皆さんこんにちは。
奈良県内に数多く残る環濠集落の一つで、平安時代を代表する歌人・在原業平との所縁を持ち、長い歴史と中世環濠に特徴的な町並みを残します。
小さな集落ながら、聖徳太子ゆかりの古刹から名跡を継いで国の重要文化財に指定された仏像を有する寺院があるなど、思わず二度見してしまうような文化財がしれっとあるあたり、とても奈良っぽい特徴をもった集落でした。
高安環濠集落とは
場所はこちら。
JR関西本線の大和小泉駅と法隆寺駅の丁度中間くらいに位置し、大和小泉駅から徒歩約20分、法隆寺駅からは徒歩30分ほどの場所になります。
高安は、竜田越え奈良街道(北の横大路)と太子道(筋違道)という古代官道に由来する街道沿いの集落です。
1922(大正11)年の地図をベースに各街道と集落の位置関係は下掲の航空写真の通り。
集落の広さは南北約160m、東西約230m(天満宮含む、天満宮を除くと約150m)ほどで、環濠集落としては標準的な大きさかと思います。
集落の南端を太子道が走り、北側からも奈良街道に直接アクセスできるなど、非常に交通アクセスは良い場所にありました。
ちなみに太子道は、聖徳太子(厩戸王)が斑鳩宮(現法隆寺東院伽藍)から飛鳥を往来したと伝わる道で、中世以降は法隆寺街道として今井町、八木町と法隆寺近辺を結んだ街道です。
高安集落や環濠の正確な成立年代は不明ですが、後述する「在原業平の高安通い」が仮に事実なら平安時代初めには集落が存在していたことになります。
環濠の内外を結ぶ通路は、かつては3つしかなかったようで、集落内を東西南北に貫く通りは一本もなく、クランクや行き止まり、丁連字路が連続する典型的な中世環濠集落の町並みや特徴を備えています。
高安は、番条環濠(大和郡山市)や、箸尾環濠(広陵町)のような国人領主の居館から発達した環濠集落ではなく、藤森環濠(大和高田市)と同じく惣村型環濠集落で、古くから法隆寺に農地を寄進することで、その保護下にありました。
長らく国人領主の支配は受けていませんでしたが、戦国時代に筒井氏の力が強まるとその勢力圏に含まれるようになり、松永氏の侵攻後はその勢力圏に入ったとされます。
戦国時代は寺院勢力の力が弱まり、大和では筒井氏をはじめとする国人層による荘園の蚕食が顕著になりました。
高安集落もその流れの中で、法隆寺の支配を離れて筒井氏、松永氏と武家による支配を受けるようになったわけです。
江戸時代、高安村を含む平群郡は、天領、藩領(主に大和郡山藩)が混在していましたが、高安村は大和郡山藩領として明治を迎えました。
業平橋
さて、いよいよ集落に入っていこうと思います。
こちらは高安集落の西を流れる富雄川に架橋された業平橋。
太子道のルートであり、現在歩行者専用の橋となっています。
橋の名前の由来は、もちろん平安初期の貴族・在原業平です。
業平が、領地である櫟本から河内国高安に住んでいた恋人の許に毎日通っていたという伝説がありますが、この時業平が通っていたとされるのが、集落のすぐ北を通る北の横大路こと業平道。
稀代のプレイボーイで知られた業平に、村の美人を連れ去られては敵わないと考えた高安の人々は、娘の顔に鍋墨を塗って醜く見せたという伝説が残されます。
また元々、高安集落の村名は、集落の脇を流れる富雄川にちなみ「富の小川村」と呼ばれていましたが、後に村の人々は業平を偲んで「高安村」と名付けたとも伝わります。
ちなみに業平が通った高安は、河内国の高安ではなく、ここ斑鳩の高安集落だったという説もあるようですね。
現在の西名阪自動車道、天理IC付近にあった櫟本の邸宅(現在は在原神社となっている)から、「高安」の恋人の許へ毎日通ったということですから、電車も自動車もない時代、八尾と天理を往復するのは大変なので、こちらの集落なら毎日往復するのも現実的かなと思ったりします。
まあ、そんな時代に彼女と逢瀬を楽しむためだけに、大和と河内をせっせと往復した方が、業平の色男ぶりが際立って、伝説としては残りやすいのかなとも思います。
ところで、「業平橋」と聞くと、筆者は個人的には東京スカイツリー開業後に「とうきょうスカイツリー駅」になった、墨田区の東武線「業平橋駅」を思い出してしまいます。
都営バスの業平橋駅前発着系統の番号は、業平橋駅の名前から一字を採って「業10」となっていましたが、駅名やバス停名が変わった現在も、発着系統はそのまま「業10」のようです。
若い子や新しく東京に来た人は「業って何?」って感じになるんでしょうね。
もっとも墨田区の地名に「業平」は残り、大横川に架橋された業平橋も健在ではあるんですが。
少し話がそれましたが、業平橋は奈良県斑鳩町や東京都墨田区以外にも埼玉県春日部市や兵庫県芦屋市にもある他、日本全国に在原業平ゆかりの旧跡は点在します。
平安貴族で、ここまで全国に伝説を残した人物って、業平以外いないんじゃないでしょうか。
業平橋の東詰に歌碑とお地蔵さんがありました。
歌碑に刻まれた歌は、源忠季の「君か代は富のを川の水すみて千年をふ共絶しとそ思ふ」(金葉和歌集巻五「賀」)。
富雄川は古来和歌の名所として知られ、江戸中期の観光ガイドブック『大和名所図会』にも登場します。
環濠
それでは、高安集落を囲む環濠を巡っていきます。
天満神社の周囲
天満神社の周囲の環濠は幅2m強ほどで、環濠西側とともに集落でもっとも幅広の堀です。
農業用水路として今も使用されているため、十分な水量が流れるよう、幅広の水路になっています。
天満神社側には土塁の跡と思しき盛り上がりが見えます。
南西~南側
天満神社のすぐ南西側に、集落への出入り口があります。
天満神社境内を含む付近の小字は大門とあります。
小字が示すよう、こちらの出入り口には集落の玄関口に相当する門があったのだろうと考えられます。
場所的にも、この出入り口から南ヘ進むと太子道につながるので、集落の表玄関にふさわしい場所ですね。
どのように門が建てられていたのかは不明ですが、1891(明治24)年に作成された『生駒郡神社(元平群)』の天満神社実測図を見ると、神社の西側は「田」となっており、上掲写真の白壁の建物の右(写真東)側は江戸時代以前は田圃で、集落への入り口は西(写真左)へ屈曲していました。
なので、門は出入り口に正対せず、西へ屈曲した道路をふさぐように建てられ、堅固な防御力を持つ枡形になっていたかもしれません。などと、ついつい城好き目線で見てしまう場所(笑)
堀は集落に沿って西へ進み、途中で南へ折れます。
天満神社南西の出入り口から南に進むと太子道(筋違道)に接続して、飽波(東安堵)方面へ道が続きます。
集落の南端で堀は西へ屈曲してさらに続きます。
南堀はほぼ側溝のようになっていました。
集落南側の入り口。
大変細い出入口で、南堀はここから西は暗渠化され、一部側溝以外は宅地の中に入って埋められてしまっているようでした。
西~北側
西側の堀跡は農業用水路として活用されているためか幅広です。
北側の堀は南側と同じく、ほぼ側溝になっていました。
かつて北側にあった唯一の出入り口。
非常に幅が狭い道路で、大人がすれ違うだけでいっぱいいっぱいの広さです。
集落内
集落内の通路は非常に狭く、ほとんどの場所が自動車通行不可です。
集落の中央、道路が集まる辻に少し広い空間があり、自治会の物入やごみの収集スペースになっていました。
集落内の「広場」は奈良盆地の古い集落には特徴的な空間で、他の惣村型集落でも中心寺院の門前などに見られ、一般的には集会所のように使われていたとされます。
こちらの場所も、集落の中心寺院からすぐ南側にあたり、住人たちの共有スペースとして現在も引き続き利用されているのかと思います。
本尊は阿弥陀如来で、創建年など詳しい由緒は不明ですが、元は真言宗寺院であったと伝わります。
出典は不明ながら松永久秀が信貴山城の出城として高安山に出城を築いたときに、その鎮護寺として創建したとも伝わるとのこと。
久秀が築いた高安城からかなり離れていますが、久秀の傘下にあった時代もあり、村名が城地と同じ「高安」であったことからこの地に鎮護寺を建てたのかもしれません。
勝林寺で特筆すべきは、かつて西安堵にあった高安寺の名跡を継ぎ、その寺宝を受け継いだ寺院であることです。
高安寺は、聖徳太子創建と伝わる古刹で、中世以降は常楽寺と呼ばれ、東安堵の極楽寺(こちらのお寺も寺伝でルーツは常楽寺とされる)とともに飽波神社(牛頭天王社)の神宮寺でした。
高安の小字「寺北」は高安寺の境内北端を意味していたとされますので、下掲の「高安寺跡」付近にあったお寺だと推定されます。
明治初頭に高安寺の所属を巡って高安と西安堵で争論となったそうで、土地は西安堵、建物、仏像、什器は高安のものとすることで決着。
高安寺の大日堂とともに本尊をはじめとした4体の仏像が高安の天満神社境内に移されました。
この時に高安寺は廃寺となった模様で、勝林寺が高安寺の名跡を継ぎ、本堂には武田耕雲斎筆による「高安寺」の扁額があるとのこと(『奈良県史6 寺院』)。
※幕末の水戸藩家老で天狗党の乱のリーダーとなった武田耕雲斎のことだと思うんですが、高安寺や本寺との関係がどうしてもわからず。。。謎が多い扁額です。
高安に移された大日堂本尊の木造大日如来像は鎌倉時代、元々高安寺本尊であった木造薬師如来坐像や、木造十一面観音立像、木造聖観音立像の3体は平安時代の作で、特に平安時代作の3体は戦前は国宝、現在は国の重要文化財に指定されています。
大正の初めに大日堂は老朽化のため取り壊され、4体の仏像は勝林寺に移転しましたが、重要文化財の3体は奈良国立博物館に現在寄託されており、なら仏像館でタイミングが合えば鑑賞することができます。
※重要文化財・十一面観音立像のお姿は、↓こちらの記事でぜひご覧ください。
勝林寺の十一面観音立像は、かの白洲正子も関心を寄せた平安時代の名品ということもあり、陳列されている頻度が高いようです。
勝林寺裏の高安公民館の前で、路地は大きくクランクします。
集落北の環濠外に抜ける路地も、いわゆる武者隠しのクランクがあります。
高安天満神社
最後に高安集落の北東に鎮座する天満神社にやってきました。
創建年代、由緒は不明の旧村社で、祭神はもちろん菅原道真です。
こちらは拝殿。
拝殿の奥に、社殿があります。
社殿の傍らに佇む御神牛。
天満宮にはなくてはならない臥牛像ですね。
丹塗りが鮮やかな本殿です。
本殿の北側に境内社の厳島神社(祭神:市杵島姫命)と在原神社(祭神:在原業平)が鎮座します。
左右どちらが、どの神社なのか、残念ながら確認できず。。。もともと在原神社は別の境内で独立した神社だったので、大きい方が在原神社でしょうか。
1892(明治25)年の『生駒郡神社明細帳』には、天満神社の境内社は厳島神社のみ記載されており、在原神社は天満神社境内の北側、小字坊屋敷所在の神社として記載されていました。
おそらく1906(明治39)年の神社合祀令に従って天満神社内に移されたのだろうと思います。
ところで、この神社合祀令による神社の統廃合で、奈良県では約40%の神社が姿を消したとされます。
神社合祀は「地域の史跡と古伝を滅亡させるもの」と、稀代の博物学者・南方熊楠や民俗学の権威・柳田国男らが反対運動をおこし、1920(大正9)年に貴族院で「神社合祀無益」の決議によって終息するまで続きました。
明治の宗教政策では一般に神社が保護され、仏教が排撃されたイメージがありますが、神道を伊勢の神宮を頂点とする「国家の宗祀」と位置付け、国家統制の下、第二次世界大戦の敗戦前まで非宗教化してしまったことは、日本固有の神に対する信仰の形をすっかり破壊してしまいました。
筆者は明治の神仏分離令以来の宗教政策で、最も壊滅的な信仰の破壊を受けた宗教は「神道」であろうと考えます。
最近では、神社をスピリチュアルなパワースポットとして再び人気が高まってきていますね。
ふんわり、ユルい感じの風潮と捉えられる向きもあるでしょうが、本来の神社信仰に原点回帰していると言えるかもしれません。
石碑奥のフェンスの先は現在藪になっていますが、廃寺となった西安堵の高安寺から移築された大日堂と庫裏がありました。
1891(明治24)年作成の見取図に、五輪塔の北側にある庫裏と大日堂の往時の姿が描かれています。
五輪塔は当時のままというのがよく分かりますね。
先述の通り、大日堂は大正の初め頃、老朽化により取り壊され、本尊の大日如来坐像と高安寺から伝わった3体の仏像は、勝林寺へ移されました。
斑鳩町HPによれば大日堂の礎石は現在見ることはできないものの、「円形削り出しの古代寺院の礎石の様」であったとされ、江戸時代以前から当地に仏堂があったこと示唆するお話だと思います。
江戸時代以前の奈良県の環濠集落で、神社とお寺が一体化している例は、藤森環濠(大和高田市)や若槻環濠(大和郡山市)でも見られ、高安環濠も同様だったとしてもおかしくありません。
小字名も「坊屋敷」と僧侶の住居があったことを示唆する名前で、大日堂が移築される以前から、仏堂のあるエリアだった蓋然性は高いんじゃないでしょうか。
発掘すれば、江戸時代以前の建物の礎石も見つかるかもしれないですね。
もし発見されて、様式的に古いものなら、集落の成立年代を測るうえで大きな証拠になるでしょう。
天満神社北側の竹藪の一角に、駐車場?なのかコンクリートで地面を固めた一角があります。
この付近に現在は天満神社の境内社となっている在原神社の境内がありました。
下掲の境内見取図は1891(明治24)年に作成されたもの。
26坪の細長い境内に小さな社殿が建っていた様子が分かります。
現在の境内社と形状が同じことから、こちらの社殿が移築されたのだろうと考えます。
集落北東の天満神社周辺は現在半分以上が竹藪になっていますが、かつては下掲のように、宮寺を中心として3つの寺社が並ぶ集落の人々の祈りの空間でした。
もし現在まで各境内が往時の姿のまま残り、大日堂に重要文化財の3体の仏像が残されていたら、今頃仏像女子の注目スポットになっていたかもしれないですね。
世界遺産の町・斑鳩町にあって、高安環濠集落は全く観光地化されていない静かな農村集落ですが、環濠の町並みだけでなく集落や寺社の由来、保有する文化財について調べ始めると、キリがないくらい底知れぬ奥行きの深さがありました。
流石は太子道沿いの環濠集落ですね。
■参考文献
『奈良県史6 寺院』