皆さんこんにちは。
大阪市平野区の中心街区は、中世から江戸時代まで巨大な環濠に囲まれた環濠都市で、平野郷と呼ばれていました。
平安時代に始まる古い歴史を誇る町で、随所に見どころをもつ絶好の散歩スポットでもあります。
今回は下図の範囲、平野郷の西部を中心に、その見どころをご紹介します。
馬場口
JR平野駅南口から駅前通りを南下して、国道25号線の大念佛寺北交差点に到着します。
この交差点のすぐ南側に、平野郷に13あった木戸口の一つ、馬場口がありました。
馬場口は、竜田越え奈良街道から大念佛寺へ向かう参詣道で、木戸門に併設されていた馬場口地蔵堂が現在も残っています。
青い頭巾が鮮やかなお地蔵さんです。
大念佛寺
大念佛寺は平安時代の末期、融通念仏宗を興した良忍が、1127(大治2)年に四天王寺で聖徳太子から「杭全郷に念仏道場を建てよ」との夢告を受け、これを聞いた鳥羽上皇の勅願で平野郷に建立された日本最初の念仏道場を起源とします。
戦国時代まで寺地が定まっていませんでしたが、1615(元和元)年に平野の代官となった豪商・末吉孫左衛門吉安から寺地の寄進を受け、現在地に大伽藍が整備されました。
江戸中期の寛政年間に出版された摂津名所図会にも、見開きでその姿が描かれています。
参道の北側に、環濠と馬場口門、地蔵堂の姿が描かれ、大念佛寺の周囲は町屋の屋根が隙間なく並んで、往時の町の繁栄ぶりが偲ばれます。
山門は1706(宝永3)年に再建された江戸初期の建築で、融通無碍門と命名された門。
両脇に壁落ち屋根を備えた堂々たる作りです。
こちらは本堂。
1663(寛文3)年に建立された本堂は1898(明治31)年の火災で焼失し、現在の本堂は1938(昭和13)年に再建されたもので、大阪府下最大の木造建築です。
実際に見るとその大きさに圧倒されます。
経蔵は1737(元文2)年頃の再建で、大阪市指定有形文化財。
明治の火災で多くの仏堂が消失した大念佛寺にあって、貴重な江戸中期以前の建築です。
霊明殿は1156(保元元)年、大念佛寺の創建を勅願した鳥羽上皇を祀るため建立され、後に徳川家康、後小松天皇が合祀されました。
後年繰り返しで再建、修理が行われていますが、正門と回廊は江戸初期の寛永年間(1624~1644年)に造られたもので、大念佛寺の現存建築としては最も古い建築です。
あと、大念佛寺で有名なのが、「亡女の片袖・香盒」と幽霊の掛け軸。
大念佛寺の高僧に回向を頼んだ女の幽霊が残したと伝わる小袖と香盒(お香の容器)と、12幅の幽霊を描いた掛け軸が伝わり、年に一度8月の第4日曜日に大念佛寺で開館される、幽霊博物館で公開されます。
※幽霊画について紹介されている動画がありましたので、興味のある方はご覧ください。
実は、小学生からオカルト大好きの筆者にとって、平野といえば大念佛寺の幽霊画という印象だったりします。
常設展示とまではいかなくても、一週間くらい公開期間を設けてくれると嬉しいんですけどね。
こちらは南門。
平野小学校表門となっていた古河藩陣屋門を移築したものと案内に記載されていますが、実際は解体した陣屋門の古材を一部再利用して作られた門です。
下掲が平野小学校時代の門で、陣屋門が長屋門なのに対し、現在の南門は薬医門で全く形が異なるのが分かります。
門扉の部分が旧陣屋門の部材が使われているそうで、一部ではあるものの、旧陣屋の面影を残す建築です。
小馬場口は大念佛寺の参道の一つで、平野の散郷であった今在家(今川)、新在家(杭全)と接続していました。
新調されたらしく、真新しいお堂でした。
町屋集中エリア
大念佛寺の南東、平野上町一丁目、二丁目にまたがるエリア(旧馬場町~旧泥堂町)は、江戸時代からの町屋がまとまって残っています。
こちらは江戸期の農家。
町並みを保存するため、江戸時代の様式に合わせた修景が行われています。
こちらの駐車場は隣接する蔵に合わせて町並み修景されたもの。
こちらは(西)末吉家住宅西蔵。
江戸時代初期から中期(1661~1750年)にかけて建てられた蔵で、国の登録有形文化財です。
白漆喰が非常に美しい蔵ですね。
こちらは(西)末吉家住宅門。
こちらも西蔵と同時期の建築と見られ、国の有形登録文化財に指定されています。
末吉家は坂上氏の子孫を称して平野郷の指導的役割を果たした七名家の一つで、戦国末期の天正の頃、26代当主末吉勘兵衛利方は廻船業で大きな財を築きました。
その財力の高さは、1579(天正7)年に吉野山に桜を1万本寄進したという記録からもうかがえます。
利方は畿内に進出してきた信長とそれに続く秀吉に協力し、1586(天正14)年には代官として、平野郷周辺の年貢徴収を任されるようになりました。
利方は秀吉だけでなく江戸転封前の徳川家康とも関係を深め、1588(天正16)年に家康から領地内の港へ入港自由を認める朱印状を発給されると、1590(天正18)年に家康が江戸に移った後は、関東と関西を結ぶ航路を独占しました。
家康と強固な関係を築いた利方は、関ヶ原の戦いの後1601(慶長6)年に家康が伏見に開いた伏見銀座の頭役に嗣子・孫左衛門吉安(吉康)とともに頭役に任命され、銀座の運営で莫大な利益を上げるだけでなく、徳川家との関係を深めていきます。
利方の代で日本でも有数の豪商となった末吉家は、次代の吉安が1604(慶長9)年から朱印船を海外に派遣し、1635(寛永12)年に停止されるまで、12隻の船を運用して海外貿易、いわゆる朱印船貿易を活発に行ったことでも有名です。
こちらは、1634(寛永11)年に清水寺へ奉納された額に描かれた末吉船。
当時、日本の海外貿易船は、中国のジャンク船をベースに、西洋船のガレオン船の構造を取り入れた船でしたが、船首のバウスプリットなど西洋船の構造を持つ当時の朱印船の特徴がよくわかる絵ですね。
こちらは末吉家に伝わる航海用の地図。
朱印船は台湾、ベトナム、フィリピン、タイ、マラッカといった東南アジア諸国と長崎を結んでいました。
こちらは末吉孫左衛門吉安の像。
吉安は商人でありながら大坂夏の陣後には徳川家の旗本に取り立てられ、以後、吉安の系統である西末吉家は、吉安から四代にわたって平野郷代官を務めることになります。
朱印船以外にも、吉安は大坂夏の陣で荒廃した平野郷の復興を指揮し、町割りを現在に残る形に改めた他、江戸時代に柏原~天満を結んだ平野川水運(柏原船)を計画するなど、平野郷が中世環濠集落から近世商業都市へ発展する礎を築きました。
商人が旗本になるというのは一風変わっているようにも思えますが、平野郷で指導的立場にあった七名家は、堺の会合衆のような生粋の商人ではなく、元々、平野郷の各町を治める領主に近い存在でした。
なので末吉家については、商人が領主化したというより、土着領主が盛んに経済活動を行って豪商化したと捉えた方が、実態に近いでしょう。
こちらは江戸期の元質商の大きな蔵。
こちらは江戸時代の商家(油商)藤岡家住宅で国の登録有形文化財です。
江戸末期の1830~1868年頃の建物で、こちらも修景されているため、白壁が美しい建築です。
こちらは江戸時代の町屋ではありませんが、塚本修光堂書店さん。
昭和初期頃と思しき住居店舗兼用の看板建築で、菱形模様の戸袋がおしゃれですね。
江戸時代以前の古建築は文化財として認識され保存の機運も高くなるのですが、明治以降、とくに昭和初期の建築は逆に残りづらくて貴重と言えます。
田邊道西脇口~長寶寺
大念佛寺門前の馬場門筋を南へ進み、市門筋との辻に小さな道標があります。
左 かしわら ふちゐ寺(藤井寺)道
とあります。
こちらは田邊道西脇口地蔵堂。
その名が示す通り田辺方面へ抜ける出入口にあった地蔵堂です。
かつては堀を背にして東向きに建っていましたが、堀を埋め立て道路を延伸した際に、現在の位置に移動され、北向きに建て替えられました。
田邊道西脇口地蔵から菜市筋(新町筋)を東に戻ると、浄土真宗本願寺派寺院の鷲谷山光永寺の山門が見えてきます。
こちらは1496(明応5)年、坂上田村麻呂の後裔・釋明鎮が、本願寺八代法主蓮如に帰依して創建された寺院です。
江戸時代までは平野御坊と称しており、山門東側にそびえる立派な太鼓楼は、御坊の名にふさわしい堂々たるもの。
大同年間(806~810年)に坂上田村麻呂の娘で桓武天皇の妃・春子が、天皇の崩御後に出家して、天皇の菩提を弔うため創建されたと伝わる古寺です。
以来尼寺で、坂上氏に女子があるときは住職として入りました。
案内板によれば、後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に逃れる時に立ち寄り、その時杭全神社に勅額を下賜したとありましたが、杭全神社の社伝では勅額は後醍醐天皇が即位した1321(元享元)年に賜ったとあるので、食い違いがあります。
住吉郡の社寺は杭全神社、住吉大社とも一貫して南朝方で、南朝との深いつながりを示す寺伝かと思います。
摂津名所図会でも絵入りで紹介されており、現在大師堂のある場所が田村社となっているのが分かります。
こちらが現在の本堂。
『平野郷町誌』によると天保年間(1830~1844年)再建。
こちらが密祖堂(大師堂)。
江戸時代までは坂上田村麻呂像を祀り、田村堂(田村社)と呼ばれていましたが、明治の神仏分離令で、杭全神社大師堂の弘法大師像がこちらに移され、替わって坂上田村麻呂像が杭全神社境内の大師堂へ移され、現在の田村神社となりました。
こちらの鐘は1192(建久3)年の銘があり、国の重要文化財。
門前の案内板には、鐘は大阪市立美術館に寄託していると書かれてありましたが、見た感じは下なり古そうな梵鐘で、鐘楼も新たに修築されていたことから戻ってきてるみたいです。
お寺のHPにも寄託していることは書かれてなかったので実物でしょう。
鐘楼の修築を機に帰ってきたものと思います。
平野南海商店街
旧西脇門筋まで戻ってくると、平野南海の看板が見えてきました。
南海電鉄の沿線でもない平野区に南海?と訝しむ方もいらっしゃるでしょうが、この商店街の名前の由来は後程ご紹介します。
本町通(樋尻口筋)のアーケードが見えてきました。
平野本町通商店会「サンアレイ」の大きな看板が目に飛び込みます。
本町通のアーケードは東西約420mと、かなり規模の大きなアーケード街です。
ちなみに一見、ひとつの商店街に見えますが、実は西から平野本町西商店街、平野本町通商店街、平野中央本町通商店街と3つの商店街に分かれています。
アーケードから少し南、旧西脇門筋から小さな路地を東に入ったところに、西脇口地蔵堂があります。
西脇口は南口とも呼ばれ、住吉、堺方面へ続く八尾街道に接続していました。
こちらも少し見つけにくい地蔵堂ですが、地図を片手にあちこち迷いながら目的地を探すのも、平野郷散策の醍醐味です。
こちらの地蔵堂の前は「西脇口おじぞうさん広場」と呼ばれるスペースが整備され、ベンチや防災用の手押しポンプ付き井戸が設置されています。
さて、かつての西脇口を出てすぐの場所に、遊歩道「プロムナード平野」が西へ向かって伸びています。
この遊歩道、実は廃線となった南海平野線の平野停留所と廃線路跡に整備されたものなんです。
平野南海商店街は、元々南海平野線のターミナルだった平野停留所の駅前商店街でした。
現在の平野周辺をイメージされると、どうして平野がターミナル?と思われる方もいるかもしれません。
現在、旧平野郷より南東部は八尾・柏原に至るまで、ぎっしりと住宅地になっていますが、当時の平野郷周辺は、見渡す限りの田畑が広がっていました。
1931(昭和6)年の地図を見てもわかるよう、平野郷が大阪市から南東地域では突出して巨大な町だったことが分かります。
この平野郷から旧住吉郡東部の各集落と大阪市中心部を結ぶため、1914(大正3)年に開通したのが南海平野線でした。
南海平野線は今池と平野を結ぶ路線でしたが、途中停留所の阿倍野と終点今池でそれぞれ阪堺電車と相互乗り入れを行い、平野からは恵美須町行と天王寺駅前行が、それぞれ3~12分間隔で運行されていました。
長らく平野、東住吉、阿倍野区民の身近な路線として活躍しましたが、市営地下鉄(現大阪メトロ)谷町線の敷設が決まると、路線が重複する南海平野線は廃線が決定。
1980(昭和55)年11月27日に谷町線が開業すると、翌日11月28日に南海平野線は廃線となりました。
プロムナード平野については、下記の記事で詳しくご紹介していますので、ぜひご一読ください。
南海平野線廃線からすでに40年以上経過していますが、商店街に「南海」の名を冠し続けるあたり、住民の平野線に対する愛着を感じますね。
プロムナード平野の前にある、かつてはお店だったと思しき可愛い看板建築の住宅。
商店街の南端角のマルヨ精肉店さんは、コロッケも評判の高い、町のお肉屋さんです。
こちらも昭和初期の二階建て長屋建築で、お隣は酒屋さんになっています。
五角形の間取りがいい味出してますね。
江戸から昭和にかけての多様な町屋や商店の建物が、現役で今も稼働しているのを見られるのが、平野を散策するうえで大きな魅力です。
参考文献
『平野郷町史』平野郷公益会 編
『大阪の歴史 (52)』大阪市史編纂所 編
『日暹交通史考』三木栄 著
『朱印船貿易史』川島元次郎 著
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