皆さんこんにちは
その町役場を中心に広がる結崎地区は、井戸、辻、中村と3つの環濠集落が約500m四方のエリアに集中するエリアです。
3つの集落は一口に環濠集落と言っても、そのルーツは違っており、井戸と辻は中世武家の居館を取り囲んだ環濠が集落化したのに対し、中村は特定の武家居館を中心としたものではなく、惣村が自衛・もしくは治水対策のため周囲を環濠で取り囲んだものとされます。
井戸と辻の環濠については、下記記事でご紹介しました。
今回は結崎地域の鎮守であった糸井神社と、市場、中村両集落を紹介します。
糸井神社~市場
結崎南西部、江戸時代まで大和川水運が活発だった寺川の土手に最も近い集落が、市場になります。
市場の名は、糸井神社の祭礼のときに市が立っていたことに由来するのではないかと考えられます。
実際に糸井神社の拝殿に掛けられている1842(天保13)年奉納された太鼓踊り絵馬には、境内周辺でスイカの切り売りを行う売店などが描かれ、寺川に隣接する地域でもあり、大和川水運を行き来する船からの荷揚げや交易もあったのかもしれませんね。
こちらは糸井神社の鳥居。
糸井神社は延喜式神名帳にも名が見える古社で、結崎の総鎮守として郷民の精神的紐帯となってきました。
古来、結崎大明神と呼ばれて地域信仰の中心にあり、社伝では機織の技術集団の神である綾羽、呉羽の神を祀った(現在も豊鍬入姫命、猿田彦命と並んで主祭神として祀られる)とされ、糸井や結崎の名からも、その創始は機織集団との関係が強く示唆されます。
こちらは拝殿。
拝殿内に掛けられた「おかげ踊り絵馬」(写真左)と「太鼓踊り絵馬」(写真右)。
「おかげ踊り絵馬」は、1868(慶応4)年に奉納された絵馬で、伊勢神宮へのおかげ参りの後に村の中で人々が踊る「おかげ踊り」が1830(文政13)年から畿内一帯で流行りだし、その様子を描いたもので、今でも集落内に多数残る大神宮の常夜灯とともに、結崎のおかげ参り熱の高さを今に伝える絵馬になります。
ちなみに「おかげ踊り」は、この絵馬が奉納された前年に大流行した「ええじゃないか」とは無関係の習俗です。
一方の「太鼓踊り絵馬」は1842(天保13)年に奉納された雨乞い踊りを描いたもので、「おかげ踊り絵馬」とともに江戸時代の習俗を現代に伝える貴重な史料として県の文化財に指定されています。
こちらが本殿。
現本殿は江戸時代に春日大社から移築されたもので、春日造の立派な本殿。
あと50年ほどしてきちんと残っていれば、重要文化財に指定されるかもしれないですね。
中世以降、長らく結崎は興福寺領だったこともあって、糸井神社は鎌倉時代にも春日大社の末社八竜神社から旧本殿の移築を受けたことが知られ、室町時代の「春日鹿曼荼羅」を蔵し、江戸時代の『大和名所図会』に「今春日と称す」と記述されるなど、春日大社との深い結びつきを感じます。
神社の周囲を囲む環濠と土塁はそのまま残されています。
奈良の環濠集落内にある鎮守社は濠と土塁が良好に残ってる場所が多いですね。
市場集落の南、寺川沿いの濠跡水路
こちらは集落の北側の濠跡。
完全に暗渠化されていますが、糸井神社の濠と今でもつながっています。
市場集落への西側入口にある大神宮の常夜灯。
糸井神社の鳥居前から東へ伸びる道が、江戸時代まで市場、中村と続く結崎郷のメインストリートでした。
大神宮の常夜灯の北側は、かつて糸井神社の神宮寺だった和福寺跡の薬師堂です。
和福寺は1874(明治7)年までに廃寺となり、その売却金額は小学校の運営費用に充てられました*1。
学制発布後、小学校はまずこちらの敷地に設けられ、後に中村集落を経て現在の川西小学校の場所へ移動しました。
現在の薬師堂は和福寺の庫裏を移築したものと伝わり、中には高さ120cmを超える本尊の薬師如来坐像や、平安時代作とされる十一面観音菩薩立像、阿弥陀如来坐像をはじめとした秘仏8体が安置されています。
広報川西2019年9月号で詳しく紹介されていて、非常に素晴らしい仏様なので是非ご覧ください。
ご本尊をはじめそのほとんどが江戸時代の作なのですが、あえて平安時代の様式を模している点が、一般的に慶派の様式が鎌倉以降他派を圧倒するように通説では語られる中、非常に興味深いです。
和福寺については廃寺となって寺伝も残されていないため詳細不詳なのですが、糸井神社の神宮寺は「観音院」と書かれた史料もあるので、もしかすると平安時代作とされる十一面観音菩薩立像が元々本尊だった可能性もありますね。
毎年7月16日と10月の糸井神社の祭礼では、地域外の人にも開帳してお参りすることができるそうなので、是非一度お参りしたいと思います。
中村環濠
最後に結崎南東部にある最大の集落、中村環濠に入ります。
集落中央を東西に貫くメインの通りから櫛の歯状に南北に路地が伸び、行き止まりやクランクが続く町並みになっています。
こちらはメインの通り市場集落との境目付近です。
北(写真左)へ折れる狭い道は、もともと濠の跡と思われます。
交差点北側の路地を進むと、暗渠化された水路の先に北側の濠跡の水路が姿を現していました。
もとのメインストリートに戻り、東に進むとここでも大神宮の常夜灯が残されています。
中村にも所々に古い民家が残されていますが、こちらはもともと長屋門ぽいですね。
環濠東側の枝濠跡と思しき路地には、濠へ下りるための石段らしきものが残されていました。
中村環濠の東端に鎮座する都留伎神社。
かなり背の低い石鳥居です。
祭神は都留伎比古命。
『出雲国風土記』で素戔嗚命の子とされる都留支日子命と同じ名前なのですが、境内案内板によると境内の灯篭に「鶴木」という名が刻まれており、中村のために池を掘った人物とも、寺川堤に隣村に無断で水樋を通して獄中死した人物とも伝えられ、この人物を祀ったとされています。
いずれにせよ、中村にとって水利に功績のあった人物が祀られた社で、社名や祭神名は彼の名前に音が近い都留支日子命から取られたのでしょう。
こちらは本殿です。
近年建て替えられたのか、真新しい玉垣が本殿を囲んでいました。
手入れの行き届いた集落のお社を見ていると、地元の素朴な信仰が引き続き守られていることを感じます。
都留伎神社から南に向かって寺川の土手を上ると、「たつみ橋」の袂に結崎の松の碑と松の苗木にお地蔵さんがありました。
結崎の松は、1908(明治41)年に奈良県内で明治天皇統監のもと行われた陸軍特別大演習のとき、この地に生えていた大松がよい目印となったことから、陸軍の司令官に「結崎の松として大事にせよ」との言があり、これを記念して大事に育てられていましたが、1975(昭和50)年頃に枯れてしまったとのこと。
以後、何度も新しい松が植えられているそうですが、中々育たず枯れてしまうのだそうです。
在りし日の結崎の松の姿はこちらです。
再び環濠内に戻り、環濠の北東角付近に戻ってきました。
かつての環濠の石垣が、側溝の中に埋もれているのが見えます。
また、その北側で環濠跡の水路はコンクリートで蓋をされた暗渠になって西に折れていきます。
暗渠は歩道になって西へ続きます。
立派な大和棟の民家も集落内には残っています。
川西町の商工会館裏を流れる北側の濠跡になる水路。
こちらが現在の中村環濠で、もっとも環濠集落の雰囲気が感じられる場所だと思います。
一般に環濠集落の濠は、中世から戦国時代にかけての戦乱の中で形作られたとされる場合が多いですが、平和な江戸時代以降も奈良県内に数多くの環濠が残ったのは、灌漑と治水に利用されたからとされています。
結崎の環濠は、周囲が低地だったこともあり治水用の濠と土手が主たる機能だったと見るべきかと思いますが、辻環濠の舟入などを見ると、物資運搬用の水路としても活用されていたという、環濠の新たな側面が垣間見られると思います。
奈良には多くの環濠が残りますが、狭い盆地の中でも地域によってその在り様が様々というのも、奈良の環濠の魅力ですね。
参考文献
『角川日本地名大辞典 29 (奈良県)』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編纂