような佇まいです。
屏風集落南側の水路にも、洪水対策の請堤が設けられていました。
こちらは飛鳥川の氾濫に備えた堤防になります。
奈良県内に残る多くの環濠集落は、従来中世の戦乱に対する備えという面で語られることも多いのですが、平和となった近世から現在にかけて、近隣の大阪、京都から環濠集落が姿を消す中、奈良、とりわけ現在の大和郡山市東部や磯城郡内に多くの環濠集落が温存されたのは、低地帯で河川氾濫の危険度が高い地域であったことが、大きな要因と言えるでしょう。
とくに、結崎から屏風にかけての環濠集落は、濠が持つ洪水対策の側面を強く感じられる光景になっていました。
近隣情報
■伴堂環濠は中世領主居館を中心とした環濠をルーツとする太子道沿いの環濠集落で、屏風から太子道を南に進んですぐの場所にあります。
■屏風環濠から寺川を挟んで北東にある結崎の井戸・辻・中村の三環濠は、それぞれ特色の違う環濠集落になっています。
近鉄結崎駅から結崎の環濠集落を巡って、太子道沿いに屏風、伴堂と回った後、近鉄黒田駅から帰る(逆でもOK)と、公共交通機関を利用して効率よく環濠集落三昧の散策を楽しめます。