皆さんこんにちは。
保津環濠は、江戸時代以前の環濠集落が数多く残ることで知られる奈良県にあって、現在もかつての環濠が水路という形で集落を取り囲み、集落内の路地も江戸時代以前の町割りを残す集落として知られています。
保津環濠とは
場所はこちら。
保津環濠集落は、田原本町役場から西へ1km弱のところにあります。
近辺は縄文後期の遺跡が見つかるなど、古くから人々の集住が始まった地域で、この集落も、弥生時代の巨大集落遺跡とされる保津・宮古遺跡の一角にあります。
飛鳥時代には古代の有力氏族・穂積氏の勢力圏で奈良時代には十市郡保津邑の地でした。
平安時代以降は貴族の荘園となったようで、『近衛家文書』の『近衛家所領目録』建長五(1253)年の条に「保津荘」の名があり、鎌倉時代は摂関家であった近衛家の所領だったことが分かります。
その後は『春日神社文書』の『興福寺造営段米田数帳』応永六(1399)年の条には「穂津荘」の名が見えますが、室町時代には興福寺領となっていたのか、はたまた摂関家領の事務を興福寺が代行していたのかは判然としていません。
戦国時代末期の織豊期には、同時期の文書とされる橿原・今井町の称念寺文書『今井兵部田畠数書上』には、今井を寺内町化させた本願寺一家衆・今井兵部と足利将軍家の領地が保津荘にあったことが記されていますが、詳細は分かっていません。
現在の保津集落とその近辺では、発掘すると近世以降の遺跡、遺物しか出土しない事から、現在の集落は近世・安土桃山時代以降に形成されたと見られています。
南北朝~室町期については、現在の集落の北西部に旧集落があったようで、何らかの理由で集落が移転されたようです。
江戸時代は幕末まで、一貫して交代寄合であった大身旗本・平野家5000石(本拠・田原本陣屋)の領地でした。
現在の環濠の正確な成立年代は文献上不明ですが、1704(元禄17)年の古絵図には既に現在の環濠と町割りが描かれており、江戸前期までには現在の集落の骨格が完成していたことが分かります。
保津環濠は領主居館を中心とする集落ではなく、念仏道場だった誓願寺を中心とした惣村型集落で、およそ100m四方の小規模な集落ながら、江戸時代、堀の幅は狭いところで1間(約1.8m)、広いところは2間(約3.6m)ほどあり、堀の内側には幅1、2間の藪がありました。
江戸時代に入ると、堀は防御施設としては不要となりましたが、灌漑用水のため池として活用され、1754(宝暦4)年、領主平野家の差配の下、領内から人夫が駆り出されて東、南、西側の堀が拡張されるなど、江戸時代を通じて維持管理されることになります。
保津の環濠は明治以降も灌漑用水として利用され、1956(昭和31)年に吉野川分水が引かれるまで、旱魃時用のため池として活用されていました。
1974(昭和49)年頃の航空写真を見ると、集落の四方を囲む環濠がはっきり残っていることが分かります。
環濠周辺
太子道
集落の西側には、南北に斑鳩と飛鳥を結んだ古代からの街道・太子道(筋違道)が通っています。
太子道は保津環濠の西側で、現在は行き止まりとなっていますが、発掘調査の結果、現在農地となっている南側に向かって、道が続いていたことが分かっています。
中世以降、太子道は法隆寺街道と呼ばれ、斑鳩と今井町・八木方面を結ぶ道であり、沿線住民の生活道路として、人々が往来しました。
宮古・鏡作伊多神社
環濠集落北側の道路を挟んで宮古の地に鎮座しているのが宮古・鏡作伊多神社です。
祭神の石凝姥(いしこりどめ)命は、作鏡連(かがみつくりのむらじ)の祖神で、三種の神器の一つ・八咫鏡を作った神として知られます。
江戸時代以前は補屋大明神と称して境内には本地堂があり、大日如来が祀られていましたが、明治の神仏分離令によって堂は取り壊され、大日如来像は同じ宮古町内の浄蓮寺に移されました。
明治に「明神」の神号が廃されると、境内北東にある宮古池の字名が「伊多坪(いたのつぼ)」だったことから延喜式の「鏡作伊多神社」に比定されて、現在の社名と祭神に変更されました。
あ・うんの狛犬がお出迎えしてくれます。
こちらは江戸後期1809(文化6)年に奉納された狛犬。
拝殿と社殿は1997(平成9)年の台風被害で破損したため、新たに建て替えられました。
拝殿の内側、社殿前に建つ石灯籠は、1863(文久3)年に勃発した天誅組の変で、天誅組追討のため出陣した小泉藩主の武運長久を祈念して奉納されたもの、とのこと。
高取・五條方面へ進軍する際に、小泉藩主・片桐貞篤が宮古村に宿泊し、宮古村からは片桐軍の進軍・宿泊のため多くの人足が徴発されたようです。
宮古村にとっては、天誅組の変に関する動員は大きな迷惑だったかと思いますが、歴史的な事件に村人が巻き込まれたことを後世に伝えるモニュメントとなっています。
環濠
保津環濠は、一部の堀が暗渠化されているものの、水路として整備され、集落を取り囲む堀の旧態を今に伝えています。
北側
集落北側を通る道は、国道24号線バイパスの西にある富本から阪手を経由して、田原本町東部の村屋坐彌冨都比賣神社にまで至る古道で、7世紀初頭に隋使・裴世清を迎えた道と推定されている街道です。
ちなみに、この街道から北側が旧式下郡、南側が旧十市郡で、江戸時代以前の郡境になります。
かつては街道沿いに川が流れ、その内側に環濠の堀が設けられていたので、北側は二重の堀となっていました。
東側
東側の堀は暗渠化されています。
暗渠部はコンクリートで蓋がしてあるので、わかりやすいですね。
もともと環濠外に住居はありませんでしたが、環濠の東側の住宅地は近世に環濠内から分家していった人々により、集落が拡張されていったエリアになります。
環濠の南東に地蔵堂がありました。
南側
こちらは集落南の出入り口。
古図には「屋舗ノ門」とある場所です。
現在、保津環濠集落への出入り口は4か所ありますが、江戸時代の初め頃には西と南に1か所ずつしかなく、こちらの南口には1887(明治20)年頃まで木戸門が残って門番がおかれていたと言います。
現在は北西方向へ道路が伸びていますが、下図のように江戸時代は北に向かって真っすぐ木橋がかけられていました。
入り口に入ると通路は西に屈曲して枡形を形成し、図に御赦免地とある庄屋屋敷から横矢を掛けられる道筋になっていることが分かります。
また、集落の南側が突き出ていることで、南口の木橋に押し寄せる敵へ、西側から横矢を掛けることが可能。
現在の集落は近隣の発掘調査から、成立したのが近世(安土桃山時代)以降と見られ、街道に面した北側には出入り口を一切設けず、大手というべき南口に枡形を備え、横矢掛りの構造を持つなど、戦国の緊張感が伝わる集落の造りになっています。
鏡作伊多神社南側
集落南西に鎮座する保津・鏡作伊多神社外縁の環濠。
神社を取り囲んでいた枝堀も水路化されていました。
境内の周囲は、うっすらと土塁だったと思しき盛り上がりも見られます。
万一集落が攻撃を受けた際は、神社境内を主郭として抗戦することを想定していたのでしょう。
東側
環濠の東側は、幅も広く最も往時の環濠の規模を感じられます。
水路はコンクリートで整備されていますが、草刈りや泥上げ等、環濠時代と同様の手入れが行われています。
西の引橋だった出入り口
江戸時代に集落の拡張と利便性を高めるため、出入り口は漸次増えていったのでしょう。
東側の堀は北端部が暗渠化されています。
環濠内
札場
南口を入ってすぐの場所に札場の跡があります。
旧十市郡の北端にあたることから、制札場が置かれた場所とされます。
常夜灯と遥拝所の石柱が残されていました。
保津・鏡作伊多神社
保津環濠集落の南西に鎮座する鏡作伊多神社。
祭神は石許利止売(石凝姥)命。
全く同名の神社がここから200mほど北の宮古地区にありますが、実はこちらの神社も明治の神仏分離令で、延喜式内社の鏡作伊多神社に「比定」されて名称、祭神が変更となった神社です。
因みに鏡作伊多神社は延喜式では式下郡の神社として記録されているので、ご近所とはいえ十市郡の当社に比定するというのは、かなり強引な印象を受けます
江戸時代以前、こちらのお社は牛頭天王社でした。
通常、牛頭天王社というと素戔嗚神社や八坂神社、津島神社などに替わる例が多いと思いますが、隣接する宮古同様、地域の祖神とされる神社へ変更されたようです。
創建年や由緒は不明ながら、中世以前は、現所在地から200mほど東の小字・伊多敷に鎮座していたと推定され、近世、保津集落が現在地に移った時、一緒に遷座したと考えられています。
田原本町周辺は、祇園祭が行われることで有名な津島神社をはじめ、江戸時代まで牛頭天王(祇園神)を祀っていた神社が多く見られますが、中世から江戸時代にかけての祇園信仰の大きな広がりを感じます。
こちらの神社でも、あ・うんの狛犬がお出迎えしてくれます。
幕末の1835(天保6)年の銘があります。
こちらは拝殿。
本殿は南北二つあります。
南本殿が主祭神の石許利止売命を祀り、隅木入春日造で文化年間(1800年頃)の建築。
北本殿の祭神は宇間志麻遅命で、物部氏や穂積氏の祖とされる人物です。
穂積氏は、保津集落周辺を本貫とした古代氏族で、もともとこちらの神社の主祭神だったのかもしれないですね。
集落内
主楽内は細い路地が続き、クランクや丁字路が連続する、環濠集落ではお馴染みの町並みになっています。
古図で「道場屋舗」とある場所に現在も所在し、明治の初め頃に作成された境内見取り図とほぼ変わらない姿で残っています。
戦国時代末期、保津環濠集落を含む保津荘は、称念寺文書『今井兵部田畠数書上』によると、大和最大の寺内町となる今井町の中心寺院・称念寺(当時は今井の念仏道場)を建立した本願寺一家衆・今井兵部が、保津荘の半分を領していました。
ちなみに同時期に保津荘の半分は「公方成」とあり、足利将軍家領であったと推定されます。
現在の集落が形成された近世初期は、今井兵部が保津を領有していた時期と重なり、この時期は、1570(元亀元)年に始まる石山合戦で本願寺教団(一向宗)が織田信長と本格的な抗争を開始し、大和でも今井町などの一向宗門徒が本願寺に呼応して蜂起していた時期(1571~1575年)でした。
こちらのお寺を見ていると、今井兵部が織田信長やその配下の筒井順慶の来襲に備えて現在地に集落を移転し、誓願寺を中心として集落に環濠と土塁を巡らせて防備を固めたのではないか、と筆者はついつい妄想してしまいます。
もっとも、保津集落が今井兵部の領地であった確証はありません。
しかし、誓願寺の創建が戦国期以前まで遡るのであれば、浄土真宗寺院を中心として防備を固めた環濠集落だったという線も、全くの的外れではないんじゃないでしょうか。
現在の保津環濠の形成については、戦乱や盗賊に備える防衛対策だったとする説以外にも、灌漑と洪水対策のために環濠が成立したとする説も有力です。
実際に現在の田原本町のハザードマップを確認すると、現集落に比べて旧集落のあった地域の方が浸水時の危険度が高くなっており、洪水除けに集落が移転された可能性も低くないでしょう。
しかし町の出入り口の形や、枝堀・土塁を設けた神社の主郭化など、集落の構造には軍事的な特徴が強く見られ、灌漑・洪水対策だけではこういった特徴を説明できないので、筆者は環濠形成に軍事的な背景が大きく存在していたと考えています。
保津環濠は江戸時代に入ってからも、水に乏しい奈良盆地にあって、灌漑用のため池として維持管理されてきたことが文献上明らかな環濠です。
他の地域と比べて、なぜ奈良盆地に多くの環濠集落が残ってきたのかを考える上でも、保津環濠は非常に重要な集落と言えるでしょう。
参考文献
『保津・宮古遺跡第1次発掘調査報告書』
『考古學論攷 : 橿原考古学研究所紀要』奈良県立橿原考古学研究所
『平野村史』平野村史編纂委員会 編
『奈良県史跡名勝天然記念物調査報告 第54冊』奈良県立橿原考古学研究所 編
『奈良県地誌』堀井甚一郎 著
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