大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

平野郷散歩(4)昭和レトロ漂う平野本町通、全興寺界隈

皆さんこんにちは。

 

大阪市平野区の中心街区は、江戸時代まで巨大な環濠に囲まれた、平野郷と呼ばれる自治都市でした。

平野郷の環濠と街道(国土地理院HPより作成)

町内には古代から街道の交差する辻や追分がいくつもあり、平野川の水運にも恵まれた平野郷は、江戸時代には河内木綿の集散地として繁栄しました。

環濠の内外は大小の門を備えた13の木戸口で結ばれ、全ての門が撤去された現在も、かつて全ての木戸口にあった地蔵尊の内、11の地蔵堂が各出入口に残されています。

今回散策するのは、下図の赤い破線で囲ったエリア。

国土地理院HPより作成

現在中心的な商店街となっている本町通界隈や、平野郷発祥のきっかけとなった全興寺など、平野郷の中南部と3つの木戸口周辺をご紹介します。

 

本町通のアーケード街

こちらはアーケード街の西側出入口。

戦前、実は平野郷の商店街はここ本町通ではなく、町の北側で奈良街道だった泥堂筋にありました。

本町通が現在のような商業地になったのは戦後のこと。

本町通沿いは戦中に建物疎開で多くの家屋が撤去され、空き地がたくさんありました。

ここに戦後自然発生的に闇市ができ、1948~50(昭和23~25)年にかけ順次物資の統制が解除されると、本町通沿いに商店が相次いで開業。

泥堂町にあった老舗も多くが本町通へ移転し、周辺の宅地化で南海平野線平野停留所への通勤路にもなっていた本町通は急速に発展して、もともと中心的な商店街であった泥堂筋に替わる、大商店街となったのです。

 

こちらが現在のアーケード街。

アーケード街は3の商店会に分かれますが、西脇門筋~流門筋(中高野街道)までの区間平野本町通商店会で、昭和の香りが色濃い商店街。

ただ、郊外にある商店街の宿命といいますか、残念ながらシャッター街化が進んでいます。

周辺に宅地も多いし、もっと賑わいがあってもいい気がするんですが、2020年からのコロナ禍で町歩きに訪れる方も激減したそうで、徐々に人通りも増えてくれることを願います。

 

こちらは天神筋との辻。

地元の方々の憩いの場にもなっている正面のカフェは、町屋を修景されたものです。

ちなみに、こちらの辻の北西区画は、江戸時代まで天満宮の境内でした。

摂州平野大絵図(『平野郷町誌』より引用・国立国会図書館蔵)

天満宮の正門はこの筋に面して建っており、天神筋の名はこの天満宮に由来します。

1897(明治30)年に天満宮は赤留比売命神社に合祀され、当地の社殿は廃されました。

 

辻の南側にある、道標。

(北側)左 ふちゐ寺 大峯山

(東側)左 なかの 住よし さかい

(南側)右 八尾 志紀山

とあります。

ここで南に進むと住吉、堺へ続く街道(八尾街道)へと進みます。

 

流門筋との交差点付近は開いているお店も多くて賑やかでした。

訪れたのが平日の昼間だったので、夕方などはもっと人通りが多いのかもしれないですね。

天神筋~堺口周辺

天神筋に戻って13あった木戸口の一つ、堺口へ向かいます。

本町通から天神筋を南に進むと、堺口方面との丁字路に高塀造の町屋が見えてきました。

奈良県内なら大和棟と呼ばれる様式で、大和、河内地方の富農の住宅に広く見らる様式ですね。

商家だけでなく農家も多かった平野郷には、こちら以外にもいくつか高塀造の町屋が見られます。

ちなみにこちらの町屋は、現在カフェになっています。

あひる菓子店公式インスタグラム

 

天神筋から堺口の方へ西に入ると、大きな銀杏が一際目を引く寺院があります。

浄土宗寺院の銀杏山観音寺で「いちょう観音」とも呼ばれています。

創建は816(弘仁7)年、長寶寺と同じく坂上田村麻呂の娘で桓武天皇の妃だった、慈心大姉(坂上春子)の開山で、本尊は十一面観音。

この寺の本尊は、大坂の陣で豊臣方に放火されて持ち去られましたが、夏の陣から31年後の1646(正保3)年、大和国片岡山で発見されて当寺に戻されたと伝わります(『平野郷町誌』)。

「片岡山」は、現在の奈良県王寺町近辺(上牧町香芝市も含む)を指す地名です。

大坂の陣では関ヶ原の戦いの後、改易された大和国人衆の多くが牢人衆として大坂城に入城し、その中にはもともと王寺周辺を治める国人だった片岡春之ら片岡氏一党も加わっていました。

戦後、春之は大和に戻って出家したと伝わりますので、大坂の陣で観音寺から本尊を持ち去ったのは、春之ら片岡氏一党だったのかもしれませんね。

 

観音寺門前からすぐ西が堺口。

堺口から先は住吉堺道で、中野から住吉、堺へと至る街道です。

 

こちらが堺口地蔵堂

地蔵堂西(写真右)側の道はかつての堀跡で、中高野街道の出入り口であった流口まで続いていました。

 

堺口から流口まで巡らされた堀は現在埋め立てられていますが、地形的に堀の痕跡がよく残っている場所です。

こちらは堺口地蔵堂の南にある銭湯・戎湯西側にある段差。

写真手前(西)側が低くなっているのが分かると思いますが、ちょうど堀があった場所で、この段差は堀の痕跡となります。

この場所以外にも、こちらの堀跡の周囲は、かつての環濠内の方が高くなっているのがよくわかる場所がいくつかあります。


全興寺(せんこうじ)

堺口から本町通まで戻って東へ進み、流門筋(中高野街道)を少し南に進むと、全興寺の西門が見えてきます。

山号は野中山で真言宗寺院です。

創建は寺伝によれば、飛鳥時代聖徳太子が一面野原であったこの地に、自ら作製した薬師如来像を祀る薬師堂を建立したのが始まりとされます。

全興寺周辺の旧町名は野堂町ですが、野原にぽつんと一堂だけ建っていた土地に人々が集まり町を成したので「野堂」と呼ばれるようになったと伝わり、これが平野郷の起源となりました(『平野郷町誌』)。

いわば、平野郷始まりの地ともいえるお寺です。

 

こちらは、西門脇に掛けられた境内の案内図。

全興寺の境内には、楽しみながら仏教の教えや地獄・極楽「体験」ができる様々な施設があり、たびたびテレビなどのメディアでも紹介されています。

※詳しくは、お寺の動画・HPをぜひご覧ください。

筆者がこちらのお寺を初めて知ったのも、「ごぶごぶ」という大阪毎日放送のTV番組でした。

地獄の釜の音が聞こえる石など、「パラダイス」感満載の境内になっています。

ちなみに実際に頭(耳)を近づけると、ゴーっと独特な音が聞こえてきます。

地獄を身近に感じられるスポット(笑)

地獄堂などアトラクション感あふれる施設がたくさんあり、こういった施設を訝しむ方もおられるでしょうが、古刹の持つ霊験譚やそれにまつわるスポットが、本来庶民に身近に仏教を感じてもらうための施設だったことを考えれば、現在的な信仰の場として全興寺さんのような取り組みは、筆者個人としては大いに「あり」と考えています。

地獄堂、なかなか楽しかったですよ!

 

こちらは本堂。

大坂冬の陣で消失し、江戸時代初期に再建されたものです。

再建年は『平野郷町誌』『平野郷 : 大阪市編入五十周年誌』によると1624(寛永元)年、お寺のHP等によると1661(万治4、寛文元)年とあり、いずれにしても江戸初期で、大阪府内の木造建築としては古いものになります。

秘仏本尊の薬師如来像の他、大坂夏の陣で、真田信繁によって爆破された樋尻口地蔵の頭部と伝わる首の地蔵尊が祀られています。

 

秘仏本尊の開帳日は毎年、1月8日13:00~と中秋の名月の19:00~。

首の地蔵尊の開帳日は毎年8月23、24日。

 

こちらは本町通に面した北門。

北門を入ると両脇に西国三十三所観音霊場の写し霊場である石仏が並びます。

奥には一願不動尊が立っています。

 

不動尊の隣の北向き地蔵堂

こちらには4体の地蔵尊が祀られていますが、うち2つは13の木戸口に設けられていた地蔵堂で、道路の拡幅などで取り壊された泥堂口社内口地蔵尊です。

真ん中が泥堂口地蔵、右が社内口地蔵

 

小さな駄菓子屋さん博物館

こちらは全興寺境内にある小さな駄菓子屋さん博物館

寺の蔵を改修して作られた施設で入館無料で公開されています。

中には全興寺住職が、小さな頃駄菓子屋さんで集めたコレクションを中心に、ノスタルジーあふれるアイテムが並びます。

氷式の冷蔵庫に駄菓子屋のジオラマ

こちらは在りし日の南海平野線、平野停留所周辺のジオラマ

八角屋根の特徴的な駅舎まで完全再現です。

平野郷の町おこしを推進されている「平野の町づくりを考える会」は、1980(昭和55)年に廃線となった南海平野線・平野停留所駅舎の保存運動がきっかけで発足し、全興寺の住職川口良仁さんは中心メンバーのお一人です。

こちらの博物館も、「考える会」で取り組まれている「町ぐるみ博物館」の一つになります。

「考える会」は「会長なし・会則なし・会費なし」の三原則に、「おもしろいことをいい加減にやる」をモットーとされていて、多くの人が活動に参加して継続し易くするやり方は、地域振興の取り組みとしてユニークで、示唆に富んだ活動だと思いました。

地道な活動って、広げていくことと継続する事が一番大事ですよね。

筆者もこちらの取組みに、見事にと引き寄せられた口です(笑)

中高野街道

全興寺西門を出て、流門筋・旧中高野街道を南へ進みます。

中高野街道は、平野郷の泥堂口にあった一里塚を起点とし、河内長野までを結んだ街道です。

平野から北へは京街道大坂街道)の守口宿までを結ぶ放出街道と接続し、江戸時代まで京街道高野山を結ぶ主要ルートの一つでした。

 

全興寺西門を出てすぐ南にある町屋カフェの門前茶屋おもろ庵さん。

平野郷散策のマップや、散歩をさらに楽しくしてくれる情報をたくさん提供していただけるカフェなので、気軽にご利用ください。

 

こちらも二階建ての長屋建築をリノベされた建物で、カフェなどが営業されていました。

休憩できるカフェが多いのは、散策するには助かりますし、ランチやアフタヌーンティをお目当てに町を訪れるのにもいいですね。

 

こちらが流口地蔵堂

中高野街道へ通じる大門であった流口門の傍らにあった地蔵堂です。

こちらの地蔵堂はかなり年季が入っている感じですが、虹梁や木組みの彫刻が奇麗なお堂でした。

 

府道186号線から見た流口。

中高野街道はここから喜連環濠へと続いていきます。

田畑口周辺

流口から東へ向かい、田畑口地蔵までやってきました。

田畑口は、藤井寺から古市(現羽曳野市)へと通じる古市街道に接続していた木戸口です。

古市で大和へ向かう竹内街道とも接続しており、大峰参詣の参拝路となっていたことから、地蔵堂の隣に役行者も祀られています。

平野の町内は、大峰山の道標が非常にたくさん見受けられます。

江戸時代の寺社参詣といえばお伊勢参り伊勢講が有名ですが、大峰参詣の大峰講も、大阪での人気が高かったことがうかがえますね。

 

田畑口から堀跡の道路に沿って北東へ向かうと、「まんところ」と刻まれた石柱が交差点にありました。

旧町名である平野政所町の石柱かなと思います。

 

政所は総年寄が月に一度集会を開き、平野郷の政治を行った場所で、平野政所町一丁目(現平野東2‐3)にありました(『平野郷:大阪市編入五十周年誌』)。

 

参考文献

『平野郷町史』平野郷公益会編

『平野郷:大阪市編入五十周年誌』平野振興会編

 

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